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国鉄キハ55系列気動車とその歴史・塗装に関する研究

平成28年度入学 理科一類 横コツ

 

1. はじめに

 突然であるが、国鉄キハ55系列気動車をご存知だろうか。

読者諸氏の中でも御年配の方の中には、キハ55系列の実車をご覧になったという方がいらっしゃるものと思われる。一方で、国鉄では1986年に全廃された車両であり、残念ながら保存車両もないことから、私と同年代では全く縁がないという方が多くを占めるのではないだろうか。

 筆者自身昨年12月までは、その存在すら知らなかったのである。残存車がないため、キハ55系列を初めて知ったのも、秋葉原の鉄道模型店であった。ある日何気なくNゲージを物色していた筆者の眼の前に、彼女たちは姿を現した。ショーケースに飾られた気動車の中に、黄色に赤帯の準急色をまとったキハ55系列がいたのである。キハ20系に似た前面ながら、平滑な側面で塗装も華やか、これが1956年登場の形式と最初に聞いた時は耳を疑った。

 その日から、パソコンにかじりつき、部室の古い資料を読み漁り、キハ55系列を徹底的に調べて行く日々が始まった。そこで知ったのは、その複雑な経歴と、幾度にもなる塗装変更の歴史であった。そして、今回の駒場祭発表テーマが「色で見る鉄道」と決まったことを悪用し、その塗装と歴史を紐解いてゆくことを決めたのである。

 キハ55系列気動車は登場時の準急色から初期急行色、キハ58系と同タイプの急行色、末期の首都圏色(タラコ)に至るまで複雑な塗装変更を行っている。今回の研究では特に準急色をメインとして取り扱い、キハ55系列の歴史と絡めて、同系の塗装が国鉄に与えた影響を議論したい。

 

2. キハ55系列の歴史

2. 1. キハ55系列開発の契機と登場前夜

 キハ55系列は、1956年から1961年にかけて、日本国有鉄道(以下国鉄と称す)により製造された、準急用気動車である。趣味者、研究者の間では、キハ55型、キハ26型、キロ25型、キロハ25型を中心とし、それに強力機関試作車のキハ60型、キロ60型と、キハ55型などを荷物車、郵便車に改造した形式を含めて「キハ55系列」と定義されることが一般的(国鉄制式名ではない)であり、本研究においてもこれに倣いたい。

 

 キハ55系は初の優等気動車であることに加え、構造上も特筆されるポイントがある。1950年代当時の国鉄は動力近代化の真っ最中であり、蒸気機関車牽引の客車列車を置き換える切り札として、気動車が注目されていた。しかし、当時最新のローカル用気動車であったキハ45000系列(のち改称されキハ10系列)は、日本気動車史上初の量産型液体式車両ながらも、非力なDMH17系エンジンに対応するため徹底した軽量化が求められ、狭い車体(2600mm、電車に比べマイナス200mm)に貧弱な座席という不満の残るものであった。このキハ45000系列の車内は圧迫感があり、ボックスシートは内部の仕切りがなく、後ろに座った人の体の動きが直接伝わってくるという有様であり、加えて台車(DT19系)の設計も古く、十分な防振性能を持たず乗り心地が悪かった。当然のことではあるが、優等列車に用いるには最低限在来型の客車と同等のサービスを提供する必要があり、キハ10系列では限界があった。

 

 やや話がそれるが、キハ10系列が装備していたDMH17系エンジンというのは戦後の日本の気動車に非常に広く利用されたエンジンであり、我が国の気動車発展の歴史を語る上で必ず触れねばならない重要な存在である。そのため本稿においても概要を説明する。

 まずDMは「Diesel Motor」であるからディーゼルエンジンの形式名である意、Hとは、8気筒(Hはアルファベットの8番目)の意である。17は排気量が17Lであることを示している。このエンジンの原設計は古く、1932年に開発され、戦前の国鉄ガソリンカーに使用されたGMF13系という出力100PS6気筒ガソリンエンジンにまでさかのぼる。これを大型8気筒化したものがGMH17150PSガソリンエンジン(のちキハ07系に改番されるキハ42000系に採用された)であるが、それをさらに経済性に優れたディーゼルエンジンとして再設計して、DMH17系が誕生したのである。

 設計が古いということで、重量に対して出力が弱く、気動車用として使用されたものに限れば最大でも180PSしか出せなかった。しかし、当時の日本のエンジン技術のレベルは低く、代替品となる大出力エンジンの開発が進まなかったこともあり、国鉄はこのDMH17系を標準仕様とした気動車開発にこだわり続けたのである。

 

 また、DT19系台車というのは、気動車の総括制御を目指して開発されたキハ44000系電気式気動車(従来の機械式気動車は2両以上の総括制御ができず、増結時は各車に運転士が必要となる)に採用された直角カルダン駆動のDT18系台車の発展系である。電気式気動車は、エンジンの回転で発電機を回し、それをモーターに伝えて走行するため、電車と似た構造になる。ただ、直角カルダン台車には振動を吸収する「揺れ枕」という部材を取り付けにくいという問題があり、これを防振ゴムの塊で代用したのがDT18系の特徴の一つである。しかし、結果として防振性能不足から乗り心地が非常に劣悪なものになったことは言うまでもない。そして国鉄の電気式気動車は最終的に成功せず、液体式気動車が発展することになるが、なんらかの理由で液体式気動車に用いる台車(直角カルダンではない)にもこの防振ゴムが引き続き使われてしまい、それゆえ酷い乗り心地までもが引き継がれてしまった。これがDT19系であるが、新設計のDT22系台車ができるまで、無煙化の陰で乗客たちは不快な乗り心地に我慢せねばならなかった。

 

 長くなったが、本題に戻ろう。国鉄はこれら車体の小ささ、エンジン出力、台車の問題を重く見て、気動車の改良に乗り出した。まず馬力が足りないことへの対応は、出力160PSDMH17B型エンジンを2台搭載する試みがなされた。性能を上げるよりも短期間で実施できることから、自然なことであろう。1954年に、このキハ45000系列の2機関強力型である「キハ44600型(のち改称しキハ50型)」が2両誕生する。同車は期待通り2エンジンの威力を発揮し、関西本線の25‰勾配区間において、従来の登坂均衡速度23km/hに対して41km/hという極めて良好な数値を叩き出した。この車両はエンジンをレール方向に2台積むことから、車体長が22mほどと一般の車両に比べて非常に長くなり、それにともなう問題が起きたものの、第2作の「キハ44700型(同じく、のちキハ51型)」ではシャフトを短縮するなどして20.6mに抑えている。これら2形式の強力気動車は、名古屋-湊町(現JR難波)間の準急列車に投入され、両駅間を最短3時間以内で結んで高速化に貢献した。しかし、この両形式も車体は相変わらず小さく、台車もDT19系を用いていたため、さらなる改善がもとめられた。

 

2.2. キハ44800型登場と準急「日光」

 残る諸問題を解決すべく、国鉄技術陣による改良が続けられた。今度は野心的な設計が取り入れられ、1956年に新設計の気動車が登場した。居住性問題に対しては、当時スイスの技術を導入して製造が始まっていた10系軽量客車の設計手法を流用することで、客車並みの大型車体を実現し、接客設備も改善されたのである。台車の改善は後回しになったが、それものちに新設計のDT22系に更新されている。

 この新設計の気動車こそが、のちにキハ55系と呼ばれ、我が国の鉄道史に名を残すことになる「キハ44800型」であった。最初に試作された5両(キハ44801-キハ44805号)は、当時の宇都宮機関区に配置され、19561010日より上野-日光間の準急「日光」の運用に投入された。当時の国鉄の日光方面の観光輸送は、性能とサービスに優れた東武日光線の1700系による特急に押されて苦戦気味であり、キハ44800型はその状況打開のために期待されたことが投入の背景にある。

 

 日光線は宇都宮から分岐して男体山麓へ向かう勾配路線であり、最大傾斜25‰の難所である。準急運転開始前の上野-日光間の所要時間は、3511快速「日光」が2時間32分、キハ45000系列1機関気動車による快速列車は2時間43分を要していた。3511列車は4動輪で粘着性に優れるD51SLの牽引で、時間的に1機関気動車より優位であった。

 では期待の準急のダイヤを見てみよう。なんと、日光線内で上り坂となる下り日光行3505Dでも2時間4分、下り坂となる上り上野行3506Dでは2時間ちょうどで走破した。2機関の威力は絶大で、改善された車内設備も合わせて好評であったという。のち運転区間も上野始発から東京始発に拡大されるが、ライバルの東武は始発駅を不便な浅草に置いていたことも影響し、国鉄準急はこれに大きな打撃を与えることになった。その後宇都宮には増備車が入り、準急「日光」は増結が常態化する人気だったという。

 

2.3. 準急色

 しかしながら、キハ44800型が画期的だったのは性能、サービスだけにとどまらない。今回の研究テーマの重要な柱である塗装について、ここで触れねばならない。従来の気動車は、鉄道省時代の標準カラーが用いられていた。この色は、113系電車などのいわゆる「横須賀色」を暗くしたようなものであり、必ずしも派手なものではなかった。客車、電車もぶどう色2号が当たり前の時代、鉄道は実に泥臭く地味な交通機関だった。

 しかしキハ44800型は、明るいクリーム色に鮮やかな赤帯を巻いて、紅葉も美しい秋の日光線を軽快に駆け抜けたのである。この初期のスマートな塗装(今でも準急色と呼ばれる)が、利用客に対するイメージアップにつながったこともまた、事実である。

キハ55型準急色のTOMIXNゲージ模型 (筆者自宅 2017106日)

 キハ55系列は古くに全廃されて保存車両もないことから、本記事では模型の写真を多用させていただくことになるが、ご容赦願いたい。

 この鮮明な塗装は、鉄道が「おしゃれ」になりつつある現代においても通用するのではないだろうかと私は思う。これが、まだ色彩に乏しかった1950年代の上野駅に現れたことを考えれば、その当時乗客たちが受けたインパクトは非常に大きかったであろう。

 

2.4. 1957年度の増備決定と勢力拡大

 準急「日光」は、運転開始当初こそ臨時列車の列番を与えられていたが、大成功を受けて19561119日のダイヤ改正で定期化された。そして、翌年41日には国鉄全体で車両形式、番号付与方法が変更される。この車両称号規定改正により、キハ44800型は「キハ55型」の新しい名を与えられることになった。試作車5両はこの時、キハ55型の1号から5号までの車番に変更された。

 この1957年度に、キハ55型は2次量産型41両(キハ556-46号)の増備が行われる。試作車と比較して以下のような改良が加えられている。

 

・ボックス席に小テーブルを設置

・試作車では白熱灯で照明を取っていたが、これを20W蛍光灯16本に変更

・試作車にあった車両後部の補助席をやめ、代わりに洗面所を設置

・前照灯及び運転席、助手席窓を大型化して前方視認性を向上

・警笛を貫通路上部にある前照灯の両脇に位置変更

・キハ5516号以降は台車をDT22型に変更し、乗り心地を改善

DMH17B型機関を改良し、出力を160PSから170PSに向上

 

 これら増備車は、準急「日光」用に追加されたものの他、名古屋、田端、人吉の各機関区と、福岡の竹下客車区に投入されている。1958322日には、高山本線を経由して名古屋-富山間を結ぶ準急「ひだ」705D706Dの運転が始まった。

 

2.5. 1958年度の形式増加と大規模投入

 1958年度のキハ55系列の製造は、キハ55型が20両、キハ26型が33両、キロ25型が13両、キロハ25型が5両の計117両となり、キハ55系列は一気に勢力を拡大した。ここで新たな形式が登場しているが、これら全てキハ55型をベースに準急列車用として用いられたことから、キハ55系列としてまとめられるのが一般的である。

 キハ55型はエンジン2台搭載の強力型であることから、もちろん主に急坂急カーブの介在する山岳区間に投入された。キハ26型はキハ55型から1エンジンを省いた車両と考えていただければよく、エンジンが少ない分ローコストで量産され、平坦区間に送り込まれた。なお、キハ26型は床下の機器配置がキハ55型と異なるのみの車両であり、キハ55型に改造することも可能な設計とされていた。キロ25型は1等車、キロハ25型は半室1等車である。キロ、キロハともに1機関搭載であるため、山岳路線ではキハ55型と編成を組むことが前提とされていた。

 

 この時製造されたキハ55型(キハ55101-120号)は、機関を出力170PSDMH17B型から、改良型180PSDMH17C型に変更され、側面窓もいわゆる「バス窓」であったものを1枚窓に変更して大型化している。これを3次量産型と呼び、車番も100番台に飛んでいる。

 キハ26型の最初の22両(キハ221-22号)は、キハ552次量産型に準ずる設計で登場しているが、年内に早々と3次型準拠の101-111号へと移っている。こちらも100番台車は1枚窓とDMH17C型機関である。

 キロ25型、キロハ25型は、キロハ251-5号のみ2等室部分がバス窓となっていたことが特筆されるが、それ以外の車両は全てキハ553次型準拠である。

 

 この時登場したキロ25型とキロハ25型の塗装であるが、キハ55型の準急色に倣うものの、車体側面1等室部分の帯は青系に変更されている(いわゆる等級帯である)ことが特徴である。キハ26型の塗装は、キハ55型準急色と全く同じである。

キロハ25型のTOMIXNゲージ模型、等級帯が認められる (筆者自宅 2017.10.07.

 1958年度の増備を受けて、同年425日には国鉄で初となる気動車急行列車が誕生した。51日には早速定期化され、「ひかり」の名が与えられたこの列車は、博多と別府を結んで、のちに大分から熊本まで延長されている。そして、この国鉄最初の気動車急行に投入されたのも、キハ55系列車両であった。編成はキハ554両とキハ262両で組成され、うちキハ26型は博多-別府間の増結車となっていた。このキハ26型は、上下の「ひかり」が交換する別府駅で停車中に車両を入れ替えるというおもしろい運用であった。

 しかしながら、急行列車では料金が230円(当時)と高く、利用は伸び悩んだようである。そのため、同年81日に準急(料金120円)に格下げとなり、この時からキロハ25型も連結された。

 

 一方、関東でも動きがあった。195861日に、常磐線上野-平(現、いわき)間に準急「ときわ」が一気に3往復も設定された。従来はキハ51型で運転されていた快速を格上げしたもので、朝、昼、夕に1往復ずつがあった。編成はキハ552両、キハ263両、キロハ251両で組まれていたが、最初は車両が足りず従来のキハ51型や、キハ10系列の半室1等車キロハ18型も混用されていたという。キハ55系列は大幅な勢力拡大を遂げたものの、増加一方であった需要に対応するためには見劣りする旧型車も否応なく酷使されていた時代だったようである。

当会レイアウトを走行する準急「きのくに」編成の模型列車 (学生会館211号室 2017.5.10.

 他、同年111日四国では高松桟橋(のち高松駅に統合)-松山間に準急「やしま」が高松機関区キハ263両の編成で設定されたり、121日には紀勢本線白浜口(現、白浜)-天王寺間に準急「きのくに」(奈良機関区キハ555両およびキロ252両、旅行需要が多くキロが2両も用いられた)が新設されたりと、全国でキハ55系列を使用する列車の登場が相次いだ。1959年に入り、21日には東北本線福島-盛岡間に準急「やまびこ」が1往復設定されたが、こちらはキハ552両をキハ25型(当時新鋭のキハ20系列普通気動車の片運転台型)でサンドイッチするという編成であった。おそらくキハ26型が少なかったためであろう。

 

2.6. 1959年度、さらなる大量増備

 1959年度の増備車両はキハ5571両(121-291号)、キハ2656両(112-167号)、キロ2525両(14-38号)の152両となり、58年度を上回る勢いで投入が続けられた。

 1959420日には木次線、芸備線経由の米子-広島間準急「ちどり」および「夜行ちどり」が運転を始め、従来のSL快速列車より1時間の時短を実現している。「ちどり」のルートでは、芸備線と木次線の接続駅である備後落合駅で方向が変わるほか、木次線内の出雲坂根駅には連続3段スイッチバックが存在するが、気動車化により機関車付け替えの手間がなくなり、急坂に対してもキハ55型の2機関が効果的に働いたことが理由として容易に推測される。

 51日には熊本から肥薩線を回って宮崎へ至るルートに準急「えびの」が設定され、キハ55型2両のコンパクトな列車ながらも、やはり勾配区間で2機関の強みが活かされた。

 71日には、盛岡-青森間の「八甲田」、盛岡-花巻-釜石間の「はやちね」の各準急列車が運転開始、715日には紀勢本線の最後の未開業区間が開通し、「きのくに」が増発されている。この時、南海電鉄の難波駅を発着し、国鉄の「きのくに」に併結する列車が設定されている。車両は南海の受け持ちで、国鉄キハ55型に準じた設計の車両が製造された。

 

 少し間が空いて、1959922日には、キハ55型最初の投入線区であった日光線が電化される。準急「日光」はこの時157系電車に置き換えられ、日光のキハ55型は各線に散っていった。同時に、上野-仙台間(常磐線経由)に急行「みやぎの」が設定されている。常磐線は比較的平坦な路線であるためか、キハ264両とキロ251両の1機関型のみ5両で運転されていた。

 いっぽう、キハ55型日光車の転属先としては、喜多方-仙台間の「あいづ」、新潟-郡山-仙台間の「あがの」、水戸-郡山間の「いわき」の各新設準急が挙げられよう。全て水戸機関区に移ったキハ55型が運用されていた。他にも、先ほどの「ときわ」が2往復増発されて5往復体制となった。

 西日本では、米子-博多間に準急「やくも」が登場、キハ263両とキロ251両の4両編成で活躍した。山陰本線の京都付近では、天橋立や東舞鶴に向かう準急「丹後」の運転が始まり、九州では博多-西鹿児島(現、鹿児島中央)間に「かいもん」、博多-熊本間に「有明」などの準急が登場している。

 

 1020日には新宮-天王寺間に「南紀」が1往復新設される。121日には仙台-秋田間に「たざわ」、米沢-酒田間に「もがみ」といった準急が設定されている。この2列車はどちらも小牛田機関区キハ26型の4両編成で、新庄駅で一部車両を交換し、仙台-酒田間や米沢-秋田間の需要にも応えるというユニークな運用が組まれていた。

 

 1213日には、中央本線、篠ノ井線を通り、名古屋-長野間を結ぶ急行「しなの」が誕生している。山岳路線に対応すべくキロ25型をキハ553両ずつで両側をサンドイッチするという強力編成で、約4時間半(客車時代より1時間短縮)で走破する実績を上げた。

 

 1960年に入り、25日には博多-大分-久留米-博多のルートを通る循環列車として、準急「ゆのか」が登場している。215日には高松-須崎間に準急「土佐」が設定された。キハ55系列準急列車は増加する一方で、国鉄線を賑わわせていった。

 

 また、19601月には、貧弱なDMH17系エンジンに変わる強馬力機関DMF31HSA型(出力400PS)を搭載した試験的な車両として、キハ602両およびキロ601両が製造され、千葉気動車区に配置されている。しかしながら、2軸駆動などの新機軸が裏目に出て信頼性が悪く、キロ60型は翌年に機関をDMH17H型(出力180PS)に換装された上、1967年には普通車格下げとなっている。キハ60型はさらに不遇で、予備車扱いとされ、海水浴シーズンなどに付随車代用で増結される程度の運用しか与えられなかったという。せめてもの救いは、キハ60型も従来型のDMH17系エンジンに換装した上で、1978年まで久留里線で細々と運用されていたということである。キハ37やキハ38などマニアックな車両がかつて運用されていたことで有名な久留里線であるが、必要車両数が少ない路線であり、試作的な少数形式でも問題なく運用できたのだろうか。

 

2.7. 1960年度、最後の増備

 キハ55系列は、意外にも早く全ての車両が出揃う事となった。1960年度増備車をもって、一切の投入が終結したのである。この時の投入数は、キハ5579両(192-270号)、キハ26105両(168-272号)、キロ2526両(36-61号)である。強馬力試作車キハ60型、キロ60型を含めると、489両が製造されたことになる。

 

 1960年度増備を受けて、425日には中央本線新宿-松本間の急行「アルプス」、準急「白馬」が運転を始めている。松本機関区配置のキロ251両とキハ555両の強力編成で山岳路線を走り抜けた。

 

 同年61日のダイヤ改正では、新製車を主に利用する形でさらに準急、急行列車が設定されることになった。山陽本線岡山-博多間の急行「山陽」、岡山-岩国間の準急「にしき」、呉線経由岡山-広島間の準急「吉備」などが設定されている。また、九州でも既存準急の増発が相次いだ。新しい列車もあり、別府-西鹿児島間には準急「日南」が現れている。

 東北では仙台-盛岡間に準急「くりこま」が新設され、同時に設定された一ノ関-盛間の準急「さかり」を盛岡-一ノ関間で連結していた。水戸-仙台間には準急「そうま」が登場し、水戸-平間では既存の「いわき」と連結する運用が組まれた。福島-盛岡間の準急「やまびこ」は、郡山まで区間延長されている。

 

 71日には、本州以南から1ヶ月遅れで北海道内のダイヤ改正が実施された。この時、千歳線経由で札幌-函館間を連絡する急行「すずらん」の運転が始まった。キハ262両、キロ252両、キハ554両の堂々たる8両編成で、SLがメインであった北海道の鉄道の改良の第一歩となった。ただ、キハ55系列は北海道の冬に対応できるほどの耐寒装備は備えていなかったため、60-61年の冬は「すずらん」の主力をキハ22型にバトンタッチすることになった。この間キハ55系列は本州に引き上げていたが、キロ25型については道内に代替車がなく、厳寒の中で無理を押して運用されていた。もっともこの「すずらん」は、翌1961年には本格的な北海道用急行型であるキハ56系列に置き換えられている。

 

 少し時間を空けて、101日に山陽本線姫路-倉敷間が電化される。この時のダイヤ改正により、名古屋-岐阜-高山-富山-米原-名古屋というルートを通る循環列車が設定された。準急「しろがね」「こがね」(「こがね」は「しろがね」の逆回り列車)である。「しろがね1号」は昼行であるが、「しろがね2号」は高山本線内で夜行となっていた。

 関西では、播但線経由で大阪-鳥取間に準急「たじま」、大阪-上井(現、倉吉)間に姫新線、因美線経由の準急「みささ」が設定されている。

 四国に目を向けると、高松-松山間の準急「いよ」が1往復増発されて利便性を高めている。この時期から、キハ26型がメインであった高松にキハ55型の増備も行われていたようである。同時期に山岳路線である土讃線を通る準急「土佐」も増発されていることから、その関連と考えられる。

 111日には、仙台-新潟間に仙山線、米坂線を経由する準急「あさひ」が設定されたほか、仙山線、陸羽西線経由で仙台-酒田間の準急「月山」、磐越西線経由新潟-仙台間の準急「あがの」、磐越東線経由水戸-仙台間の準急「いわき」などが増発されている。

 1121日になると、関東では両国-銚子、館山、安房鴨川間の準急「京葉」が誕生する。全面気動車化されていた千葉県内であるが、膨大な数の気動車を管理するため巨大な千葉気動車区が設けられており、ここのキハ26型が長編成を組んで活躍した。

 1220日になると、岡山-中国勝山間に準急「ひるぜん」を設定、26日には秋田-青森-鮫(八戸線)間に準急「白鳥」が登場する。この「白鳥」の列車名であるが、1年足らずで大阪-青森間の特急にコンバートされている。

 

 1961年に入り、31日には高山本線で夜行普通列車を格上げする形で準急「ひだ」が増発されている。紀勢本線では天王寺管理局にキハ5522両が一挙投入されたことを受け、名古屋-天王寺間に紀勢本線経由の急行「紀州」が運転を始めた。一部に客車も残っていた準急「南紀」も、すべて気動車の3往復体制に変更されている。京都-鳥羽間に草津線経由の準急「鳥羽」と、京都-紀伊勝浦間に準急「勝浦」も設定され、参宮線が紀勢本線から分岐する多気まで併結運転を行っていた。

 このほか山陰本線や信越本線の系統でも準急の増発が行われている。

 

2.8. 転機、キハ58系列投入

 準急、急行の勢力拡大を支えてきたキハ55系列であるが、ここにきて大きな転機を迎えることになる。キハ55系列で運転されていた気動車急行は好評であったが、さらなるサービスレベルの向上が求められるようになっていた。競合相手となる日光方面の東武特急や、関西の近鉄特急では冷房が導入され始めていたこともあり、一つの自然な選択肢として、新型車の開発が行われた。ここで登場したのが、史上極めて有名なキハ58系列である。

ご存知の方も多いであろう、キハ58系列キハ28型 (いすみ鉄道大多喜駅 2013.06.13.

 キハ58系列は、本州一般線区用の2機関型キハ58型、サービス電源を持ち編成内に適宜加えられる1機関型キハ28型、やはりサービス電源を持つ1機関1等車キロ28型を基幹とする本格的な急行列車用気動車である。特殊な派生系として、当時アプト式が採用されていた66.7‰急勾配区間の信越本線碓氷峠(横川-軽井沢間)に対応したキハ57型(2機関)、キロ27型(1機関、電源搭載)、北海道向け重耐寒型のキハ56型(2機関)、キハ27型(1機関、電源搭載)、キロ26型(1機関、電源搭載)もある。いずれもキハ55系列より大型の車体を持ち、車内空間が広げられている。

 キハ58系列は、投入初年度より一挙に333両も製造され、1961年(昭和36年)10月の時刻大改正(36.10改正)において全国で気動車急行が運転を開始するにあたり大きな役割を果たすことになった。また、キハ55系列で運転されていた急行列車にも、キハ58系列が投入されることになる。当初こそ混用されていたが、徐々に急行列車の主力はキハ58系列に移ってゆくこととなった。製造が短期間で打ち切られ、その後傑作と称されるキハ58系列が登場したことが、キハ55系列をやや地味な存在としている理由だろう。

 

2.9. 初期急行色

 1958425日に九州で急行「ひかり」が運転を始めたことは前述のとおりであるが、この時、準急よりも上位種別となる急行に気動車を充当するにあたり、キハ55系列の新たな塗装が検討された。初期急行色である。

初期急行色のキハ26TOMIXNゲージ模型 (筆者自宅 2017.10.09.

 従来の準急色よりも赤色の面積が広げられ、前面の逆三角模様も印象的なこの初期急行色は、初めて登場した気動車急行として他の列車との明確な差別化を図るとともに、高速列車に求められる警戒色の役割も十分に果たしたものと考えられる。

 この初期急行色であるが、キハ58系列の塗装を決めるにもあたり参考とされた一方で、キハ58系に採用される際に加えられた変更点は、キハ55系列にもフィードバックされてくることになった。これが後述する急行色である。

 

2.10. キハ58系列との混用と急行色

 キハ58系列投入当初、キハ55系列はまだ製造から10年も経過していない状態であり、当然廃車されたわけではない。新顔のキハ58系列と混結されて、むしろその運用範囲を広げていった。19663月のダイヤ改正では、営業距離100kmを超える準急列車を全て急行に格上げしたこともあり、徐々にキハ55系列本来の用途であった準急が規模を縮小され、急行が拡大して行くことになった。

 この頃から、急行の1等車にリクライニングシートなど優秀な設備を持つキロ28型が優先的に使用されるようになる。1965年度からは1等車キロ28型に冷房の取り付けが始まり、キロ25型、キロハ25型は暇を持て余す状況となる。しかし新製からまだ10年ほどしか経過しておらず、有効な活用が求められたため、これらの車両は1967年に1等室の格下げが行われた。キロ25型はキハ26400番台(原番号+400)、キロハ25型はキハ26300番台(原番号+300)に改番され、一般車に編入されたのである。華の1等車として活躍できたのはわずかな期間であったが、これらの車両は格下げにあたり目立った改造を受けたわけではない。つまり、座席などは1等車時代の装備のままで一般車として利用できる、お得な車両となったのである。

 

 翌1968年(昭和43年)101日、国鉄は全国白紙ダイヤ改正(いわゆる43.10改正)を実施した。このダイヤ改正で、準急列車は全廃され、ほとんどの準急は急行に格上げとなった。キハ55系列は投入が続いていたキハ58系列とともに急行の運用に従事することになる。この頃から、初期急行色を改め、キハ58系列と同様の塗装が施されるようになった。これを急行色と呼ぶ。初期急行色で見られた前面の逆三角模様を廃したほか、乗務員室扉には赤を塗らないようになり、やや簡略化された。この急行色を塗られたキハ55系列は、当面の間急行に活躍する。

 

2.11. キハ58系列のさらなる増備、キハ55系列のローカル転用

 優秀な設備で好評であったキハ58系列は増備を重ね、勢力を拡大していった。1970年代に入ると、キハ58系列一般車にも冷房の搭載が進められるようになる。この時、キハ28型など1機関型車両に電源があり、これを冷房用に活用できたほか、大出力機関を搭載し電源まで賄う能力を備えたキハ65型も投入されていたことがキハ58系列の冷房化を推進した。一方で、サービス用の大容量電源(照明その他に用いる蓄電池しか装備していなかった)を持たないキハ55系列は冷房化対象外とされ、いよいよ急行列車からの撤退が始まッタのであった。

 1970年代以降、急行の運用を退いたキハ55系列は、地方ローカル線の普通列車として晩年を過ごすことになった。ローカル転用されたキハ55系列は、少数が残存していたキハ10系列、当時の主力普通気動車キハ20系列、通勤気動車として知られるキハ30系列などと混用されることになった。1977年からは今も多くが残存するキハ40系列が投入されており、これとも編成を組んでいた。

 

2.12. 首都圏色とキハ55系列の最晩年

 1970年代にもなると、国鉄の財政問題が顕在化する。この頃から、ローカル気動車の塗装について、経費削減を狙って単色塗装が行われるようになった。従来の気動車標準色と言われていた朱色4号とクリーム色4号の2色塗りをやめ、朱色5号のみで車体を塗装するよう変更されたのである。最初首都圏のディーゼル線区において採用されたことから「首都圏色」の名があり、またその見た目から「タラコ色」と呼ばれることも多い。

 この首都圏色であるが、キハ55系列のローカル転用車にも採用されるケースがあり、花形の優等車両として登場した1950年代当時の面影は全く失われた。

首都圏色のキハ40系列キハ47型(先頭) (JR西日本山口線長門峡駅付近 2012.08.10.

 この頃になると、キハ55系列の一部の車両が荷物車、郵便車に改造される。キハ26型から改造されたキユニ26型、キニ26型、キハ55型から改造されたキニ56型がある。キハ26型、キハ55型とひとくちに言っても幾つかの形態があるほか、キハ26型には1等車の格下げ編入車もあることから、この荷物車、郵便車も細かい差異があった。

 

 1980年代に入り、国鉄民営化が見えてくる頃になると、キハ55系列はいよいよ廃車されるものが目立つようになる。経年30年を迎え、加速度的に廃車されていったキハ55系列は、1987年までに改造車を含め全ての車両が国鉄から除籍され、JRに継承されることはなかった。一部わずかに私鉄に譲渡された車両も含めて保存車もなく、ついにその姿の一切を消してしまったのである。最後まで在籍したのは、高松のキニ562号(キハ55216号より改造)で、処理年月日1987210日と記録されている。

 

3. キハ55系列の各塗装

 キハ55系列について、複雑な運用の変遷の中で幾度も変更されたその塗装を抜きに語ることはできない。ここでは、キハ55系が纏った主要な塗装について解説したい。

 

3.1. 準急色

 キハ55系列の最も初期の塗装であり、かつ今なお人気のあるカラーである。これは多分に主観によるものだが、模型店など漁っていても、キハ55系列のNゲージは準急色が品薄となっていたり、あるいはネットオークションでも急行色などに比べ高値がつけられていたりするように感じる。

 準急色というのは、正確な語を用いれば「クリーム2号」の地に、「赤2号」の帯を巻いたものである。国鉄では車体塗装などに用いる塗料に制式名が与えられている。準急色という名は非常に便利であるから本稿においても多用しているが、本来は趣味者、研究者の間での通称名のようなものであると考えていただければ良い。(初期)急行色、首都圏色(タラコ色と呼ばれることも多い)なども同様である。

 

 この準急色が定められた理由であるが、スピードアップ輸送改善のため投入される車両という背景もあり、遠方から高速で接近する列車を視認しやすいように考案されたと国鉄当局の記録にある。したがって、赤帯は警戒色としての意味合いがあるものと理解してよかろう。事実、1等室部分に等級帯を巻いているキロ25型、キロハ25型においても、前面は必ず赤帯である。

 一方で、1956年に国鉄が報道向けに作成した資料には「日の光の明るさに、日光神橋の赤色を配したとも言えましょう」とも見えることから、警戒色としての実用性に加え、イメージの一新を狙ったことも間違いないと考えられる。

 いずれにせよ、当時の国鉄車両は汚れを目立たせない暗い色で塗装されることが多く、キハ55系列の準急色の登場は驚くべきことであっただろう。

 

3.2. 初期急行色

 キハ55系列準急列車の好評を受けて、急行列車へも運用拡大することになった際に新しく採用された塗装である。制式名で述べると、地色は「クリーム4号」、窓周りと雨樋、車体裾は「赤11号」という。急行色との相違点は、前面窓下部の赤11号の面積がやや広く、貫通扉部分は逆三角状に突き出していること、また側面と前面の赤11号塗装が連続していることがあげられる。

 

 初期急行色は準急色に比較して前面の赤色部分が大幅に広がっており、警戒色としての役割が充分に考えられている。また、従来列車との差別化にも役立ったと思われる。

 

3.3. 急行色

 キハ55系列の3つ目の塗装となる。初期急行色で使われたクリーム4号と赤11号は、後継のキハ58系列にも引き継がれたが、手間を軽減するためなのか、やや簡略化された塗り分けとされた。キハ55系列がキハ58系列と混用されるようになった頃、キハ55系列もキハ58系列に準ずる簡略塗装に塗り替えられるようになった。

 

 初期急行色との具体的な変更点は、前面の赤色面積が縮小し、乗務員室部分と雨樋に赤色を塗らなくなったことである。地色であるクリーム4号を全体に塗装した上でマスキングを行い、その上から赤11号を必要箇所に塗るという工程を経ていたことを踏まえると、赤11号塗料の節約やマスキングの手間の軽減が目的であろうと筆者は推定している。

 やはり私見であるが、キハ58系列が登場した時代になると国鉄線上にATS(自動列車停止装置)が設置されるようになった(キハ55系列登場時はATS未装備で、のち取り付け)ほか、踏切の警報機など各種の安全装置の整備が進んでいたことから、前面警戒色である赤色の面積を縮小することも大きな問題にはならなかったのだろうとも考えられる。

 

3.4. 首都圏色(タラコ色)

 キハ55系列が急行運用から撤退し、ローカル線の普通列車を中心として余生を過ごすようになった1970年代から採用された塗装である。当時の国鉄はいよいよ財政問題が悪化の一途をたどるようになっていたことから、塗装のローコスト化を推進するために採用されたものである。1975年に当時非電化線区であった相模線のキハ10系列に対して初採用され、首都圏のディーゼル車から広まり始めたためこの名があり、またその見た目から「タラコ色」の異称もよく使われる。色があせると「焼きタラコ」と言われたことも多かったようで、評判の良いものではなかった。

 

 制式名を用いると「朱色5号」という塗料が用いられており、これのみを車体全体に塗るものである。ローカル用に転用された最末期の塗装で、「キハ55系列のかつての面影は失われていた」、という趣旨の記述がなされている文献が複数見られる。キハ55系列はこの首都圏色を最後として、国鉄民営化を待たずして、全くその姿を消したのである。

 

3.5. キハ55系列の塗装が残したもの

 キハ55系列は、主となる塗装だけでも4種類のパターンを経験している。キハ55型が、キハ44800型の旧名で準急色をまとい登場した1956年当時の国鉄は、黒いSLがぶどう色の客車を引くという、華やかさに欠ける世界であった。暗い色は、主にSLの煤煙に由来する汚れを目立たせないためであったとされているが、裏を返せば未だ旧来のSLが幅を利かせていたということである。一応、1950年に有名な湘南色の80系電車が運転を始めていたものの、まだその勢力は小さく、地方非電化路線には無縁の存在であった。準急、急行といった優等列車もSL牽引がほとんどの時代だった。

 そんな国鉄線に、突如として鮮やかなクリームと赤のツートンカラーで現れたキハ55系列は、非常に見栄えのするものとして乗客に受け入れられたわけである。やがては急行色へと塗り変わるものの、この明るい塗装が実現した背景には、もう煙に悩まされることはないという、動力近代化の影響があったと筆者は考えるのである。SLに引かれる必要のない、自ら動力を備えた気動車は、もはや煙を浴びて走ることはない。ならばひどい汚れを気にして暗い色を塗る必要がなくなったのというわけだ。

 キハ55系列の準急色は、警戒色としての赤、イメージアップのための明るさというだけではなく、まさに非電化路線の動力近代化の象徴と見ることができよう。これと呼応するかのように、キハ55系列とともに全国を駆け巡ったキハ10系列、キハ20系列なども、鉄道省時代の暗いカラーをやめ、朱色4号とクリーム4号の明るい色が採用されることになる。無機質的で埃っぽい鉄道に別れを告げた時代の転換点としての、美しい準急色を記憶にとどめておきたい。

 

4. さいごに

 今回の駒場祭における展示では、本研究に合わせてキハ55系列のNゲージ模型を多様な形態の編成で走行させるつもりである。キハ55系列を知る方も、今回始めて知ったという方も、本研究と模型展示とをご覧いただき、その存在について関心を深めていただければ、筆者としてこれに勝る喜びはない。

 

 キハ55系列は、低性能なエンジンという非常に大きな制約に苦しみながらも優等列車の動力近代化のトップを切るという大きな功績を残したにもかかわらず、晩年は目立たない存在となり、今に伝えられる車両もないという、地味に感じられる上に不遇な車両である。しかし、その存在は日本鉄道史上極めて重要であることに間違いはなく、資料や写真、映像、当時を知る人の思い出話に至るまで、キハ55系列に関するあらゆる記録が永く残されることを願ってやまない。

 

5. 参考文献・資料

『鉄道ピクトリアル No.637 特集【キハ10系】』(電気車研究会)

『鉄道ピクトリアル No.729 特集【キハ55系】』(電気車研究会)

『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション13 国鉄の気動車1950』(電気車研究会)

『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション14 国鉄の気動車1960』(電気車研究会)

 

キハ55系列「すずらん」編成 準急気動車よ永遠に

 

(写真はすべて筆者が撮影した)


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