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中山道と碓氷峠

平成29年度入学 海ツキ

 

1. はじめに

 皆さんは、碓氷峠をご存知だろうか。

 歴史に詳しい方や鉄道車両に興味をお持ちの方はご存知かもしれない。碓氷峠とは、現在の長野県と群馬県の県境にある峠であり、近世における五街道の一つ・中山道の難所としても有名な区間であった。近代においては、ここを走っていた信越本線の中でも難所の区間として有名であった峠である。信越本線の碓氷峠を越える区間は横川軽井沢駅間であることから「横軽」とも呼ばれ、奥羽本線の板谷峠などと並んで国鉄の路線でも有数の急勾配に数えられた。横軽区間は、最大で66.7パーミルともなるその勾配のきつさから、ラックレールと呼ばれる歯車を噛み合わせるというアプト式が採用されたり、普通のものよりも動力の大きい機関車が導入されてもいた。これら鉄道技術については詳細に解説された書籍はいくらでもあるので、このような鉄道技術に関連する事柄は本記事では敢えて触れないことにする。

しかし、このような疑問はお持ちになったことはないだろうか。なぜ横軽区間、すなわち碓氷峠を含む信越本線は敷設されたのだろうか。加えて、明治初期の日本の鉄道の草創期においては、この碓氷峠を含む区間は「中山道線」として東京と京都という日本の二大都市を結ぶ一大幹線になるかもしれなかったのだ。

本記事では、中山道線について触れながら、碓氷峠に鉄道が敷設されるまでの経緯を考察する。

 

 

2. 中山道線の建設の経緯

186911月に明治政府が鉄道建設を決定した際は、東京−横浜間、琵琶湖沿岸−敦賀間、京都−神戸間といった都市−開港場を結ぶ路線と同時に、東京と京都という東西両京を結ぶ幹線鉄道も計画された。この幹線鉄道は、江戸時代からの交通路として発展していた東海道、中山道に沿ったルートの2種類が提示された。

ところでそもそも、なぜ街道沿いに鉄道を敷設するようにしたのか。『日本国有鉄道百年史』によれば、東京と京都の中間において発展しつつあった産業の品を両京へ運搬するという目的があったという。

また、これは個人的な考察であるが、街道筋は明治以前より人や物資が多く往来していたと考えられる。当然人口が多く、発展していたのも街道筋であり、少なくとも何もない山の中を新たに道を開拓して走らせるよりは遥かに一定の需要が見込めただろう。

そして、中山道が幹線鉄道のルートとして採用された。その理由は「建設の容易さ」「経済効果」「軍事上の理由」など何点か考えられる。

 

(1)建設の容易さ

 東海道沿いには箱根の山という険しい山がありまた富士川・安倍川・天竜川などの大河川があり難工事となることが予想される一方、中山道線は碓氷峠といった急峻な山があるものの、東海道線よりは建設が容易だと結論付けられたのである。また、政府の四等技師であった仙石貢が、ドイツのハルツ山鉄道のアプト式登山鉄道での試運転を見学し、アプト式の採用を提案したという。

 

(2)沿線への経済効果

井上勝は、東海道に比べて中山道沿いは産業が発展していないこともあり、この幹線が内国の勧業に寄与しうると主張し、中山道を強く推した。

加えて、東海道は中山道と比べて海沿いを走っていることもあり、海上輸送手段である汽船も多く運行されていた。汽船は鉄道以前の陸上輸送よりも高速であり、安価で物資を一度に大量に輸送することが可能である。さらに明治初期には、外国の船舶会社が汽船事業に参入していたこともあり、鉄道を東海道沿いに通しても船舶との競争に敗北してしまうと考えられたのである。

 

(3)軍事上の理由

中山道線を選択するにあたって、理由は中山道線が採用された理由として一番あげられるのが、「陸軍が海沿いを通るルートを拒否した」というものである。

 軍隊にとって鉄道は、物資や人員の効率的な輸送という点において非常に重要な存在である。佐賀の乱、萩の乱、そして西南戦争を経験して以降の陸軍では、国内の物資・人員の効率的な輸送の手段として鉄道に注目するようになっていた。そして、敵襲を海上からの砲撃によるものとして想定し、そのような有事の際に、鉄道路線が海岸付近を走っているために寸断されては困る、ということでより内陸を走る中山道線を強く推したのである。実際、1883年に当時の参事院議長にして陸軍中将であった山県有朋がそのような内容と合わせ、軍事輸送のために鉄道設備を拡充するように要求する意見書を提出している。

しかしながら、井上勝は軍事的な内容よりも経済効果を優先すべくその意見書の内容を拒否したという。元々中山道沿いに敷設するつもりであったので、結局は陸軍の以降通りになったが、陸軍側と井上側の鉄道敷設に対する方向性は一致しなかったようである。しかし、さらにその後、日清戦争などを経たことで、陸軍の戦略が海岸線の防衛よりも大陸を主眼に置いたものに変化していたため、「海岸に鉄道を敷設するべきではない」という意見は下火になったようである。

 

 

. 中山道線の建設

さて、中山道線は、街道の中山道に沿うように、東西の両端から建設された。

まず、中山道線西部では、1870714日に京都−大津間が開業し、1884416日に長浜-金ケ崎(現在の敦賀港)間が、同年525日には関ヶ原−大垣間が全通したことで、敦賀−大垣間が全通する。さらに、18845月に大垣−加納間で測量を開始し、翌年に加納から名古屋まで測量する区間を延長した。1885年には名古屋−半田-武豊間の工事が開始し、1887425日には大垣−武豊間が全通する。

 

しかし、測量と工事を同時進行で行なっていたために、測量を進めるうちに、中山道線が元々の予定よりも建設に費用がかかることが明らかになっていった。1886年に中山道中部の測量を三等技師南清が行ったところ、予想以上の難工事となることが予想され、中山道線をとると完工は遅れ開業後も列車は遅く運転費も多大となることが明らかになった。そこで、東海道ルートも密かに調査し、

・建設費用

・隧道の個数や急勾配区間の数といった土地の峻険さ

・列車の運転時間

・営業収支

について中山道線と東海道線を比較し、最終的に東海道線を採用すべきとの結論に達した。この内容について伊藤博文首相に上申書を提出し、1886713日の閣議でこの意見を可決され、719日に幹線の変更が公布されるのである。

そして、1887711日に横浜−国府津間、188891日に大府−浜松間、188921日に国府津−静岡間、同年416日に静岡−浜松間が開業し、20425日に開業していた長浜−大府間を合わせて東京-長浜間が全通した。その後、188971日に大津−長浜間、米原−深谷間が全通したことにより、東海道線の新橋−神戸間が全通したのである。

 

さて、中山道線の東側であるが、幹線が東海道線に変更となってからも建設が続行された。

188311月に高崎−上田間の測量が開始され、188410月には高崎−横川間が着工する。18851015日には高崎−横川間が開業、さらに18864月に資材輸送線として直江津−上田間の建設が決定し、18867月に同区間が着工、1888121日に軽井沢−直江津間が開業した。

碓氷峠を越える区間である横川−軽井沢間は18912月に軽井沢側から着工し、難工事を経て189341日に高崎−直江津間が全通することとなるのである。

 

 

. 終わりに

以上が中山道線・碓氷峠・信越本線に関する私の研究である。

なお、現在、長野新幹線の開業により、信越本線は横軽を含む区間がすでに廃線となっている。横軽区間は遊歩道として整備されているため、ぜひ皆さんも行ってみてほしい。

 

 

. 参考文献

日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史』(日本国有鉄道・1969年)

青木栄一『鉄道忌避伝説の謎』(吉川弘文館・2006年)

老川慶喜『井上勝 職掌は唯クロカネの道作に候』(ミネルヴァ書房・2013年)

老川慶喜『近代日本の鉄道構想』(日本経済評論社・2008年)

中西隆紀『日本の鉄道創世記 幕末明治の鉄道発達史』(河出書房新社・2010年)

 

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