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板谷峠の歴史的・技術的研究

平成28年度入学 近本 紘太郎

 

1. はじめに

米沢駅から見た板谷峠(奥羽本線米沢駅 2018.03.23.

 突然であるが、山形新幹線に乗ったことがある方はどれほどおられるだろうか。この会報の読者の方なら、利用経験のある方は少なくないと思われる。福島で東北新幹線から分岐し、標準軌に改められた奥羽本線に乗り入れ、列車は米沢、山形、新庄を目指す。このようにサラリと書くと、道のりは楽なように思われるかもしれない。しかし、実際はそう甘い路線ではない。

 乗るのは山形新幹線であっても、普通電車(標準軌区間でも扱いは在来線であるから当然普通電車が運転されており、山形線と言われる)であっても良いのだが、福島の二つ先、庭坂をすぎた列車は、突如として登りにかかる。大きく右カーブを描いた列車から後ろを見ると、福島の平野部がすでに低く見える。車窓はやがて山の中の風景となり、急なカーブを切り返しながら、忙しくモーターを回して登坂してゆく。そして、巨大なスノーシェッドに守られた駅を通る。その後下りに転じた列車は、先ほどまでの苦しげな走りが嘘であったかのように、足取り軽く米沢へと向かうのである。

 まさに、峠の区間である。その名を「板谷峠」という。碓氷峠なき今、JR幹線最急の38パーミルの急坂が列車を待ち受けるこの区間は、明治の頃より日本の鉄道にも有数の難所として有名であった。しかしながら、勾配の程度では勝る碓氷峠や、通過旅客、貨物が非常に多く今なお補機が使用される山陽本線の「瀬野八」に比べると、個人的感想ではあるがやや影が薄いようにも思われる。そこで今回、私はこの区間について、

 

1. 鉄道が敷設された経緯

2. 開業以来の歴史上の動き

3. 難所克服のための特徴的な技術

 

という3点について、先人が解明しえなかった新事実の発掘をも期待して、調査研究を実施することとした。各種文献を精査した上で実地調査も行い、野心的に調べ上げたつもりであるから、読者各位に関心を持っていただければ幸いである。

 

2. 板谷峠の概要

2. 1. 路線データ

 奥羽本線福島-米沢間の難所として語られる板谷峠であるが、地図上の等高線などからさらに位置を限定すると福島の二つ先の庭坂から、米沢の一つ手前の関根までの区間に介在していると言える。この区間についてのデータを以下にまとめる。

 

奥羽本線庭坂-関根間の路線データ(2018年度)

・路線延長…27.9km

・駅数両端含め6駅(庭坂-赤岩-板谷--大沢-関根、ただし赤岩駅は実質的に休止)

・複線区間全区間複線(なお、峠を下りた関根-米沢間は福島-米沢間唯一の単線区間)

・電化方式全区間交流20,000V電化

・軌間…1435mm(山形新幹線区間であるため標準軌)

・勾配平均33パーミル、部分最急38パーミル出典資料1

・線路最高地点峠駅構内(標高625m出典資料1

・最高速度新幹線車両130km/h

      普通電車110km/h

・定期山形新幹線電車運転本数…16往復/日、ほか臨時列車多数設定出典資料2

・定期普通電車運転本数…6往復/出典資料2

・使用車両山形新幹線E31000番台、2000番台

      普通電車7195000番台(7015500番台による臨時代走あり)

・平均通過人員(福島-山形間)…10,173/日、奥羽本線全体では5,009/出典資料3

平均通過人員のみ2016年度データ

 

2. 2. 板谷峠はなぜ今も難所であるのか

 新幹線車両が乗り入れることから当然とはいえ、2.1.のデータにおいて、軌間や電化方式、最高速度、全区間複線であることだけを見ると大変高規格である。しかしながら、実際には峠-大沢間にJR幹線最急の38パーミル、全区間平均して33パーミルの急坂、半径300m前後の急カーブ、19カ所のトンネルを擁しているなど、大変な難所である。これは明治の開業当時からの線形がある程度残っているためであり、「線路の位置は変わらずに、路盤だけを無理やり頑丈に作り変えた」というのが実態である。かつてスイッチバックの廃止や一部トンネル、橋梁の付け替えなどは行われたが、おおまかなルートに動きはない。したがって、山形新幹線の標準軌高性能車両を用いても、この区間の速度は大きく抑えられてしまっている。下り米沢方面行の定期山形新幹線列車は最速31分で福島-米沢間40.1kmを走破出典資料3し、区間表定速度77.6km/hとなる。これが米沢-山形間47kmでは最速29分、表定速度97.2km/h出典資料3となることと比べれば、板谷峠がいかに険しい道であるかが理解される。また、ここを越えるためには相当量の電力を必要とすることから、赤岩駅のスイッチバック跡に変電所を建設するなど、現在も苦闘が続いている。秋から冬にかけては、落ち葉による空転や雪害での運休、遅延も生じており、JR、乗客ともに悩ましい場所である。

 一方この板谷峠を含む福島-米沢間であるが、通過人員は平均して毎日10,000人を越えている。普通電車が1日わずか6往復、しかも2両の短編成である以上は、この数値は山形新幹線による広域輸送によってほとんどが占められていると解釈してよいであろう。

 以上のことから板谷峠は、東京と山形庄内地方を結ぶ、今なお重要な広域幹線ルートの輸送を困難ならしめていることが示される。単純に線形が過酷であるということに限らず、その過酷な区間が大量輸送を行う幹線に介在していることもまた、板谷峠がより険しいものとして認識される理由であると考える。

 

3. 板谷峠の歴史

 ここまで板谷峠に関して私見を述べたが、技術が進歩した現代においてもなおここが悪路であるならば、過去にはさらなる苦難との戦いがあり、また将来においては引き続き輸送改善が試みられるであろう。これより、板谷峠の歴史と将来展望について解説したい。

 

3.1. 江戸時代-明治前期の板谷峠

 突然、鉄道など影も形もなかった時代の話になってしまい、恐縮な限りである。しかし、「なぜ板谷峠に鉄道が敷設されたのか」ということを検証する関係上、古くからの道についても軽く触れておきたい。

 板谷峠を越える道がいつから存在したのかは判然としない。だが、江戸時代にはすでに「板谷街道」と呼ばれる道があり、山中に宿場も設けられていた。参勤交代のルートにも用いられていたという。この道は福島宿で奥州街道から分岐し、笹木野、庭坂、李平(すももだいら)、板谷、大沢、関根、米沢と辿り、今の上山市まで続いていた。ここで板谷峠を含む区間の宿場の名を列挙したが、今の駅名と同じものがほとんどである。李平のみ聞きなれないが、これは現在休止中の赤岩駅の付近である。すると、サミットの峠駅を除き、今ある福島-米沢間の各駅は、板谷街道の宿場と一致することがわかる。まさに奥羽本線は、中近世の重要な幹線道路であった板谷街道を引き継ぐように敷設され、駅設置にあたっては従来の宿場の住民による利用も想定していたことが想像に難くない。

 なお、今ではやや北寄りの栗子峠を通る道路ルートが明治期に開削され、今も高速道路などがそちらを経由することから、板谷街道は事実上の廃道と化している。

 

3.2. 板谷峠の鉄道敷設検討

 板谷峠の鉄道史は、1892621日に公布された「鉄道敷設法」において、「奥羽線」の一部として速やかに測量、敷設を行うよう定められたことに端を発する。この当時、鉄道敷設に資するための測量、調査の事業は帝国議会のお墨付きとして行われており、具体的なルートの案は順調に進んだようである。

 しかし、この区間の地形は大変複雑であったことから、鉄道敷設法下で設置された国家機関である「鉄道会議」にて、3案の比較検討を要することとなる。この3案は「板谷第1線」「板谷第2線」「茂庭線」と呼ばれるものであり、前2者が板谷峠を通過、茂庭線は飯坂温泉を通り、北方の栗子峠近くを通過するものであった。

 
図1. 登坂区間の勾配とトンネル延長の関係
(イメージであり比率は正確ではない)
 板谷第1線は、現在の経路に最も近いが、当初は勾配66.7パーミルを採用し、この区間をアプト式とするものであった。碓氷峠に等しい難所となる可能性があったわけである。板谷第2線は、山形側の経路を第1線と同じくするが、福島側はやや北寄りに迂回し、この区間の勾配を33パーミルに抑えることとしていた。

 

 比較検討の結果、経路は板谷第1線に決着する。しかし、ここで板谷第1線の勾配を66.7パーミル、33パーミル、25パーミルの中からさらに比較する方向に鉄道会議の議論が動いた。勾配を33パーミルないしは25パーミルに抑えると、同一経路で66.7パーミルを採用する場合に比して、最高地点の標高が下がることになる。したがって、図1に示す通りサミットのトンネル延長が長くなり、その分工費、工期を要することになる。しかし、勾配を急に取るほど運転上困難を極めるため、両者を天秤にかける必要があったのであろう。

 検討ののち、板谷第1線の勾配は33パーミルを基準として設計されることとなった。最高地点の標高は66.7パーミル案に比べ約100m低くなり、最長の板谷峠トンネルは延長約1.7kmとなって貫通まで1年を要する難工事になったが、運転上ネックとなるアプト式の区間を設定せずに済んだのである。ちなみに板谷峠の地形としての標高は755mで、現在線が625m地点の峠駅でサミットとなっていることを考えると、当初の66.7パーミル案では、標高730m地点を通過するわけであるから、サミットのトンネルの土被り(地表からトンネル上部までの深さ)は高々30m程度になる計算である。単純化のため、板谷峠の断面を三角形と捉えて、三角形の相似を用いれば、トンネル延長も33パーミル現在線の1/4程度で済むと考えられる。安易にトンネルを短くすることだけを意識して66.7パーミルで敷設されていれば、今の山形新幹線はなかったかもしれない。

 

3.3. 板谷峠区間の鉄道工事

 測量や検討が完了し、いざ建設が始まるとなった板谷峠の区間であるが、当然困難な工事となったことは想像に難くない。1894年より建設が開始されるが、当初より困難を想定し、万全を期すべく鉄道庁の出張所が福島に置かれたとある。

 工事中、全体的に困ったのが必要な資機材の運搬であるという。深い山中のことであるから、人力、馬力を使って少しずつ物を運んだとの記録が見られる。線路敷設を終えたところから、機関車で貨車を引いて物資を運搬することも行われたようであるが、冬季にはソリを用いたとの話も伝えられる。

 もっとも困難な工事であったのが、峠駅そばに口を開ける板谷峠トンネルであった。板谷峠トンネルは、前述の通り約1.7kmと、この当時にしては大変長いトンネルになる。それゆえ、両側からの掘削に加えて、中央部に斜坑を掘り、3箇所から同時進行で建設を行ったと伝えられている。このほか、松川を渡る橋梁や、その取り付け部の築堤なども、谷底から大変高い位置にあり、こちらも労苦を伴ったという。

 この区間の工事が終了し、福島-米沢間が開通したのは、1899515日のことであった。来年で開通120周年となる、歴史ある区間ということになる。

 

3.4. 開通当初の板谷峠区間

 建設が終わったところで、開通時の板谷峠区間の様子を見てみよう。当時は東海道本線すら単線であった時代である。この区間も複線であるはずがない。最初は4往復の混合列車が設定されていたが、次第に増発されることとなった。結果交換設備を多く必要とするようになり、福島-米沢間40.7kmの間に、途中駅は庭坂、板谷、峠、関根の4駅が置かれ、庭坂-板谷間に赤岩信号場、峠-関根間に大沢信号場が設置された。板谷、峠の2駅、赤岩、大沢の2信号場はいずれもスイッチバック式で、当初は通過線のない構造であった。したがって、たとえ急行列車であっても各駅に停車して方向転換を行わなければならなかったことになる。SLは勾配を上る途中でボイラーの蒸気圧が減少するから、駅で停車中にカマを焚き、減った圧を戻すようにして運転していたものと推定される。ちなみに有名な「峠の力餅」も、この頃すでに峠駅名物として売られており、乗客のみならず連続投炭の重労働に疲れた鉄道員をも癒したであろう。

 このほか特筆されるものとして、庭坂駅構内にキャッチサイディングなる施設が設けられていた。これは峠の途中で連結器が外れて、客車や貨車が暴走した際に、当該暴走車を逃すための避難線である。その延長は当時の記録で「1マイル33チェーン」とあり、わかりやすく直せば2.3kmほどとなる大規模なものであった。しかし、この施設に入る際の分岐器の角度が10番(分岐始点から直線距離10m地点で、分岐した2線の間隔が1mになる角度)と急であったことなどから十分に機能しないと判断され、のち分岐角度を12番に緩和する改築がなされている。

 

 板谷峠区間の大きな出来事としては、1909年8月6日からの豪雨災害により、土砂の崩壊などが起き、不通を生じたことが挙げられる。この時庭坂-赤岩間の第7号トンネルに変状があり、この区間を挟むようにして東赤岩仮乗降場を設置して不通区間を徒歩連絡とした。最終的に第7号を含む区間は復旧を断念して放棄され、この区間は新線に付け替えられている。この時、かの松川橋梁も現在線と同じ位置のものが誕生した。

 

3.2.-3.4.項の全般において、出典資料4及び5を参照した。

 

3.5. 板谷峠の蒸気機関車たち

 図2. タンク式とテンダー式の違い 蒸気機関車時代の板谷峠であるが、基本的にはタンク式SLが使用されていることが特筆される。「タンク式」とは、図2に示す通り石炭庫と水槽が、機関車本体に備え付けられたものである。これに対して、石炭庫と水槽を機関車本体とは別個の炭水車(テンダー)に備えたものを「テンダー式」という。タンク式は、テンダー式よりも炭水の積載量では劣るが機関車の全長を短縮でき、またバック運転の際にも炭水車がない分見通しが良くなるメリットがある。スイッチバックのため方向転換が多く、またスイッチバック駅の線路有効長が稼げない板谷峠区間では、タンク式は非常に便利であったのである。戦後の混乱期にテンダー式のD51型が小規模に運用された例などを除けば、この区間で使用されたのはほとんどタンク機であった。初期にはイギリス製ほかの2120型、ついで9150型、9200型が使用された。9000番台の2形式は例外的な大型テンダー機である。9200型は、日露戦争の軍用機関車が鉄道省に再就職したものであった。この頃の1905914日、奥羽本線は湯沢にて南北から延伸してきたレールが繋がって全通しており、輸送力の増強が必要となったことも、大型機の使用開始の理由にあるものと考えられる。なお、この際松川橋梁が大型機の重量に耐えられないと判断され、架け替えられている。

 

 板谷峠の機関車について、明治期のものについては資料が乏しく不明な点も多い。しかし、この次に登場する4100型、4110型蒸気機関車は史上有名なものである。4100型は、1912年にドイツにて4両が製造されたタンク機であるが、動輪を5軸持ち、先輪のないE型という特殊な構造であった。これは、当時の脆弱な軌道において許容される軸重13tという条件をクリアした上で、勾配線区の機関車に求められる粘着力を最大限確保し、また有効長の制約から全長をなるべく短くするという板谷峠独特の要求を満たした結果生まれたものである。この機関車は他にも特殊な機構があり、第1動輪と第5動輪が横に大きくずれて動くことが可能な構造になっている。蒸気機関車の動輪は基本的には固定されているが、E型ともなるとカーブで線路から受ける圧力が大きく、曲がりきれなくなってしまうのである。鉄道模型を楽しまれている方なら、ミニカーブレールに20m車を入線させると、台車の首振り角度が足りなくてレールからせり上がって脱線することをご存知と思われるが、まさにその状況になってしまうのである。それを避けるべく、両端の動輪はカーブに合わせて横にずれることで圧を逃がす構造になっているのである。

 この4100型の性能は極めて高く、2120型や9200型の倍の重量を牽引する能力があったとされている。板谷峠の33パーミル線上を時速10マイル(約16km/h)の均衡速度で440トンを牽引する能力があり、均衡速度を時速15マイル(約24km/h)に引き上げても318トンを引いた…出典資料6とのことである。

 

 しかしながら、4100型にも欠点はあった。ボイラーが動輪の間に挟まれていたため、細長い形となってしまい、奥への投炭が面倒になるというものであった。また、ボイラーの火室が狭く、質の悪い日本の石炭では十分な燃焼熱を得られなかったという。ここで、それを改善すべく作られたのが、国産の4110型であった。ボイラーを動輪の上に上げて、横いっぱいに幅をとって全長を短縮し、投炭の負担を軽減し、燃焼効果を高めることを狙ったのである。結果として、腰の高い外観となったが、これは著名な8620型、9600型蒸気機関車と同様の設計であった。

 

 4110型は1914年から量産されるようになったが、実に39両が製造され、戦後にかけてまでも使用されることになる。しかし、1920年代に入ると羽越線周りのルートが開通し、板谷峠の輸送需要が減ったことから、4100型の4両と、4110型の一部が休車となってしまう。のち、休車の一部は廃車となり、北海道の炭鉱鉄道などに払い下げられている。4110型の一部は、改軌されて朝鮮半島に渡ったものもあるというが、そのたどった道は定かでない。

 戦時中には、輸送需要の増加から一部4110型の休車が解かれて運用復帰するものもあったが、酷使のため状態悪化し故障が多発、戦後にかけてテンダー機である9600型やD51型も応援に入っている。…出典資料7

 

 戦後に入ると、1948年有名なE10型蒸気機関車が5両製造されている。これもタンク機であり、基本的な機構は4110型を踏襲するところが多い。しかし、この機関車は普通の機関車と異なり、右側に運転台を持ち、バック運転を基本とする運用がされていた。なぜバック運転が行われたのか説明すると、煙突を後側に置くことで、トンネルでの運転席への煙の流入を抑えたものである。また、4110型より大型化していることから、軸重軽減のため従輪を採用している。E10型のスペックは4110型の1.5倍を牽引できるものとされていたが、勾配区間では空転が多く、期待通りの性能を発揮できないことが多かったという。…出典資料8

E10型はこちらが「前」(青梅鉄道公園 2018.02.24.

 

 ただE10型は、期待通りの性能を出せないだけでなく、完成翌年の1949年に板谷峠区間が直流電化され活躍の場を奪われてしまうという、さらなる不運に見舞われることとなった。その後は北陸本線の倶利伽羅峠で新線が開通するまでのつなぎとして補機運用についたり、当時交流電化と直流電化の間で電化されていなかった米原-田村間のピストン輸送についたりとしていたが、1962年に汎用性の高いD51型などに置き換えられて全車廃車となってしまった。運用期間わずか14年という、大変な悲運の機関車であった。

 

3.6. 板谷峠の直流電化

 前述した通り、1949年に、ついにこの難所に電気が通った。この工事自体は戦前より検討されていたことであったが、4110型の性能がよかったことや、占領下で国鉄の投資が抑制されていたことから、この年までずれこんだものであった。

 電化されたと言っても、この当時はまだ電車はほとんど都市部のみの運用であり、地方線区では機関車が主体の時代である。最初に配置されたのは、EF15型電機である。戦後復興輸送のため製造されたこの機関車は、馬力を買われて12両が新設の福島第二機関区に配置された。板谷用の改造として、デッドウェイトを搭載して粘着力を向上したり、ブレーキの際に電流を熱に変換する抵抗器の容量を増加したりといったことが行なわれている。他にも、砂撒き装置の増設、MG(電動発電機)も1台を追加している。寒冷地でトンネルのつららが目立つことから、窓に庇を付けるなどの改造もなされ、通常のEF15型とは異なる様相となった。…出典資料9

 しかし、実際に運用してみると、下り勾配で制輪子を使用する際に摩擦熱が発生し、焼き嵌めしてある車輪が緩む事故が多発、結果として、摩擦力に頼らない回生ブレーキ(モーターを発電機に変えて電力を架線に返す)が設置されることとなる。この時、形式もEF16型に改められた。この改造の後は性能が安定するようになり、目立ったトラブルなく峠越えを行っていたようである。…出典資料10

 

 電化と前後して、板谷峠区間の線形改良も行われた。主たる工事内容は狭いトンネルの付け替えと、曲線緩和であった。しかし、この区間の輸送を容易ならしめる抜本的対策となる勾配緩和については、見送られたようである。…出典資料4

 勾配緩和が見送られてしまった以上、輸送力を上げるにはより強力な機関車を投入する必要があり、1964年にEF640番台がEF16型の後継として製造されている。EF16型は、やはりEF15型から改造された仲間が活躍していた上越国境区間に転属している。EF64型は196510月から本格的に運用が始まっているが、この時上野-秋田間に「つばさ」2往復、上野-山形間に「やまばと」1往復の、キハ82系による特急も運転されるようになった。キハ82系は機関出力に不安があり、EF64型による後押しを受ける運用であった。この機関車による気動車の後押しは、後継のキハ181系に対しても行われ、485系電車化されるまで続くことになる。もっとも、馬力のあるキハ181系は一時期単独運転で峠を越えていたが、連続過負荷運転でのエンジントラブルが続出したことから、機関車連結を行うようになったという経緯がある。

EF640番台は、交流切替後に各地の勾配区間へ転属していった(山陰本線米子駅 2010.08.10.

 

3.7. 板谷峠の交流電化切替

 これまで直流電化とされてきた板谷峠の区間であったが、この頃仙山線にて交流電化の試験が成功し、本格導入が計画されていた。1968年(昭和43年)9月8日に仙山線仙台-山形間が交流電化切替工事完了、板谷峠を含む福島-米沢間も同年922日に切替工事を終えた。翌日には米沢-山形間の電化工事も完成し、101日の43.10改正を待つこととなる。福島の機関区には、EF7111両、軸重軽減機構を備え仙山線にも入線可能なED788両が配置された。基本的に、運用範囲が広いED78型が本務機であり、仙山線など軌道の弱い路線には入れないEF71型が板谷峠専用補機、というのが本来の扱い方である。…出典資料11この当時東北本線も福島までの電化が完成しており、ED75型が投入されていたが、ED78型はそれを元に回生ブレーキなど勾配対策を施したものである。EF71型も、DF型の違いはあるが、電装品などは極力共通のものが装備され、重連運転、混用も可能な設計となっているものである。他に目立った特徴としては、勾配上で停止した際に転動しないよう、EF63型と同じ機構のブレーキが装備されていることや、万が一の暴走時にモーターを短絡させる特殊な非常ブレーキも備えられていた。…出典資料12これは使用するとモーターに過電流が流れて破壊されるもので、最後の手段との位置付けである。

 一方、これと同時に板谷峠に電車が走るようになる。43.10白紙改正による「やまばと」の485系電車化である。「つばさ」は、まだキハ181系と補機連結の運用が組まれていたが、これも1975年には485系化されることになる。

 

 さらに、43.10改正では板谷峠区間が自動信号に更新された上、庭坂-赤岩間、大沢-関根間が複線化され、スイッチバック駅にも通過線が設けられるようになった。これにより、優等列車の通過運転が可能となったことも、時短に貢献したことは想像に難くない。なおこれ以降、民営化に至るまで、板谷峠区間は安定した時期が続くことになる。

 

3.8. 民営化と山形新幹線

 民営化直前には、板谷峠を行く普通列車に50系客車が投入されるなどしていたが、ED78型、EF71型も健在であり、昔ながらの光景が広がっていた。しかし、国鉄民営化により、この区間がJR東日本に移管されて以降、にわかに板谷峠を含む奥羽本線に動きが出てくる。新在直通運転「山形新幹線」構想である。

 福島駅の東北新幹線高架から地平に降りた列車が、標準軌に改められた奥羽本線上を山形(のち延伸して新庄)まで直通するというもので、これのため奥羽本線福島-山形間は改軌されることが決まった。1年あまりの運休期間を経て、199111月より改軌完成(普通電車には標準軌の7195000番台を投入)し、19927月からは400系新幹線電車を用いた「山形新幹線」の運転が開始された。山形新幹線はその後新庄へと延伸し、今も堅実に輸送実績を保っている。…出典資料3

 なお、山形新幹線の開業に伴い、従来のED78型はこの区間を離れ、仙山線、東北本線などへと活躍の場を移した。一方EF71型は、適当な転用先もなくすべて廃車となった。

 山形新幹線開業後、この区間を含む福島-新庄間には標準軌車両による普通電車が運転されている。線路こそ共用であるが、普通電車には「山形線」という愛称が付けられ、案内に広く使われている。使用される車両は7195000番台と7015500番台であるが、板谷峠を行く6往復の普通電車には、もっぱら7195000番台が用いられている。

 

3.9. 板谷峠のこれから

 不便な山間部である板谷峠では人口減少が著しく、途中の赤岩駅は利用者がゼロという状態が続き、2012年より冬季休止、201734日のダイヤ改正以降、最近は全列車が通年通過するという、休止状態のような扱いとなっている。…出典資料13

 このように、峠の区間の利用が落ち込んでいる今、単なる運転上の厄介者になってしまった板谷峠であるが、その地下に長大なトンネルを掘削し、山形新幹線の高速化、時短を図る構想がある。山形県が主導しているものであり、今の段階では具体的な検討に上がっていないが、今後の動きに大変興味をそそられる。

 

4. 板谷峠を越えた名車たち

 板谷峠の歴史を紐解いてみると、そこには数々の著名な車両たちのドラマがある。ここでは、過去から今に至るまで特に有名な形式を取り上げて、その技術的な見どころを解説したい。

 

4.1. 4110型蒸気機関車

 大正期より使用された、有名な勾配区間専用のSLである。板谷峠専用ではなく勾配区間専用と書いたのは、これが今の肥薩線の矢岳越えでも用いられたからである。1913年から1914年にかけて30両、1917年に追加の9両が製造されているが、このうち大半は板谷峠に配置されたようである。

 火室が細長く、燃焼効率の悪かった4100型の問題を解決するべく、火室を動輪の上に配置して横いっぱいに幅をとる構造で、同時期に製造された旅客用8620型、貨物用9600型と共通の構造となる。

 また、ゲルスドルフ構造と言って、5軸ある動輪のうち、第1動輪と第5動輪は横にずれることが可能であるほか、中間の第3動輪にはフランジがなく、レールに不要な圧力を与えないよう配慮されている。

 4110型の性能は極めて優秀で、牽引力を買われて国鉄での廃車後に炭鉱鉄道などに譲渡されたものもあり、北海道の美唄鉄道では同じ型のものを自社発注している。なお、この美唄鉄道の2号機と称する4110型の同型機は、今もなお同地にて保存、公開されていることがあげられる。

 

4.2. E10型蒸気機関車

3動輪、第4動輪にフランジがないE10型の足回り(青梅鉄道公園 2018.02.24.

 板谷峠電化直前の1948年に、4110型の老朽化が目立つことからつなぎとして導入された機関車である。このE10型は、4110型と異なり従輪を持つほか、動輪の機構も変更されている。第1動輪は横ずれが可能であるが、第5動輪は固定、代わりに第2動輪はフランジが通常より薄く、第3動輪、第4動輪がフランジレスとなっている。

 このE10型であるが、煙突側を後ろにしたバック運転を基本とし、トンネル内で機関士が煙に巻かれる事態を防いでいる。そのため、運転台は普通のSLでいうと右側に配置されていた。

 しかし、投入翌年に板谷峠が電化されると、E10型は活躍の場を失い、北陸本線などで補機運用をすることになる、この際に運転台も通常の左側に改造されている。もっとも、特殊な構造ゆえ他線区では使い勝手が悪く、汎用性の高いD51型などに置き換えられて、1962年に全機廃車となってしまった。2号機が、青梅駅からほど近い青梅鉄道公園に保存されている。

 

4.3. ED78型・EF71

 板谷峠交流電化切替ののち、運用が開始された交流専用機関車である。非常に似通っているため、本項ではまとめて解説しよう。ED78型もEF71型も、D型とF型、つまり4軸と6軸という違いがありながら、車体長はさほど変わらない。これは、ED78型が中間に従台車2軸を持っていることによる。この従台車には、負担する重量を変化させる機構が備えられているのが特徴である。板谷峠で粘着力が必要となる際は4軸の動輪に最大の重量をかけ、仙山線など、当時脆弱軌道であった区間に入る際は従台車にもいくらか重量を負担させて、軸重を分散させることができるのである。一方EF71型はこのような機構がないことから、幹線でしか運用できなかった。したがって、オールマイティなED78型が本務機、EF71型が板谷専用補機という扱いが本来正しいものである。しかし、実際にはよく似た形式であるから混用が多く、板谷区間ではどちらが本務機となることもあった。また必ずしもED78型とEF71型の重連でなければならないというルールもなく、同一形式で重連を組む運用も多かったようである。

 この2形式の電装品などは、当時東北本線向けに増備されていたED75型と共通のものをなるべく用いることで、トータルコストを抑えるように配慮されている。独特の装備としては、交流用の回生ブレーキが装備されていること、非常用の短絡ブレーキがあることだろう。回生ブレーキは常用であり、短絡ブレーキは万一暴走した際にモーターをショートさせるもので、強力な制動力を得られるが、過電流を生じるためモーターは焼損、破壊されてしまう。最後の命綱のようなものである。

 ED78型、EF71型は民営化後にかけても運用されている。寝台特急「あけぼの」も1990年まで奥羽本線を通過しており、これら2形式または単一形式の重連で峠越えしていた。山形新幹線開業後は、ED78型が少数残存し、仙山線での貨物運用や落ち葉掃きなどをしていたが、貨物は廃止され、落ち葉掃きも別形式に置き換えられて廃車となってしまった。EF71型は、もっと早く山形新幹線開業直後に全廃されている。

 

4.4. 400系新幹線電車

 初代山形新幹線車両である。もともと在来線である奥羽本線に直通するため、車体規格は在来線を基準として作られている。新幹線区間では、車体が小さいためホームとの間に隙間ができ、それを埋めるためにステップが伸びてくるなど面白い構造をしている。また、在来線に直通する以上当然であるが、ATSを搭載した新幹線車両ということになる。板谷峠の勾配対策としては、抑速ブレーキの装備があげられる。

 400系は他にも注目すべきポイントがあり、斬新な外観とは裏腹に200系と同じサイリスタ位相制御、直流モーターを使用する旧型のシステムを採用している。これは新幹線車両では最後となるものである。…出典資料14

 400系は、1992年の山形新幹線開業に伴い投入されたが、その後6両であったものが1995年に需要増を受けて7両化されている。その後、経年劣化が進み20104月に最後の400系が運用を離脱しているが、保存されていた先頭車の411-3が鉄道博物館に展示されることとなり、2017年秋より公開されている。…出典資料15

 なお、今の山形新幹線電車はE31000番台、2000番台である。

 

4.5. 7195000番台

標準軌のため、安定感がある7195000番台(板谷駅付近 2018.03.23.

 板谷峠を含む、奥羽本線の標準軌区間(山形線区間)で使用される普通電車である。登場は1991年、標準軌完成の時からのベテランということになる。東北本線などで走る通常の719系と使用は似ているが、ドアステップがないのが特徴である。

 一部の7195000番台はワンマン運転に対応するが、板谷峠では全列車が車掌乗務の上運転され、車掌が車内検札を実施したり、途中駅からの利用者に発券したりしている。利用客が少ない区間にもかかわらずワンマン運転が行われていないのは、難所の区間であるため、運転士だけでは非常時の対応が困難となるケースが想定されるからではないかと筆者は推測する。これは上越線の上越国境区間などについても、同じことがいえるのではないだろうか。

 

5. 板谷峠の勾配、雪害対策

 板谷峠は、開業当初からの急勾配区間であり、また豪雪地帯であるから列車運転上多大な困難を伴ってきた。ここでは、勾配を克服するための線路側の技術や、雪害対策について解説する。

 

5.1. スイッチバック

 板谷峠の最大の特徴は、赤岩、板谷、峠、大沢と4連続していたスイッチバック駅である。赤岩駅こそ休止中だが、今も各駅は健在である。これらの駅は、本来ホームを本線上に持たず、本線から分岐した行き止まりの線上にホームを置いていたことと、ホーム分岐線の反対側に「折り返し線」と称するやはり行き止まりの線路を持っていたことが共通の構造である。ホームが勾配上にあると、転動の危険があるため、水平なところにホームを置くための工夫である。また、列車運転上も独特の扱いをしていたが、ここで図3に示す通り板谷駅を例にとって説明しよう。

3. 板谷駅配線(駅ホーム部分の配線は簡略化している)

 まず、福島から来た列車は、そのままでは板谷駅に入れぬから、まず折り返し線に入る。折り返し線の末端は、有効長を稼ぐため崖に突っ込む行き止まりのトンネルになっている。その後、バック運転で板谷駅へと入るのである。発車時は、ポイントを渡ってそのまま本線に出れば良い。

 米沢から来た列車は、そのまま板谷駅に入るが、発車する際にバックで折り返し線に入り、またポイントを渡って本線に出ることになる。途中で本線を横断しなければならないことも特筆される。なお、もちろん通過する列車はそのまま本線を走り抜ければ良いだけである。赤岩、峠、大沢でも同じような運転方法がとられていた。

 そして、スイッチバックなき今は、どの駅も本線上にホームを移設している。このため、列車は坂の途中で停車することになり、上り勾配であれば自動車でいう坂道発進の状態になる。

板谷駅折り返し線トンネル(奥羽本線板谷駅 2018.03.23.

 

5.2. スノーシェルター

 スイッチバック駅には、ポイントが多数設置される。しかしこのポイントは雪に弱い。可動部に雪や氷が詰まると動かなくなってしまう。それを防ぐため、各スイッチバック駅にはスノーシェルターが設置されていた。このシェルターは、本線上のものについては今もホームの雪よけとして機能しており、板谷駅では側面、峠駅では天井の鋼板が更新されているのを実地調査にて確認している。他、昔ホームがあった部分のシェルターも、駅へ出入りする通路を防護する役目を果たしている。旧ホーム部分のシェルターについては、鋼材の更新が見られず、昔ながらの半木造のものが板谷駅などに残っていることも確認された。大沢駅では、シェルターが雪の圧力で一部破壊されている箇所もあった。近々更新されるものと思われるが、自然と対峙する最前線にあることを実感する。

 

板谷駅本線(左)と旧ホーム(右)のスノーシェルター(奥羽本線板谷駅 2018.03.23.

 このほか、実地調査では板谷駅では旧ホーム側シェルター内の線路についても改軌されており、保線車両庫と思われる建屋に続いていることや、峠駅のスイッチバック線に狭軌のレールと手動転轍機が残されていることも確認できたので、併せて報告する。

 

板谷駅旧ホーム先の建屋(左)と峠駅の転轍機残骸(右)(奥羽本線板谷駅、峠駅 2018.03.23.

 

5.3. 雪崩よけ

 

沿線に設置された雪崩防止の柵(奥羽本線峠駅-大沢駅 2018.03.23.

 駅のみならず、駅間の線路も雪から守らねばならない。直接の降雪は致し方ないとしても、線路外から雪崩が直撃することを避けるため、雪崩よけの防護柵が多数設置されている。これは、何段階にもわたって設置することで、雪崩の威力を段階的に落としていくものである。これも、車内から確認する限りでは真新しいステンレス製のものも見られ、この区間を安全に通過するための苦闘が続いていることを物語る。

 

5.4. 鉄道防雪林

 鉄道開通から間もない頃にはすでに見られたという、古くから実績のあるシステムである。マツ、モミなど、常緑樹を線路に沿って植え、吹雪によって吹き溜まりができることを防ぐ機能がある。板谷峠からは少々外れるが、関根駅付近などにこれが見られる。

 自然の力は強大なものであるが、その影響を抑えるために森林という別の自然のシステムを借用するという考え方は、大変賢明なものであろうと筆者は考える。

奥羽本線の鉄道防雪林(奥羽本線関根駅付近 2018.03.23.

 

6. 総括 〜板谷峠を見上げて〜

 以上のように、板谷峠の主要なポイントを調査し、読者のみなさまにご報告差し上げた次第である。板谷峠について、文献を紐解けば先人の労苦が偲ばれる記述に満ちており、また現地を訪れてみると、最急38パーミルという大地の傾斜は筆者の脚にその難所たる所以を教えてくれた。そして、碓氷線なき今、板谷峠はJR幹線最急の区間として、今なお奥羽本線上に居座り続けている。しかしながら、碓氷の人気、補機連結のある瀬野八と比してみると、板谷峠はどうも地味に過ぎる。4連続スイッチバックを始めとする特異な施設の宝庫でありながら、趣味者以外の注目をあまり受けてこなかったように感じられる。1日わずか6往復の普通電車しか手段がないため難しいかもしれないが、興味を持たれた方にはぜひ板谷を訪れていただきたい。そして、筆者が現地で得た驚きと、ここに鉄道を通した先人の思いを共有、実感していただけたなら、記事を執筆する上でこれに勝る喜びはない。この度は、ご高覧いただきまことに恐悦である。

 

峠駅、ここを越える列車は変われど、今も美味しい力餅が売られている(奥羽本線峠駅 2018.03.23.

 

5. 出典資料

1. 『鉄道ピクトリアル No.927 20171月号』p.70(電気車研究会)

2. JTB小さな時刻表 2018年春号』p.640-642JTBパブリッシング)

3. 「東日本旅客鉄道 路線別ご利用状況(20122016年度)」(2018426日閲覧)

 http://www.jreast.co.jp/rosen_avr/pdf/2012-2016.pdf

4. 『鉄道ピクトリアル No.507 19892月号』p.10-16, 17-22(電気車研究会)

5. 『鉄道ピクトリアル No.665 19992月号』p.10-15(電気車研究会)

6. 『レイル 1983年春の号』p.44(プレス・アイゼンバーン)

7. 『レイル 1983年春の号』p.46(プレス・アイゼンバーン)

8. 『レイル 1983年春の号』p.56(プレス・アイゼンバーン)

9. 『鉄道ピクトリアル No.783 200612月号』p.42(電気車研究会)

10. 『鉄道ピクトリアル No.783 200612月号』p.36(電気車研究会)

11. 『鉄道ピクトリアル No.665 19992月号』p.48(電気車研究会)

12. 『鉄道ピクトリアル No.665 19992月号』p.51(電気車研究会)

13. Response 20173JRダイヤ改正】仙台空港線や磐越西線で増発…赤岩駅は通年休止に」

 https://response.jp/article/2016/12/17/287178.html201857日閲覧)

14. 「富士電機 富士時報第651号 技術成果と展望」

 https://www.fujielectric.co.jp/company/jihou_archives/pdf/65-01/FEJ-65-01-040-1992.pdf201858日閲覧)

15. 「東日本旅客鉄道 2017年秋、鉄道博物館が生まれ変わります」

 http://www.jreast.co.jp/press/2014/20141104.pdf201858日閲覧)

 

(写真及び図はすべて筆者が撮影、製作した)

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