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断続する坂路―芥川龍之介『トロッコ』の謎を解く

平成28年度入学 朝カゼ

 

 小説『トロッコ』は、上り下りする鉄路が舞台である。そこに登場する「坂路(さかみち)」を通じて、著者芥川龍之介は何を書こうとしたのだろうか。

 

 鉄道文学は、従来『簡易線』において必ずしも注目されてこなかったと思われる。本稿では、今学祭テーマ「傾き」を切り口として、新たなジャンルに光を当てたい。

 

1. 芥川龍之介

(公益財団法人 日本文学振興会「各賞紹介 芥川龍之介賞」http://www.bunshun.co.jp/shinkoukai/award/index.html#akutagawa201842日閲覧)より引用)

 

1. 山と海に囲まれた舞台の地

 『トロッコ』は、次のような書き出しで始まる。

 

 小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎年村外れへ、その工事を見物に行った。工事を——といったところが、唯トロッコで土を運搬する——それが面白さに見に行ったのである。(芥川龍之介『蜘蛛の糸・杜子春』(新潮社・1968年)に収録されたものより引用。以下、注のない限り、本文の引用は全てこれに拠る。)

 

 この作品に登場するトロッコには、モデルがあった。

 

 小田原—熱海間は、海沿いに険しい山々が続く難所である。1889年(明治22年)に開通した東海道本線も当初はこの区間を避け、国府津から沼津へと内陸を通る現在の御殿場線ルートを経由していた。

 熱海や湯河原は、この当時から温泉が湧き、保養地として有名であった。このため、この地域には相応の輸送需要があった。しかし、地形があまりに険しいため、国府津から来る馬車鉄道に連絡して、「豆相(ずそう)人車鉄道(1896年(明治29年)開通)」が、小田原—熱海間を4時間以上かかって結んでいた。新橋—神戸間の東海道本線で、既に蒸気機関車が走っていた時代のことである。

 それでも、箱のような車両を23人の車夫が狭いレールの上に押して走る人車鉄道は、それまで人力車と船に輸送手段が限られていた時代の移動と比べて、飛躍的に便利になり、人気だったという。

 

2. 豆相人車鉄道や熱海鉄道の走っていた場所

(「山行が 廃線レポート 豆相人車鉄道・熱海鉄道 大黒崎周辺 公開日(2016.3.18)」(図2は、『日本鉄道旅行地図帳 4号 関東2?全線・全駅・全廃線 (4) 』(新潮「旅」ムック・20088月・今尾 恵介 (監修))の地図を「山行が」の作成者が一部加工したもの)

http://yamaiga.com/rail/zusou/main.html201853日閲覧)より引用)

 

 しかし、この人車鉄道も、開業11年後の1907年(明治40年)には、蒸気機関車が牽引する軽便鉄道に切り替えられる。レールの規格を、人車鉄道の610mmから軽便用の762mmに拡幅し、同じ線路を走らせることになった。『トロッコ』の主人公、良平が見物していた工事とは、この軽便鉄道への改軌工事のことである。

 翌年に運転を開始した軽便鉄道は、「熱海鉄道」と呼ばれ、約15年間多くの乗客を沿岸の温泉地へと運び続けた。1924年(大正13年)に全線の並行区間を「新」東海道本線として国鉄熱海線が走るようになると、熱海鉄道はその役割を終えた。

 

 上図2が、豆相人車鉄道及び熱海鉄道の路線図である。『トロッコ』の舞台となったのは、具体的にどのあたりなのだろうか。

 作中、良平が海を行きは右手に、帰りは左手に見ていたことや、熱海の日金山から遠ざかっていったことからすると、小田原方面へとトロッコを押していったものと推測される。山を抜けると海が開け、また山が見えたという記述や、「去年の暮母と岩村まで来たが、今日の(みち)はその三四倍ある」という記述も合わせて考えると、良平は、真鶴周辺から出発し、根府川の手前あたりまで来たのではないかと思われる。

 この自然豊かな地を舞台に、芥川は何を描こうとしたのだろうか。

 

2. なぜ良平は校正をするのか

1)結末の謎

 『トロッコ』は、極めて緊密に構成された作品に見えるが、ここで作者が何を語ろうとしたのかは、一見して明確ではない。

 本作は広く読まれ、トロッコに憧れる主人公の良平が「現実」に触れ、成長していく物語であるという解釈もなされてきた。しかし、そのように読み進めていくと、最後の部分で立ち止まってしまう。本作末尾、大人になった良平が突然現れる部分である。

 

 良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?——塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………

 

 そのせいか、本作を収録する中学教科書の中には、この末尾部分を削除したものもある。しかし、極めて緊密な構成を持つ本作において、芥川が無用の一文を挿入したとは思われない。

 実は、本作には、基となった素材がある。芥川は、知人の力石平蔵から、恐らくは力石自身の体験を基にしたと思われる数枚の「下書き」をもらい、それを基に、本作を一夜で書き上げたというのである。その力石は、芥川の熱心なファンの一人で、芥川は、力石に一時校正の職を紹介していた経緯がある。しかし、創作において、良平の将来の職業を力石の一時の職と一致させる必然性はない。むしろ、一見唐突に現れる末尾の一節は、まさにここに置かれなければならない理由があったのである。

 では、末尾の一節があえて置かれた「理由」とは何か。そこに、作品全体の謎を解く鍵が隠されているのではないか。

 

2)創作の苦しみ

 「校正」とは、どのような仕事なのか。それは、文筆に携わる仕事であるには違いない。しかし、それは他人の書いた文章の正誤を正すだけの、およそ創造的でない作業である。言ってみれば、それは、芥川の本業である職業作家とは、およそ対極にある仕事ということができる。

 それでは、職業作家であることは、芥川にとってどのように感じられていたのか。

 

 『トロッコ』が発表されたのは大正113月、芥川が30歳の時である。

 前年7月末に、新聞社の特派員として視察に訪れていた中国から4か月振りに帰国したものの、その旅行記の評判は思わしくなかった。そればかりか、多忙と様々な体調不良に苦しめられ、年の終わり頃には「睡眠薬なしには一睡も出来ない」ほどの「強度の神経衰弱」に陥るようになっていった。この年(大正10年)の10月、彼は湯河原に静養に出かけている。

 

 この時期の芥川について、次のような指摘がされている。

 

若くして文壇に登場、たちまち先人を追い越し、常に脚光を浴びて歩んできた龍之介も、大正十年代に入ると息切れが目立ち、いつの間にか追われる立場に立っていた。新興のプロレタリア文学陣営は、龍之介をブルジョア作家と見なし、攻撃した。そうした批判を乗り越え、新たな創作の境地を拓くには、心身のエネルギーが必要だった。(新潮社、1983年)

 

 そんな芥川の姿については、志賀直哉の証言もある。大正117月、芥川は、志賀を千葉県我孫子に訪ねている。その時の様子を志賀はこう記しているのだ。

 

芥川君は三年間程私が全く小説を書かなかつた時代の事を切りに聞きたがつた。そして自身さういふ時機に来てゐるらしい口吻で、自分は小説など書ける人間ではないのだ、といふやうな事を云つてゐた。(「沓掛にて——芥川君の事」「中央公論」昭29

 

 芥川は自身の創作活動において深刻な悩みを抱えていたと思われる。海老井は、大正12年に発表された『保吉の手帳』を始めとする私小説的な作品の自己分析の限界を挙げ、芥川は当時「創作上の迷妄に陥っていた」とまで言う(2003)。

 

 さらに、『蜘蛛の糸』や『杜子春』、「侏儒の言葉」など現在彼の代表作と評価されている作品に対しても、そこに現れる芥川の「未熟さ」を批判するものもある。そこでは、芥川の自殺の究極的な原因は、「彼はそれらしい小道具を並べて模擬現実をこしらえ、その中で矮小化された人間を動かす作品を書いてきたから、やがて壁にぶつかり、書くことに喜びを感じないようになった」からだと分析されている(甘口辛口、2004)。

 

 海老井は、そんな芥川への当時の評を幾つか紹介している(2003)。

 

田中純(「芥川龍之介氏を論ず」「新潮」大81)も…(中略)…誰もが彼の「才人」であることは認める。しかしその「才気」とは、「知識的な洞察力の豊かなこと」「社会的に身を守るに巧みなこと」「何をやらせても相当にやつてのける悧巧さのあること」などであり、「文学者としての才分」からいえば「大きな才人」とは認められず、彼の「才」は大体において、「可なり子供らしい」「可なりわざとらしい」「可なり瑣末な不必要な才」である、と言っている。さらには「小手先の種々の業」(久保田万太郎「読後感話(三)」「読売新聞」大8111)、「意気で高等といふ奴だ。大して深みのない作者だがかうした作に関しては、現代文壇の第一人気者である事は、どうしても争へない事実だ」(武林無想庵「放漫録(十)」「読売新聞」大8213)。

 

 芥川は、世評や文壇での立ち位置を常に意識していたとされる。これらの批評が彼自身の耳朶に触れていたとしてもおかしくないだろう。

 

3)もう一人の芥川

3. 大正13年頃の芥川

(公益財団法人 日本近代文学館「教科書のなかの文学/教室のそとの文学——芥川龍之「羅生門」とその時代」http://www.bungakukan.or.jp/cat-exhibition/cat-exh_current/9062/201842日閲覧)より引用)

 

 芥川は、明らかに、「創作の苦しみ」を感じていた。校正の朱筆を握る良平は、この「創作の苦しみ」から解放された芥川自身の姿なのではないか。さらに言えば、「作家」として生きる芥川のもう一つのあり得た姿なのではないか。

 この「もう一つのあり得た姿」がトロッコの線路を全て引き返した後に現れることも、極めて示唆的である。

 そこには、芥川の「作家」としての自己の在り方に対する根本的な問題が隠されていると私は思う。

 

3. 「細細と一すじ断続」する坂路

1)少年の好奇心

 良平は、なぜ「坂路」を登ろうとしたのか。

 そのヒントは、冒頭部にある。「唯トロッコで土を運搬する——それが面白さに見に行った」、これがきっかけである。そして、トロッコの面白さに惹かれていく良平の様子が語られる。

 

煽るように車台が動いたり、土工の袢天の裾がひらついたり、細い線路がしなったり——良平はそんなけしきを眺めながら、土工になりたいと思う事がある。せめては一度でも土工と一しょに、トロッコへ乗りたいと思う事もある。…(中略)…その時乗れないまでも、押す事さえ出来たらと思うのである。

 

 ここにあるのは、少年特有の純粋な好奇心である。それは、鉄道好きの少年が、操車場の機関車を見て目を輝かせる姿に似ている。

 良平の「トロッコ」への興味は、単に見物するだけでは飽き足りず、やがて自ら押してみたいというところにまでエスカレートしていく。

 

 ここで芥川は、良平が土工になることと、土工と一緒にトロッコへ乗ることを、注意深く区別している。同じようでいて、その差異は、重要な意味を持っているのではないか。

 

2)薄暮の中の記憶

 二月初旬の夕方、良平は弟たちとついに行動に出る。

 

土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力が揃うと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、——トロッコはそう云う音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登って行った。

 

 勝手に触ってはならないはずのトロッコを押すことへの罪悪感よりも好奇心が打ち勝って、良平らは「坂路」を少しずつ登っていく。

 しかし、坂は「十間程来ると」急になり(図4. ??)、それ以上トロッコを押すことができなかった。それでも、良平は、そこを下る楽しさに「殆ど有頂天」になるほど興奮する。

 


4. 一度目の坂路(本作の描写を基に筆者が作成した概念図。以下同じ。)

 

 だが、トロッコをもう一度押し上げようとした時、土工に見つかり、良平らは一目散に逃げ出す。その時の記憶は、良平の脳裏に長く刻まれることになる。

 

3)蜜柑畑と海

 良平が二度目にトロッコを押したのは、一度目の後「十日余りたってから」だった。

 

5. 二度目の坂路(筆者が作成。)

 

 この時の土工2人は「何だか親しみ易いような気がし」て、良平は声を掛ける。

 

「おじさん。押してやろうか?」

 その中の一人、——縞のシャツを着ている男は、俯向きにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。

「おお、押してくよう」

 良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。

「われは中中(なかなか)力があるな」

 他の一人、——耳に巻煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。

 

 良平は、「何時(いつ)までも押してい」たいと思う(図5. ?)。五、六町あまり押し続けると、線路は一層傾きを増す(図5. ?)。しかし良平は苦痛を感じたりはしない。両側の蜜柑畑には、黄色い実がいくつも日を受けている。良平は、全身でトロッコを押すようにして登っていく。

 

 蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路は(くだ)りになった(図5. ?)。

 

縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平は(すぐ)に飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑の?(におい)を煽りながら、ひた(すべ)りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」——良平は羽織に風を孕ませながら、当り前の事を考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」——そうもまた考えたりした。

 

 しかし、舞台は次第に暗転してくる。竹藪のある所へ来ると、トロッコは静かに走るのをやめた。また登りが始まる(図5. ?)。竹藪はいつか雑木林になり、「爪先上がり」と形容される緩い上りの所々には、赤錆の線路も見えないほど、落葉のたまっている場所もあった。

 

その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖の向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎた事が、急にはっきりと感じられた。

 

 そこからは再び下りだ。三人はまたトロッコに乗り、海を右に見ながら雑木の枝の下を走っていく。

 

しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれれば好い」——彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れない事は、勿論彼にもわかり切っていた。

 

 その次に車の止まったのは、切崩(きりくず)した山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった(図5. ▲)。

 

(4)茶店の不思議

 唐突に現れる一軒の茶店。それは鉄道工事に携わる土工たちを当て込んでのものだったかもしれないが、集落から離れ、線路に面してただ一軒だけ立つ茶店はどこか異様であり、作中で浮いているような印象すら受ける。

 

二人の土工はその店へはいると、乳呑児をおぶった(かみ)さんを相手に、悠悠と茶などを飲み始めた。良平は独りいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。トロッコには頑丈な車台の板に、跳ねかえった泥が乾いていた。

 

 だが、良平はその中に入れない(同様のことを指摘するものとして、西垣、1999他)。そして、「乳呑児をおぶった上さん」という良平と全く無関係の人物が登場する。

 

 茶店を出ると、道は再び緩い登りになり(図5. ?)、その坂を向こうへ下り切ると(図5. ?)、また同じような茶店があった(図5. △)。この2軒目の茶店では、良平は店の中に入れないばかりか、店の中に誰がいるかも分からない(大塚、2015)。

 

 2軒の不思議な茶店。しかし、作中で本当に浮いているのは、茶店なのか。

 土工や上さんからすれば、良平こそいてもいなくても変わらない存在である。茶店とは、良平が何の影響を与えることのない世界を象徴しているのではないか。良平こそが、トロッコを取り巻く世界から拒絶されているのではないか。

 

 2軒目の茶店を出てきた土工は、良平に決定的な言葉を投げる。

 

「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」

「あんまり帰りが遅くなるとわれの(うち)でも心配するずら」

 良平は一瞬呆気にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の(みち)はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、——そう云う事が一時にわかったのである。

 

 良平は、土工に取って附けたようなお辞儀をすると、もと来た道を線路伝いに駆け出した。夕暮れが迫っていた。「命さえ助かれば」と、思いながら、すべってもつまずいても走った。やっと遠い夕闇の中に村はずれの工事場を見、もう電燈の光がさし合う村の家々の間を抜け、からがらに家に戻ったところで、良平の少年時代の回想は終わる。

 

 ここでもう一度問わなければならない。『トロッコ』における「坂路」とは何か。

 既に述べたように、校正係としての良平は、芥川のあり得べきもう一つの人生の姿であった。その時、重要なのは、校正係としての良平は、坂路を引き返した先にいるということである。これが何を意味するのか。校正係が、文学的創造と対極にある職業であるとすれば、「坂路」とは、文学的創造の苦悩そのものを指すのではないだろうか。

 

(5)永遠に独り押せない芥川

 文学的創造の苦悩の象徴としての坂路。その路をトロッコを押しつつ登っていく良平は、紛れもなく、芥川自身である。

 

 芥川は、なぜ作家になろうとしたのか。

 良平は、少年の好奇心から、トロッコに触れたいと思う。それと同じように、芥川も、少年の時に抱いた文学に対する無邪気な好奇心が、物書きになりたいという思いに繋がったのではないか。芥川には、どこかにたどり着くために文学の世界に踏み込んだのではなかった。あたかも鉄道好きの少年が運転士になりたいと思うような仕方で、筆を操ってみたかったのではないか。『トロッコ』は、そうした消息を雄弁に語っていると思う。

 芥川の悲劇は、そこから始まっていたのではないか。

 

 良平は、一人でトロッコを押すことができない。最初は二つ下の弟たちと、二回目は、二人の土工とともにトロッコを押す。二軒目の茶店の前では、店に入ったままなかなか出てこない土工たちを待ちかねて、トロッコの車輪を蹴ってみたり、一人では動かないのを承知しながら、うんうんと押してみたりする。

 「土工」とは誰なのか。我々はもう、その正体を知ることができる。

 「土工」たちは、芥川にとっての先達、すなわち、文学の世界を作り上げてきた先人達をなぞらえているのだ。芥川が少年時代憧れ、読みふけった古今の作家たちだ。「土工」すなわち作家の先人達そのものにはなれないが、彼らの助けがあれば「作家」の路を行くことができる。これは、「作家」としての芥川の在り方そのものだったのではないか。

 芥川の作品は、古今東西の文学に素材を求め、それを自己流にアレンジして仕上げたものが多い(上述したように、『トロッコ』自体も、力石平蔵から素材を得ている)。それが、高い世評の裏側にあった芥川の「創作」の限界でもあった。

 

 先人の作品に手を加えるばかりで、自らは創作をできないことを芥川は自覚し、そこに彼の「作家」としての苦しみがあったのではないか。

 芥川には『戯作三昧』(大正6年)という作品がある。これについて海老井は、「主人公馬琴は明らかに明らかに芥川自身である」とした上で、「そこには…(中略)…現実を超えた創造の世界に没入して行く近代の芸術家の姿が描かれている」と分析する(1981)。

 だが、果たしてこの馬琴は、芥川自身なのか。そうではないと思う。ここでも、馬琴のようになれない自分、「土工」になれない芥川の姿が、裏返して描かれていると思われる。

 

 良平が一度目にトロッコを押した時そうだったように、芥川も、本来自身には手を染めることが許されていないはずの作家としての路に、好奇心が打ち勝って足を踏み入れてしまう。

 急な坂を登ることはできなかったが、たった2、3分でも緩やかな坂を下る楽しさに「殆ど有頂天」になった少年の様は、大人の良平の回顧という形をとりながら、「作家」として駆け出した頃の芥川の姿を、苦々しく映し出しているのではないか。

 良平が二度目にトロッコを押そうとした際、土工に「中中(なかなか)力がある」と褒められたのも、芥川が処女作発表から2年後の24歳の時、『鼻』を夏目漱石に激賞されたことなどとも重なるように思われる。

 

 だが、芥川は、自ら創作ができないという苦しみを次第に覚え始める。上述したように、文壇における評価にも苦悩する。ただ好奇心から踏み込んだ「坂路」を少しずつ進むうちに、気付けば、引き返したくても引き返せないところまで、「余り遠く来過ぎ」てしまっていた。

 一つの坂を登り詰めたところで、良平は、高い崖の向こうに、広々と薄ら寒い海が開けているのを見る。この海の青は、作家としての芥川の心情を、あまりにも鮮やかに映していると思う。

 

 少年が「坂路」を戻る転換点となったのが、茶店である。

 良平が土工から駄菓子を受け取ったように、「茶店」は、その果実の存在を感じ取ることはできるが(ただ、それは甘い香りではなく「石油の?」がするという。)、中に入ることができない世界である。そこでは、トロッコを一人では動かせない良平の苛立ちが強調される。

 「茶店」とは、芥川が追い求め続けた芸術の世界の象徴に他ならない。芥川はその前に立ちすくむことしかできず、自身がそこから疎外された存在であることが明るみに出されてしまうのだ。

 

 「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」

 そう言って先人たちは「向う」(=芸術の世界)へと去っていってしまう。良平は、茶店の前から、命からがら逃げ帰る。では、芥川自身は、『トロッコ』の後半部分を貫いているのは、「もうすぐ日が暮れる」という、「時間切れ」へのオブセッション(強迫観念)である。芥川は、文学という鉄路の上に留まり続ければ、自分の精神も肉体も早晩持ちこたえられなくなること、そして、自分に残された時間が既に切迫していることを知っていたように見える。

 

 芥川は、最後まで筆を置かなかった。そして自ら命を絶った。芥川はなぜ、良平のように逃げ帰らなかったのだろうか。

 これについては、想像を巡らせるしかない。

 まず考えられるのは、文壇での名声や地位など、それまでの「作家」の人生の中で築いてきたものを少年のようには振り払えず、別の路を模索することができなかったからではないかということだ。

 また、『トロッコ』で、良平は、一人になることを異様に恐れているように見える。文壇を降りるということは、様々なしがらみから解放されるということであると同時に、芥川を有形無形に支えてきもした様々な人間関係から離れ、一人で生きていくということでもある。芥川の精神にとって、そのことがより大きな恐怖であった可能性も否定できない。

 しかし、私は、もう一つの可能性を考える。『トロッコ』の最後の一節に再び目をやってみよう。

 

 良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?——塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………

 

 この最後の一節は、何を意味しているのだろうか。「今でもやはりその時のように」。良平は、校正の仕事をしながらも、昔トロッコを押しながらたどったあの道が脳裏から離れない。芥川は、良平に、最後まで文学に執着させている。一旦道を引き返したところで、文学への想いを捨てきることはできない。文学を離れて自分の存在はない。それを言うためにこそ、芥川はこの一節を置いたのだ。

 

 芥川の苦悩の深層は、作家になりきれないことではなく、そのことを痛切に自覚していながらも、「作家」として生きていくより他にないところにあったのである。

 そこに、作家芥川の、悲しい覚悟と矜恃があったと私は思う。

 

4. 良平の足跡を訪ねて

 良平は、どのような風景を眺めていたのか。本作の舞台となった地を実際に訪れた。

 当時の面影を偲ばせるものは、もうほとんど残されていない。

 熱海駅には、「へっつい」の愛称で呼ばれた「熱海軽便鉄道7機関車」が復元、展示されている(図6)。

 

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6. 熱海軽便鉄道7機関車(JR熱海駅前 2018.05.04

 

 軌間762mmを走る機関車は高さわずか2.14 m。長い鼻に細い煙突のどことなくユーモラスな姿で、懸命に客車を引いていたあの日のことはとうに忘れたかのように、静かに佇んでいる。

 

 豆相人車鉄道の熱海駅は、現在の熱海駅から海の方へだいぶ下った先にある。駅舎跡には何もなく、記念のレリーフが置かれているだけである(図7)。

 

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7. 豆相人車鉄道の熱海駅舎跡(「大江戸温泉物語 熱海温泉 あたみ」前 2018.05.04

 

 東海道線を上り側に二駅、真鶴駅に降り立ってみよう。駅の南側の駐車場には、豆相人車鉄の城口駅跡がある(図8)。人車鉄道の線路を使っていたトロッコも、この駅前を通っていたと思われ、良平はトロッコを押してこのあたりを歩いたのであろう。

 

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8. 豆相人車鉄道の城口駅舎跡(現在のJR真鶴駅前の駐車場 2018.05.04

 

 冒頭の路線図を見る限り、トロッコのレールは、ここからしばらくの間、海沿いの険しい地形を嫌い、現在の東海道本線の線路の西側の山ベリを北進していたと思われる。そして、「岩村」とある停車場のあたりから一旦山側に振れ、その後、「大丁場」とある停車場のあたりで鋭角に折れて海を目指している。この周辺が、良平が「薄ら寒い海」を初めて見たあたりだと思われる。

 

 真鶴駅を後に、東海道本線のレールに沿って、根府川方面に歩いてみる。「岩村」という地名は、現在残されていない。だが、1キロほど行くと、「岩村踏切」と名付けられた踏切に出会う(図9)。

 

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9. 岩村踏切(JR東海道本線・根府川—真鶴間 2018.05.04

 

 踏切の山側は、鬱蒼とした雑木林の下に、山道の登りが始まっている(図10)。良平がトロッコを押して登ったのも、こんな道だったのだろうか。

 

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10. 良平が通ったような山道(図9の岩村踏切のすぐ北側 2018.05.04

 

 良平は、前の年の暮れ、母と岩村まで来たというから、このあたりにはちょっとした集落があったのかもしれない。しかし、人家を少し離れれば、夜は真っ暗闇だったに違いない。

 

 東海道本線の線路をさらに根府川方向へたどると、トンネルに行く手を阻まれる。真鶴トンネルだ。トンネルは、深い緑に覆われた山を穿っている。E231系などの列車が頻繁に行き交う本線のトンネルの右奥に、もう一つ、作りの違うトンネルポータルがあるのが分かる(図11)。実はこれが、熱海鉄道の後進である「国鉄熱海線」の廃線跡なのである。

 

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11. 右が旧熱海線の廃線跡、左は現在のJR東海道本線(長坂山隧道() と真鶴隧道() 2018.05.04

 

 真鶴駅から再び列車に乗り、お隣の根府川駅を目指す。真鶴トンネルに始まる長いトンネル地帯を抜けると、海が間近に迫り、根府川駅に着く。根府川駅は、海をほぼ直下に見下ろす無人駅だ(図12)。下りホームの金網越しに広がる海を見ていると、本当に空と海に溶け込んでいきそうだ。駅の背後には、すぐに山が迫っている。トロッコの線路は、この山の中腹を縫うように、せわしなくアップダウンを繰り返しながら、根府川を目指してきたのであろう。

 

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12. 山と海に囲まれた『トロッコ』の舞台(JR根府川駅 2018.05.04

 

 ここには、良平の足跡を偲ばせるものは何もなかった。青すぎる海が、湘南の明るい陽光を受け、どこまでも広がっているだけだった。

 

*写真は(特記以外)全て筆者が撮影した。

 

. 参考文献

芥川龍之介『蜘蛛の糸・杜子春』(新潮社・1968年)(一次資料)

「山行が 廃線レポート 豆相人車鉄道・熱海鉄道 大黒崎周辺 公開日2016.3.18

                http://yamaiga.com/rail/zusou/main.html201853日閲覧)

大塚浩「中学校国語教科書教材研究—「トロッコ」の考察を中心に—」

(『静岡大学教育学部研究報告. 教科教育学篇』静岡大学教育学部、46号、20153月)

高橋敏夫・田村景子監修『写真で見る人間相関図 文豪の素顔』

(エクスナレッジ・2015年)

中谷いずみ「「トロッコ」の語り—教材としての可能性—」

  (『奈良教育大学国文:研究と教育』奈良教育大学国文学会、36巻、20133月)

横溝栄一『海べをはしる人車鉄道』

(月刊『たくさんのふしぎ』通巻261号・福音館書店・200612月)

「甘口辛口 日記 04/5/20(芥川龍之介の青春)」

    http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/akutagawa.html201842日閲覧)

海老井英次『日本の作家100人 芥川龍之介—人と文学』(勉誠出版・2003年)

西垣勤「『トロッコ』論」『芥川龍之介作品論集成 第五巻蜘蛛の糸 児童文学の世界』

                (翰林書房・19997月)

鷺只雄編著『年表作家読本 芥川龍之介』(河出書房新社・1992年)

後藤明生『群像 日本の作家 11 芥川龍之介』(小学館・1991年)

宮坂覺「芥川文学にみる <ひとすぢの路>—「蜜柑」「トロッコ」「少年」

    をめぐって—」(『玉藻』フェリス女学院大学国文学会、25巻、19903月)

新潮社『新潮日本文学アルバム 13 芥川龍之介』(1983年)

海老井英次編『鑑賞 日本現代文学 第11巻 芥川龍之介』(角川書店・1981年)

石井茂「芥川龍之介の小説「トロッコ」の基礎的研究:素材提供者・力石平蔵をめぐって」(『横浜国立大学人文紀要. 第二類, 語学・文学』、横浜国立大学、198011月)

白井宏「〔I〕芥川龍之介『トロッコ』について(国語科)(教科研究)

(『名古屋大学教育学部附属中高等学校紀要』名古屋大学教育学部附属中学校:名古屋大学教育学部附属高等学校、23巻、19788月)

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