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2017年3月静岡奥大井遠征記

平成28年入学 近本 紘太郎

まえがき

 突然、このような質問をされたとしよう。

 

「静岡といえば、海と山、どちらのイメージが強いか」

 

 私が思うに、多くの人は「海」と答えるのではないだろうか。もちろん富士山をイメージする人もいないわけではないだろうが、太平洋に面しており、大規模な漁港が点在する静岡県は、どうも海のイメージが強いように思われる。

 だが、ここで地図を開いて、静岡の北部を見ていただきたい。すると、静岡の北部が、南アルプス南部の急峻な山岳地帯となっていることがお分かりいただけるであろう。そして、目を凝らして見ると、ここに急なカーブを繰り返して山を登ってゆく線路のあることが認められるだろう。

 この細い鉄路こそが、今回私が目指した「大井川鐵道井川線」である。江戸時代に東海道の難所として知られた大井川は、明治大正に入って、上流部の急流と豊富な流量から、理想的な電源地帯として注目されるようになった。渓谷にはいくつものダムが築かれ、発電所が建設された。この大井川鐵道井川線は、その電源開発のための産業用トロッコとして敷設されたものが、観光鉄道としての役割も果たすようになったものである。この非常におもしろい歴史と性格を持った路線は、鉄道趣味者でなくとも興味を持つ人が多く、私も以前から乗車の機会を伺っていたものである。

 

 また、この井川線であるが、実は201492日に発生した土砂災害の影響により、長期運休となっていた。それが今年、2017311日に922日ぶりの運転再開を果たしたのである。山間を縫って走る小さなトロッコ列車に、かねてより関心を抱いていた私は、この機会に同地を訪問することを決意した。遠征実施期間は2017年3月13日から16日までの4日間。この記事において、その際の体験を詳細に報告しようと思う。

 

1日目 2017313

 東京都南部に住む私は、この日の朝6:00に品川駅を歩いていた。大井川鉄道の起点は、東海道線の金谷駅、まずはここを目指さねばならない。当面の食料などを調達すると、東海道線ホームに降り、列車を待った。

 E231系充当の6:16727M熱海行普通電車が到着すると、乗客が入れ替わり、私もこの列車に乗り込んだ。ラッシュが本格化する前に首都圏の最混雑区間を抜けてしまおうという考えである。品川で多少空いていたためボックス席の横のロングシートに座席を取り、今後に備えて一眠りすることにした。

 

 品川を出てから1時間ほど経ったであろうか、目が覚めた時、列車は下りの割に混雑しており、朝靄の中を進んでいた。区間としては横浜を過ぎ、湘南のどこかであったかと思われるが、それがどこであったかを正確に確認するまでもなく、再び眠りに落ちた。

 再び目を覚ましたのは小田原の手前だった。小田原では1分停車するが、まだ3月のこと、外の空気が冷たかった。

 小田原で乗客が半分ほど下りて、列車は空いてきた。根府川で海から昇る朝日を浴び、銀色の車体を輝かせて、朝の湘南を下っていった。真鶴、湯河原でも下車があり、終点熱海では空席も目立つ程度に空いていた。

 熱海の到着は7:59、この辺りで自然の摂理、腹が鳴る。駅の放送では、静岡方面は8:02発の普通電車が案内されていたが、次の8:23発でも旅程の上では問題ない。そこで、8:02発を見送って何か食事をとることにした。すると都合の良いことに、ホーム上すぐ近くにそば屋を発見。貧民ゆえに扱いに慣れぬ一万円札を崩すことも兼ねて、肉そばを注文した。ちょうど店内の客が入れ替わるところで、一人でゆっくりと食べることができた。しかしこの時そば屋のおかみさんと話したところの情報によると、静岡方面は雨の恐れありとのことで、不安要因が生まれてしまった。

 

 そばを食べ終えて出てくると、8:10を過ぎた頃であった。ホームを移動し、8:23発沼津行1425M普通電車を待つ。定刻通り到着した電車は、313系の5連であった。車番を見てみると、なんとクモハ313-2313であった。しかもこの日の日付は313日である。面白い偶然もあるようだ。ちなみに3132300番台というのは、発電ブレーキを搭載した静岡地区用の2連のグループのことのようだ。そして、後部にはこれの3連版である2600番台が連結されているという編成だと思われた。

 この時東京方面からの列車が5分ほど遅れていたため、列車は乗り換え待ちのため同じ時分だけ遅れて発車した。発車するとすぐに来宮駅を左に見て、加速しながら丹那トンネルに突っ込んでいった。回復運転を行うためか、高い防音性能を誇る313系の車内でもモーターの轟音がはっきりと聞こえていた。

 深い闇の中、長大トンネルで伊豆半島の付け根を貫き、列車は函南、三島と止まって客を拾ってゆく。終点沼津には3分遅れの8:44に到着した。ここで、接続する745M浜松行普通電車に乗り換えた。この列車は本来8:44発だったが、やはり3分遅れで発車した。しかし、駅間が長いことに加えて、313系といえば国内の近郊電車でかなり性能の高い部類に入る連中である。気がつけば富士を出たあたりで遅れは回復していた。始発列車も多い興津駅を過ぎ、静岡を通って駿河の地を快走する。金谷の一つ手前の島田止まりの列車なども多い中で、浜松行というのは非常にありがたい。

 島田を出て、やがて列車は長い鉄橋にかかった。これこそが、箱根八里を凌ぐ東海道の難所として知られた大井川である。最近は軍艦を擬人化したゲームが根強く人気を誇っていることから、帝国海軍の巡洋艦「大井」の由来として知る人も多いだろう。この川、江戸時代には江戸を守る軍事上の理由から架橋が禁じられ、ここを越すには人足を雇い、肩車をしてもらう必要があった。当然増水すれば足止めを食らうし、事故も発生したであろう。そして、文明開化を経て近代産業が日本に根付く頃、この川の上流では水力発電を狙ってダムが建設され始めた。そのための鉄道が、大井川鐵道なのである。

 

 大井川鐵道の始発駅、金谷には10:14に到着した。JRの駅は中線を持つ幹線の風格であるが、対する大鉄の駅はというと、11線の小さな作りである。かつてはJRとの連絡線もあったらしいが、今は撤去されているという。

 ここで隣接する大鉄の駅舎に入ってみよう。中は木材を多用した温かみのある作りである。まずは窓口に向かい、大井川本線、井川線、大鉄バス全線が3日間乗り放題となる「大井川周遊きっぷ」を購入する。15,400円であるが、金谷から井川まで往復するだけでも元が取れるという非常にお得なきっぷである。2日間版4,400円もあるので、観光で訪れる際にはご活用されることをお勧めする。合わせて、これから利用するSL急行券(1800円)も引き出してもらった。電話またはネットから予約が可能であるが、ダイヤ改正を挟んで以降の分はネット予約ができないので、今回は電話連絡で押さえてもらった。なお、復路のSL券も同時に受け取りとなった。

 

 きっぷを買うと、売店に立ち寄って弁当と瓶飲料を買う。瓶飲料というところから、勘の鋭い方はお気づきいただけると思うが、SLの客車には、今でも「センヌキ」が残っているのである。ついでに、以前硬券切符を大量に譲ってくださった先輩へのお土産として、大井川鉄道の鉄道むすめ「井川ちしろ」さんのグッズを購入した。

 

 11:16に電車が来たので改札を抜けて、ホームに入ってみる。折り返し11:26発のこの電車は、807新金谷行普通である。SLの始発駅新金谷への連絡列車で、SLが走る日に合わせて運転される臨時便の扱いとなっている。車両は16000系という。オレンジと紺色のツートンから察しがつくように、もと近鉄特急車である。近鉄ではややレアな1,067mmゲージの吉野線を走っていた車両で、引退後はここ大井川の普通電車として働いている。

 車内に入ってみよう。まだ肌寒い外の気温のため、暖房が入れられていた。座席などは近鉄時代のまま残されており、整理券発行機などワンマン機器が設置されているほかは目立った改造を受けているようには見えなかった。この時11:26の発車時刻となり、電車は隣の新金谷へ走り始めた。高台につくられているJR線の横を下り、金谷の中心部に入る、車庫の横を抜け、ポイントを渡って新金谷に到着した。ここで列車は引き上げるから、ホームに降りて今度はSLを待つのである。

 

 ホームに立って金谷側を見てみると、すでに本日の担当機関車が待機していた。小柄な車体だが大きく煙を吐いているのはC5644号機である。この機関車は、戦時中に軌間をメーターゲージに変更した上で陸軍に供出され、タイ、ビルマで働いていた「出征機関車」の中の1両であることが知られている。爆撃などで損失も多い中を生き延びたこのC5644は、戦後はタイ国鉄で働き、その後関係者の尽力により、日本への帰還を遂げたのである。このとき、C5644は大井川鉄道にて動態保存となったのに加え、一緒に里帰りを果たしたC5631が、靖国神社に奉納されている。

 ホームにC5644牽引の列車が入ってきた。旧型客車による編成であるが、有名なトーマス号の運転でも使うため、車体はオレンジに塗られている。旧客というとどうもぶどう色や紺色のイメージがあるが、単色なためかあまり違和感はない。

 発車までは時間があるため、新金谷構内をうろついてみる。ソフトクリームや硬券入場券(大井川鐵道は今も硬券を用いている)など買って戻ってきてみると、改札口にSL保存費用の募金箱が置かれているのを見つけ、手元の釣り銭を全て放り込んだ。

 

 少し話がそれるが、大井川鐵道の経営状態は、過去に例がない程度に厳しいと言わなければならない。というのも、沿線の人口が減少傾向にある中で、SL関連の運賃、料金、物販などが収入の9割を支えていたのである。しかしながら、今も生々しく記憶に残る関越道のバス事故以降、ツアーバスの規制が強化され、例えば東京-新金谷駅間の区間は微妙な状況となる。というのも、運転士1名乗務で運行可能な距離は最大500キロとなったため、東京から新金谷までの単純往復ではギリギリとなる。かといって、他の観光スポットに立ち寄ることが無いわけでも無いから、2人乗務とせざるを得ない。したがって、新金谷までSLに乗りに来るツアーはそもそもが廃止になったり、値上げされたりという状況になり、それがSL利用者の減少という形で大井川鐵道に影響を与えてしまったのである。その状況のため、トーマス号の運転で巻き返しを図るなどしているものの、地元の反対の中で普通列車が削減されるなどの問題が生じている。新しくスポンサー企業がついて経営再建を目指してはいるが、現状、まだ厳しいことに変わりはないようである。

 

 ここで思ったことがある。一部バス会社のずさんな管理が招いた事故のせいで、大井川から汽笛が消えてしまっては、鉄道愛好者としてたまったものではない。加えて、地元の人に不便が強いられているのも気の毒でならない。僭越極まりないのは承知である。だがとにかくできるだけのことをしよう、ならばせめて、今使えるだけの金を使おうと決めたのだ。

 もちろん、毎月バイト代を貯めて旅行したり、物を買ったりとしている学生の身分では、使える額などたかが知れている。しかし、それでも構わないと感じた。自分の旅行をSNSに投稿すれば、こうやって旅行記を書いて少しでも拡散すれば、誰かが同じことを思ってくれるかもしれない。そのためにもまず自分から始めたかった。

蒸気機関車C5644 (大井川鐵道大井川本線新金谷駅 2017.03.13.

 それでは本題に戻ろう。改札を入り直すと、ちょうどSL列車のドアが開く。客車の床下から湯気が上がっているのは、SLの蒸気を暖房用に供給してもらっていることによる。車内は木張りの床に背の低いボックス席が並ぶ、なんとも古い時代の列車のそれである。乗って面白く、撮っても楽しく、模型にしても興味深い、そんな客車の4両編成だ。私が乗った先頭車はオフシーズンなので乗客はそこまで多くないが、それでも近くのボックスの人と乾杯して旅の始まりを確かめた。

 11:52の発車時刻となり、新金谷の構内に汽笛が響く。SLのロッドが動く音が聞こえ、少しずつ加速を始めて行く。時折窓の横を煙が過ぎていき、車内はどことなく石炭くさい。窓枠には、うっすらとススが付いていた。都会にいては乗ることのできなくなったノスタルジックな列車は、金谷の市街地を抜け、やがて大井川の横に沿って走るようになった。車窓は曇り空であるが、川の流れは穏やかであった。

 ちょうどこのころ、車掌さんのハーモニカ演奏や車内販売などが始まり、車内は賑わいを増してゆく。私も車内で購入した弁当を開けて食べたり、演奏に合わせて手拍子をしたり(弁当が膝から落ちそうになった)、盛り上がりに合わせて楽しんだ。

 途中、桜で有名な家山に停車するも、この時期咲き具合は微妙。停車時間は短いので、外には出なかった。途中、川根温泉笹間渡を通過するあたりで、近くの温泉に入っている人と手を振り合う。もちろん相手は露天風呂で入浴中なので当然スッポンポンであり、車内には笑い声が響く。そして、地名(じな、と読む駅名である)を過ぎると、山でもないのにトンネルのような構造物をくぐる。当然ながら不思議に思うが、これは以前物資運搬用の索道が上を通っており、落下物を防ぐために設置されたものであるという。

 列車は大井川の中流部を走って行く。先ほどよりも、大きめの岩も目立つようになり、標高も上がってきているようである。路線は金谷から千頭に向けて一方向の上り勾配であり、SLも編成が長くなると電機の後押しを受けるというから面白い。普段は新金谷に待機しているというその電機も、非常に価値のある古いものが使われている。

 13:00を過ぎ、千頭の手前、崎平を通過すると、車内が下車準備で慌しくなった。この後すぐ井川線に乗り換える予定の私も、荷物をまとめ、ゴミを袋に詰めて支度する。終点千頭到着は13:09、穏やかな午後であった。

 

 千頭の大井川本線ホームは櫛形2本があり、駅の規模は大きい。有人窓口や売店、蕎麦屋なども併設されており、新金谷同様、運行上の拠点となっている。降りると、まずお約束、窓口で硬券入場券を購入する。その後、井川線の2時間近い乗車に備えて物資を調達すると、もう一度ホームに戻った。

 ここで改めてSLを見てみよう。車体の金属部品はよく磨かれており、車体も黒光りしていた。念入りに手入れされたキャブの中は、様々なネジやバルブ、ハンドルなどが複雑に組み合わせてあり、何が何を動かすものなのか素人の頭にはわかるはずもないが、どことなく造形に美しさを感じる。

様々な部材が絡み合うC5644のキャブ内 (大井川鐵道大井川本線千頭駅 2017.03.13.

 SLに見入っていると時間が過ぎてゆくのを忘れるが、隣にはすでに井川線の列車が入っている。大井川本線と違い、小さくも無骨な車両が止まる井川線ホームに行ってみよう。

 井川線の車両は、もともと762mmゲージの産業用トロッコとして建設された経緯から、1,067mmに改軌されて久しい今でも、車両限界が極めて小さい。そのため、全長10m強の背の低い箱型の客車が用いられている。機関車も小さく、全長は9m程度と思われる。これらの車両は、塗装こそスイスの登山鉄道と同じカラーリングになっているが、元産業用の路線らしく、質実剛健という表現が似合うものである。

クハ600型客車先頭の井川線列車 (大井川鐵道井川線千頭駅 2017.03.13.

 写真をご覧いただければわかる通り、線路の幅に対して車体幅が極めて小さい。また、元がトロッコであるからカーブが多く、サイドミラーが取り付けられているのも特徴的だ。連結器横の補助灯は、台車がカーブを曲がると、カーブの先を照らすよう向きを変えるという便利な機能が付いているのだという。

 また、客車が先頭ということに違和感を持たれた方も多いだろうけれども、これにも理由がある。井川線は、千頭から井川に向けての一方向の上り勾配で、途中のアプトいちしろ-長島ダム間には、鉄道日本一の90‰(水平距離1,000mに対し、標高差90m)の急坂が控えている。この区間で、仮に機関車が客車を引いて登っているとして、連結器が破損してしまえば、客車は坂を転げ落ちて大惨事となる。そのリスクをなくすため、井川線では全列車において、坂下側に機関車を配置して重さを受け止めているのである。従って、坂を登る井川行列車では、機関車が後ろ、客車が前という「推進運転」が行われるのだ。先頭の客車には運転台が付いており、ここから後部の機関車を制御している。

 機関車は、路線の大部分が非電化であるためディーゼル式となっている。形式はDD20型といい、小柄ながら力強い。なお、唯一電化されているアプト区間ではこのDD20型の動力は用いず、専用電気機関車ED90型の後押しを受ける。そのため、井川に向かう際クハ600型は2種類の機関車を制御しなければならない。運転台を見てみると、上下2段のマスコンの台座があり、調べてみるとDD20型の制御回路につながるもの、ED90型の制御回路につながるものと使い分けられているようであった。

列車を押し上げるDD20型機関車 (大井川鐵道井川線千頭駅 2017.03.13.

 機関車や客車を見て回り、留置線の車両群を一通り撮影し終えたところで、発車時刻の13:35近くとなったので、先頭車のかぶりつき席に陣取る。汽笛を鳴らすと、トロッコ列車はゆっくりと千頭を後にした。千頭の市街地をゆっくり抜けると、大井川の川べりに出た。5分ほどで着く川根両国は、車両基地がある拠点の駅。交換設備も備えられ、駅員もいる。

 川根両国を出ると、やや標高を上げて山の中に入る。木立の中をゆっくり、本当にゆっくりと進む様は、かつて日本のそこかしこに見られた森林鉄道の風景と全く変わらぬものであろう。13:45着の沢間は、かつて本物の森林鉄道と接続していた駅。ここを起点としていた千頭森林鉄道は、大井川の支流寸又川に沿い、秘湯寸又峡温泉一帯を60km以上にわたり走っていた。なお、この日の宿をとったのも寸又峡であったのだが、聞くところによれば温泉へのアクセス手段である静岡県道77号線は、アップダウンと急カーブが続く山道であり、奥泉駅の先から寸又峡温泉に至るまでの道中、全く人煙途絶えた区間もあるとのことである。もし森林鉄道が今も残っていれば、その車窓もまた明媚であったに違いないだろう。今もトンネルや路盤など一部の遺構が残っているとの情報もあり、本格的な登山装備を担いで探索してみたい。

 次の土本はいわゆる秘境駅的な雰囲気を持つ。周囲に若干の民家はあるが、木々の中に駅があり、ジブリの世界のようである。空が少し曇り、土本の次の交換駅である川根小山のあたりは湿った空気であった。深い森の中のことである。もののけ姫やトトロを思い出す。川根小山から先はやや長いトンネルもあり、道路拡幅などに合わせて数回の付け替えが行われたと言う話も聞く。

水鏡の美しい大井川の流れ (大井川鐵道井川線奥泉付近の車窓より 2017.03.13.

 14:05に、有人駅である奥泉に到着だ。駅員さんが手を振って列車を誘導していた。隣にアプトいちしろを控え、井川線の運行上重要なポイントであるらしい。その後、列車は奥泉を出て、大井川にかかる大鉄橋を渡る。すっかり上流部の風景に姿を変えた川は、巨岩が転がり荒々しい。

 やがて、曲がりくねったトンネルを抜けると、少し開けたところに出る。留置線が整備され、ここから架線が張られている。赤と白の電気機関車が待機するこここそ、アプト区間の基地であるアプトいちしろ駅だ。かつて川根市代と名乗った小駅は、今や頑丈な枕木が据えられて、巨大なアプト電機の待機する拠点となっている。アプト式電機は台車に歯車を装備しているため、これと干渉しないよう、この駅の分岐器はトングレールが折れ曲がって間を開ける構造になっているなど、面白い設備がある。

 

 アプト電機がやってきた。3両あるED90型の2号機である。写真をご覧いただければわかる通り、客車やDD20型と比べ、非常に背が高い。アプト区間の車両限界は、ED90型を通すため十分に拡張されているということである。ラックレールのエントランスからゆっくりと駅に入った機関車は、最後尾のDD20型のさらに後ろに据え付けられ、列車の全重量を負担することとなる。

アプト式電気機関車ED902号機 (大井川鐵道井川線アプトいちしろ駅 2017.03.13.

 この駅では、停車時間が14:15-14:19まで4分間取られているため、乗客は車外に出てアプト電機の連結作業を間近に見ることができる。せっかくなので、その特異な構造を読者諸氏にもご説明しよう。上下の写真も適宜詳しくご覧いただきたい。

 まずは何と言っても台車である。2台それぞれに2軸の動輪と、ラックレールにかませるピニオンの3つ分のモーターが装着され、車体とは複雑な機構でリンクしている。90‰という急坂を安全に走行するため、この台車にはスピードオーバーを検知して非常ブレーキをかける機能や、他にも多重系統のブレーキが備えられているのも特徴である。

 最大のポイントであるピニオンは、各台車の動輪の間にあると説明を受けた。地面に寝そべり、車体の下を覗き込むとそれはあった。3枚の歯車が、位相をずらして噛み合わせてあり、一つの歯車が破損しても、他で確実に重量を受け止めるという安全策が取られている。

 ピニオンが噛み合うラックレールも3枚が並べられた構造で、その始点(エントランスという)は面白い構造をしている。ピニオンとラックレールがうまく噛み合うように、徐々にラックレール側に歯が突き出してくるような仕組みになっており、先端部は重点的に塗油されている。少しでも摩擦を軽減するためか、エントランスは下からバネで支えられ、ピニオンと接触すると上下に動いて両者の位相を合わせるという。

アプト電機ED90型のピニオン (大井川鐵道井川線アプトいちしろ駅 2017.03.13.

 発車時刻の14:19となり、汽笛が鳴ると、乗客は列車に戻る。ゆっくりと動き出した列車は、今度はED90型に動力を頼る。やがて、「90」と書かれた勾配標が目に入り、いよいよ列車は坂を登り始めた。トンネルを一つ抜けただけで、大井川の流れがぐっと低くなった。それだけ高度を上げたことになる。列車の前方には、これから走る線路が見えるが、明らかに傾いていることがわかる。そして、左カーブを曲がった先に、巨大な長島ダムの堤体が待ち受けていた。

 大井川本流では唯一の多目的ダムである長島ダムは、1990年ごろの完成と非常に新しい。そして、このダムができ、従来の線路が水没することになったため、井川線は線路の付け替えが行われた。その際、ダムよりも高度を稼がねばならないから、この90‰という国内で他に例を見ない急坂が生まれたのである。碓氷峠66.7‰区間が1963年に粘着運転式に変更されてから、27年ぶりの国内のアプト式鉄道復活であった。

 

 やがて、列車は平坦なところに出ると、アプト区間を終えて長島ダム駅に着いた。ここでED90型を切り離し、DD20型の動力で運転を再開した。トンネルを抜けて、長島ダムのダム湖である接岨湖に沿って進む。しばらくして、右手に巨大な鉄橋が見えてくる。奥大井レインボーブリッジと名付けられたこの橋は、東京のレインボーブリッジより先の完成である。蛇行する川の流れをせき止めたためにダム湖も大きく曲がりくねっているが、そこを直線的に抜けるために架けられているようである。途中で一度対岸に渡るが、そこが奥大井湖上駅。アプト区間や、この先の関の沢鉄橋と並び、井川線の見所として頻繁に紹介されるところである。

 奥大井湖上では、10名ほどが下車。ホームにある鐘を鳴らしたり、鉄橋横の遊歩道を歩いたりして楽しんでいる人が見られた。もう一度橋を渡ると(この橋の線路横に遊歩道があり、駅から対岸に渡れる)、川を離れて静かな山里の中を進む。14:47到着の接岨峡温泉は、一部列車の始発にもなっているが、集落から離れており閑散としていた。

 

 接岨峡温泉を出て11分で、秘境駅の尾盛。以前はダム建設の基地が置かれたポイントであるが、今は駅に通じる道路も廃道となり、周囲も自然に還っている。マニアが訪れることもあるようだが、熊が出ることも時折あるため、相応の準備をしておくことが望ましい。連続して熊が出没した際は、下車禁止となることもあるので要注意である。

 尾盛を出ると、次は閑蔵。その間には、川面からの高さが70mで鉄道日本一の「関の沢鉄橋」がある。優美な鉄骨アーチの橋は、対岸からの撮影名所でもあるが、渡る方としてはなかなかに恐ろしい。連結器の緩衝装置も簡素であるから、大きな音を立てて客車が揺れると冷や汗である。眺望を楽しむ為の停車も、私のように高所恐怖症の気がある者にとっては半ば拷問に近い。しかし乗りつぶしの為には乗らねばならない。

 

 閑蔵は森の中の切り通しに作られた交換駅。ここで赤信号となり、対向列車を待った。尾盛とはまた違った雰囲気の秘境駅と言えるが、こちらの近くには数軒の民家があり、井川線の列車で朝の新聞が配達されているという。

 閑蔵から先、終点井川までは100mもあろうかという崖の上を走る。建設も、相当な難工事となったであろうことが想像出来る。閑蔵から井川の所要時間は18分となっている通り駅間が長く、かつて井川線の貨物輸送の華やかなりし頃は交換線を備えた信号場もあった。この信号場あとは、この区間で崩落などがあった際に復旧工事の拠点とされることも多いという。途中、列車は頑丈な鉄骨のシェルターで防護された区間を通る。ここが、井川線を長期運休させていた崩落の現場だろうか。のり面は真新しいコンクリートで補強されていた。

 やがて、眼下に井川ダムが見えてくる。日本初の中空重力式を採用した巨大な堤体は、高さ103.6m、最上部の長さ243.0mとなっている。直下には奥泉ダムもあり、井川ダム井川発電所62,000kW、奥泉ダム奥泉発電所87,000kWの出力である。ちなみに大井川水系全体の発電出力は660,000kWということである。日本海側に黒部があるなら、太平洋側には大井がある。景色の良さも電源開発の歴史も、より多くの人に知られてほしい。

井川駅駅舎 (大井川鐵道井川線井川駅 2017.03.13.

 終点井川に到着したのは、山の向こうに日も隠れ始めた15:26のことだった。閑散とした駅前が、にわかに活気づく。私も一度列車を降りると、駅舎で硬券を買い漁ったり、駅前の売店で買い食いしたりと楽しむ。沿線でよく見かけるペットボトル入りの川根茶は、うまみと渋みのバランスが良く冴え渡るような味わいである。

 駅舎内には、鉄道むすめ「井川ちしろ」さんのパネルが置かれており、こちらも訪れる客に好評なようであった。折しも「全国鉄道むすめ巡り」が開催中で、スタンプ台も設置されていた。このスタンプ台も井川まで列車が入れなかった頃は千頭駅に置かれていたという話であるが、「巡り」をする人の間では「井川復旧で難易度が跳ね上がった」と話題のようである。当会にも鉄道むすめ愛好家は複数名在籍しており、「最高到達難度は井川駅」と異口同音である。

 

 15:54の折り返し発車時刻となり、千頭へ戻る。先ほど進んできた区間を、今度は機関車を先頭に戻る。この列車はなんと井川駅の最終列車であるから驚きだ。夕日に照らされる井川ダムに見送られ、少しずつ山を下っていった。相変わらず規格の低い線路に小さな連結器という因縁で、崖の上を走っているというのにガチャガチャと心臓によろしくない揺れっぷりであった。また例によって関の沢鉄橋では停車したが、発車時に機関車からひどい振動が伝わってきたところで、半ば死を覚悟した。もちろん私がこの記事を書いているということは、無事列車は落ちることなく通過できたというわけであるが、今度乗る時は前日に徹夜して、この区間では寝ておこうと決めた次第だ。いや、もう乗りたくないかもしれない。

井川ダム (大井川鐵道井川線閑蔵駅-井川間 2017.03.13.

 接岨峡温泉のあたりは晴れていたが、山を下る途中、アプトいちしろのあたりから曇り空となり、土本あたりで雨となった。雨の降る暗い山の中、私以外に誰もいない客車というのは、どこかの怪談話にでも出てきそうである。

 静寂を切り裂いたのはスマホの着信音。この日の宿からの連絡だった。到着時刻を聞かれたので、詳細に伝えておいた。通話が終わると沢間のあたり。車庫のある川根両国を過ぎ、すっかり日も落ちた千頭駅に17:38に到着した。

 

 千頭から、大鉄バス寸又峡線、寸又峡温泉行87便バスを待つ。18:15の発車であるから、しばらく時間が空く。しかし千頭駅の売店はすでに営業を終え、ただ雨が降っているだけの寂しい世界だった。駅前には、やはりバスを待っているおじさんがいただけで、他に人はいなかった。

 18:10頃になり、ハイエース改造のマイクロバスが到着。これが寸又峡温泉行きであるようだ。乗客は私と、先ほどのおじさんだけだった。それぞれ行き先を尋ねられたが、それはこのバスがデマンド運行であるからだ。途中の奥泉を出た時点で乗客がいなければ、運行を取りやめて車庫に戻るということである。

 千頭駅を出ると、奥泉までは快調に飛ばしてゆく。千頭駅前〜奥泉駅前の所要時間は10分で、井川線の3分の1である。しかし、奥泉駅前から寸又峡温泉までは、急坂急カーブの続く山道で、対面通行もできない。ところどころ待避所が設けられており、そこで対向車をやり過ごす。無人の山中のこと、車窓は完全に闇である。その中を30分ほど走るから、当然その間寝てしまっていた。

 

 18:42に、寸又峡温泉入口のバス停に止まり、ここで下車。宿はそこから歩いて30秒である。予約しておいた温泉民宿「深山」さんは、食事も美味しく人気のある宿だ。しかし、この日はシーズンオフでもあるため、なんと貸切状態だった。宿の主は親切な老夫婦で、二人で切り盛りしているらしいが、中はどこも非常にきれいに整えられている。案内された部屋は6畳で、布団を敷いて机を置いても余裕があった。

 荷物を置いて、下に降りてみると夕食の準備がされていた。ぼたん鍋に山菜の天ぷら、ヤマメの甘露煮、鹿刺しなど、東京では味わえない料理が並ぶ。そして、後から茶そばなど次々追加されるから、食べ終えた頃には満腹である。

 

 部屋に戻って一服すると、風呂に入ってみた。湯は白くとろみがあるが、これが浴槽外に溢れたら曲者である。ぬるぬるして足を滑らせるので要注意だ。しかし、いざ体を洗い終えて湯船につかってみると、この湯は予想以上に肌触りが良い。湯温は42度程度であったと思われるが、さほど熱い風呂が得意でない私も30分ほど浸かっていた。宿が貸切だと、多少の長湯も許されるのがありがたい。

 温泉から出てみると、ここでも先ほどの湯の効果を実感する。まだ3月の山中の宿のことである。当然寒いはずなのだが、体が温かく、全く湯冷めしないのである。ここが温泉と普通の風呂の大きく違うところか。

 部屋に戻って、暇があったので写真を整理する。部屋に冷蔵庫はなかったが、缶飲料を窓の外で冷やしておいたので、それを飲んで一服する。この日寝たのは12時頃だっただろうか。快適な部屋だった。

 

2日目 2017314

 世に言うホワイトデーであるが、この当時お付き合いしていた女性には、後日お土産を渡すという形で取り繕うことになってしまい大変申し訳なく思った次第である。

 この日、7時頃に起きた。食堂に下りてみると、私の分だけ食事が置いてある。貸切ゆえにゆったりと食事ができるのはありがたい。

 食事を終えて、宿の前のバス停を8:47に出る74便千頭駅前行に乗る。今回はかなり大型の車両である。乗ってみると、車内は座席が半分ほど埋まる乗り具合だった。

 温泉街を出ると、付近に人家のない山中を走る。昨日は暗くて見えなかったが、なんと崖の上を走る区間もあり、スリリングな路線である。しかも朝の便は車高の高い大型のバスであるから、ガードレールが見えずヒヤヒヤする。しかし60代くらいと見える運転手さんは慣れた様子で、寸分たがわずハンドルを切って山道を快走してゆく。途中、携帯の電波は途絶えがちであるが、車窓の変化は実に面白く、退屈しない。

 やがてバスは高い崖の上に出た。下には大井川の流れと、井川線のアプトいちしろ駅、そして大きな発電所を見る。観光路線であるから案内が入り、写真を撮る人も多かった。やがて崖の上を去り、山を降りてゆく。予定時刻9:15より5分ほど早く、奥泉駅前に到着した。

 奥泉は近くに縄文の遺跡があるらしく、近くの公衆便所などは竪穴住居の形をしているという変わった駅である。駅に入ってみると、意外にも有人であったので、入場券など購入する。そして列車を待つ間、他の観光客や駅員さんと談笑していた。

 山間の小さな駅に、汽笛の音とレールがきしむ甲高い音が聞こえて来る。千頭始発の井川行201普通列車の到着である。赤い列車が低いホームにつけられると、手動でドアが開けられる。駅員さんに全線復旧をお祝いしてから、最後尾の車両に乗り込んだ。

井川線下り始発201普通列車 (大井川鐵道井川線奥泉駅 2017.03.14.

 奥泉を出て、隣のアプトいちしろで例によってED90型を連結し、坂を登る。朝の長島ダムの姿は静かながらも堂々としていた。一方で私は、しばらく寝てしまっていた。

 起きたのは下車駅である奥大井湖上駅の手前だった。昨日も渡った橋をゆっくり進んでいくと、湖の上に突き出した半島のようなところに構えられた駅に着く。

 奥大井湖上で降りてみると、日にちが日にちということもあり周囲はカップルがほとんど。目の前でお熱くなられると見ている方は困るのでさっさと撤退。できることなら私も大切な人と来たかったが、あいにく彼女はこの時期多忙とのことだった。

 レインボーブリッジの横の歩道を渡り、対岸を目指す。鉄骨で組まれたトラスの上に金網が渡してあるだけの簡素な歩道で、なかなかにヒヤヒヤする道であるが、山装備を担いだ鉄道オタクは気にもとめず歩いて行った。

 対岸に渡りきると、今度は急斜面に設置された階段を登る。簡易架設のステンレスの階段を登る足音が山間に響く。傾斜は相当急であり、手すりを掴んでゆっくりと登った。

 階段を登り終えたところで分かれ道。案内に従って左の道へ進む。大きな石が転がり、木の根が張った本格的な山道である。この手の獣道には慣れている方なので、急ぎすぎずもサクサクと進んで行く。もちろん駆け足は禁物であるが、山は好きなので普通の人より早いペースで進んでいたようだった。途中から階段になり、傾斜が急になる。流石にここは一歩一歩ゆっくりと歩いたが、登りきると舗装路に出た。付近を通る静岡県道388号線の旧道である。ちょうど尾根を避けるように作られた区間で、新道は短いトンネルでショートカットしている。しかしながらこの旧道こそが、先ほどまでいた奥大井湖上駅を見下ろせるビュースポットになっているのである。旧道というと管理も行き届いていない悪路のイメージだが、ここは訪れる人も多いからか草刈りなども徹底され、眺望を阻む木を刈り取るなどの念入りな手入れがされている。

 

 しばらく待っていると、先の接岨峡温泉の方から汽笛が聞こえ、湖上11:04着の上り402列車が到着する。接岨峡温泉の始発であるため、湖上での乗降客は少ないようであった。次の11:23着の下り203列車は千頭10:19発という時間のちょうどよさも手伝ってか、多くの下車があったようである。

 私は湖上対岸から、これらの発着列車を撮影していた。本数の少ない井川線のことであるから、203列車が過ぎると13:15着の204列車まで空くことになる。列車の速度はゆっくりしているため、様々なアングルで撮ってみることができて意外に撮影効率は良いのだが、モノが来なくなるとそれも一変する。最初のうちは風景を様々に切り取って撮影していたものの、やがて退屈してきてしまった。

 ちょうど飽きてきたのが12:00ごろだったので、昼食ということにした。宿から水筒に入れてきた熱湯でカップ麺を作り、缶詰の肉を食べる。いかにも登山という感じの食事である。簡素であるがこれがうまいのである。

朝の静寂に佇む湖上駅 (大井川鐵道井川線奥大井湖上駅対岸より 2017.03.14.

 食べ終えて、しばらく待っていると204列車の到着。これを撮影すると、次は13:34着の205列車だ。いずれの列車も、橋を渡る鈍いジョイント音が山間に響いていた。

湖上をゆく普通列車 (大井川鐵道井川線奥大井湖上駅対岸より 2017.03.14.

 撮影していると、接岨峡温泉の方からバイクの音が続けて聞こえてきた。どうやらライダーの一団のようである。私が撮影している近くでバイクを止めて降りてきたのは30代〜50代くらいの男性が10人ほど。挨拶を交わすと、並んで湖上駅にカメラを向けた。互いに写真を見せ合うなどして楽しんでいた。

 

 一通り列車を撮影し終えたので、撤収しよう。カメラなど全てリュックにまとめると、ビュースポットで休憩していたライダーさんに別れを告げ、388号線の方に歩く。旧道との分岐点に湖上入口バス停があり、大井川鐵道バス閑蔵線が通っている。1日3本の閑蔵線だが、ちょうどよく14:01発の55便、閑蔵駅前行があり、これに乗る。

 やはり大型バスで来た閑蔵線で、隣の接岨峡温泉に向かう。山里の静かな路線である。接岨峡温泉は有人であるとのことで、硬券を買うため訪れたのであるが、バス停から少し高台に上ったところに駅があり、トトロでも住んでいそうな木立の中の道を抜けて行く。視界が開けたところに小さな駅舎があった。

 しかし、簡易委託にでもなっていて、その時間外であったのか、虚しくも駅は無人であった。入場券など買いたかったが、諦めざるをえない。バス停に戻った。

 

 接岨峡温泉から閑蔵までは、井川線なら20分程度かかるところ、バスならば4分で着く。井川線の線形の悪さと、軽便鉄道由来の低規格さがうかがえる。千頭〜閑蔵間も列車の所要1時間半に対し、バスなら30分で到着する。アプト区間が介在するため、ダム補修のために大規模貨物輸送を行おうにも難しい井川線は、生活路線としての性格もほとんど消えてしまっていると言って良い。すると、この路線がいかなる理屈で生き延びているのか疑問に思われる方もあるだろう。答えから述べてしまえば、道路での到達ができないダム施設等(関の沢鉄管など)のメンテナンスのために中部電力が赤字額を補填しているからである。先ほど貨物輸送が難しいと述べたが、もちろん全くできないわけではないので、それが生命線というわけだ。

 

 閑蔵で折り返したバスが戻ってきた。接岨峡温泉14:14発の56便、千頭駅前行である。これで山を降りる。大井川の深い谷に沿って、急峻な地形を縫うように走る井川線とは対照的で、橋とトンネルが連続する新しい道だ。「従来は30分かかっていた区間が、トンネルの開通で10分に短縮されたところもあります」と案内が入る。軽便規格同然で最高速度も40km/hに抑えられている井川線と異なり、こちらは50km/h程度の速度で走って行く。ショートカットして行く分勾配は急であるが、やはりゴムとアスファルトの摩擦は頼もしい。山岳地帯では鉄道が圧倒的に不利である。急勾配をすこしでも緩和すべく無駄な距離を走る必要があるし、山中に高規格で大量輸送に向くほどの線路は建設できない。そうなれば自動車の圧勝、各地の森林鉄道などがトラック輸送に切り替えられて廃止されていったのも頷ける。交通機関、輸送機関にも適材適所がある。

 

 千頭の駅前に降りてきたのは14:40のこと。寸又峡温泉に戻るバスまで30分時間があるので、そばなど食べて休憩する。天そば430円であったと記憶している。山の上はまだ寒い時期である。熱いものが美味しい。

 寸又峡温泉行の83便バスは15:10の発車で、旅行者が20名ほど乗っていた。運転手さんは朝と同じで、やはり慣れたハンドルさばきを見せてくれた。ヘアピンカーブとアップダウンの続く山道を走るにもかかわらず、奥泉から寸又峡温泉までの区間でも快調に走っていた。千頭駅前-寸又峡温泉間は所要40分だが、温泉入口にはなんと7分も早着だった。

 

 バスを降りて、バス停の目の前にある宿に戻る。ちょうどご主人が夕食の支度のため台所に向かうところに帰ってきたのであるが、もう風呂の準備ができているとのことであった。山歩きをして汗をかいていたので、早速部屋から浴衣を取ってくると、そのまま風呂に向かった。

 汗をかいた後の風呂というのは本当に気分が良いし、それが温泉ともなれば日常の比ではない。また例によって温泉に30分ほど浸かっていた。出てくると、よく冷えたビール…、というのは20歳になってからで、このとき19歳の私はよく冷えた川根茶を飲み干す。実に気持ち良い。

 まだ体が熱い17時頃に、おかみさんに呼ばれて夕食である。この日は鹿鍋がメインで、山菜の天ぷら、きのこ料理など、昨日同様に贅沢な品が並ぶ。ちょうど寸又峡ではふきのとうの芽が出たということで、早速採れたてを天ぷらにしていただく。香り高くみずみずしい。椎茸のバター焼きも美味しい。直径にして10cmにもなろうかという大きさで、バターの香りがよく染みていた。鹿鍋はすき焼き風に食べる。生卵のとろみと歯ごたえのある肉が好対照であった。深夜にこれを読まれている方がいらしたら、飯テロ行為をお詫びしなければならないが、味を思い出しているとつい筆が進むもので、どうかご容赦願いたい。

 

 部屋に戻ると、普段ならばTwitterなど開いてしまうところだが、この日は窓を開けた。18時ごろともなれば暗く、星が見えるのである。夏に比べれば寂しいものの、山の上のことで小さな星もはっきり見えた。ポットにお湯があったので、お茶をいれて、1時間ほど星空を眺めてくつろいだ。なんとまあ高級な時間である。私を含め当サークルの一部メンバーはこのような身分不相応な贅沢をすることを「人権を確保する」などというスラングで呼ぶのであるが、この時間はまさに過剰なほどの人権確保であっただろう。(ちなみに、肉体的ないしは精神的に過酷な条件にあることを「人権がない」とも呼ぶ。筆者でいうならば厳冬の常紋峠に徒歩で登り、氷点下20度の中で貨物列車を待ったことなどがそれに該当すると思うが、人権の有無は各会員の主観によるようだ。)

 さて、星々を眺めていたら、眠くなってくる。山歩きで疲れたことであるし、この日は大学生らしからぬ20時という時間に寝てしまっていたらしい。

 

3日目 2017315

 この日起きたのは7時である。朝食をとり、荷物をまとめる。宿のご夫婦に別れの挨拶をし、昨日と同じ8:45発の千頭駅前行74便のバスで寸又峡温泉を後にした。天気は快晴で、肌寒いながらも気分が良かった。バスの運転手さんは14日と同じ方で、やはりベテランの腕でスイスイと山を降りていった。早着した分奥泉駅前で時間調整をし、千頭駅前到着は9:25定時であった。

 

 千頭からはSLで金谷方面へ向かう予定であるが、発車は午後であり相当な時間があるため、大井川本線を撮影することにした。千頭駅を出て、大井川に沿って歩いて行くこと20分、大井川第4橋梁のそばに出た。ここを渡る列車を撮影する。

大井川を渡る21000系は南海からの譲渡車両 (大井川鐵道大井川本線崎平-千頭間 2017.03.15.

 この撮影地は橋の上なのだが、新旧2本あるうち、歩行者専用になっている旧橋から撮るのが良い。ただ、老朽化の進んでいる橋なので、将来的には架け替えなどで構図が変わる可能性もあることを明記しておかねばなるまい。

 まずやってきた21000系(もと南海の「ズームカー」である)を撮ると、次は橋を渡って崎平側に移ってみた。先ほどの列車が千頭10:14着の5普通列車であるため、次の列車はその折り返しの千頭10:498普通となる。後追いでは面白くないので、正面から撮りたいと考えたわけである。対岸から見てみると、線路や川のすぐ近くまで山が迫る場所であることが見て取れた。おまけにその山はスギ林であろうか、花粉の時期で赤くなっていた。花粉症については山に入って慣れてしまったのか、私自身は撮影していても大した問題ではなかったのが非常に助かった。

やはり21000系。後方のスギ林がすさまじい。 (大井川鐵道大井川本線崎平-千頭間 2017.03.15.

 この後、元近鉄吉野線の特急車である16000系や、SLも通過したのであるが、SLについては煙が白飛びしてしまって良い作品にはならなかったのが残念であった。13:40に現場を撤収して千頭駅に戻り、弁当、飲料など調達して、停車していたSLに乗り込んだ。この日の担当はC11190号で、緑色のナンバープレートが鮮やかで良い印象である。客車はやはりトーマス号用のオレンジ客車だったが、往路同様、違和感はなかった。

 

 SLの発車は14:53、これで千頭、奥大井を後にした。車内の活気は高まっていくが、旅が終わりに近づく寂しさもまたあり、不思議な気分の中での乗車となった。弁当を食べ、川根茶を飲み干していると、車内販売があったので、「動輪焼」を2箱購入した。動輪焼というのはどら焼きの親戚のようなもので、せっかくなのでバイト仲間に差し入れしようと思ったのである。他にも記念撮影ができたので、1枚撮っていただいて1,000円で写真を購入。大鉄に微力ながらお手伝いした。

 やがて列車は家山駅を過ぎて、大井川の流れも実に緩やかなものとなってきた。ここまできてしまえばもう下流部と言って差し支えなかろう。下り勾配であるから煙もさほど出ておらず、ゆったりと走って16:09に新金谷駅に入った。

 

 新金谷の駅には16000系の金谷行普電が待機しており、これに乗り換えてさらに金谷を目指した。金谷に着いたのは16:24のことであった。

 金谷まで来れば、あとはそのまま東京に戻ってもよかったのだが、もう一つやるべきことを残しているので、逆方向の浜松行電車を待った。16:36発の451M普通電車に乗り、夕日を浴びながら浜松へと向かった。しばらく寝ていたように思う。終点到着は17:16だったが、それまでしばらくの間の記憶がない。

 浜松で降りると、そのまま駅前の東横インにチェックインし、荷物を置いて食事をとった。遠州鉄道など乗ってきても良かったのだが、山歩きで疲れていた上にこの時手持ちの資金が少なくなっていたので見送った。安い弁当で腹を満たし、風呂に入るとしばらくネットを見ていたが、この時TRC同期の一人が旅行で浜松駅を通過していったようである。

 この日は、22時頃には寝てしまっていた。翌日の朝が早かったためである。

 

4日目 2017316

 朝6:00に起き、東横インならばどこでも提供される無料の朝食をいただいた。宿泊料に含まれているということなのだが、それでもありがたいシステムである。一通りの和食など食べると、チェックアウトして駅へ向かった。

 浜松駅から乗る911M豊橋行普通電車は7:06の発車、飯田線の特急送り込みのため、373系で運転されるので得である。2両目の端の半個室のようになっているところに座ると、ちびちびと静岡茶を飲みつつ、豊橋を目指した。ちょうど朝のラッシュであるが、特急型であるから席さえ確保すれば快適である。荷物も足元に置いておけば良い。

 列車は朝の浜名湖を渡り、新所原で天浜線が合流してくる。そういえば静岡県内の私鉄路線はあまり乗ったことがない。天浜線ももちろんそうであり、どのような路線なのかは未知である。

 終点豊橋到着は7:43、ここで飯田線の普通電車に乗り換える。豊橋から中央線の旧線にある辰野まで195.7km、直通する岡谷までを含めれば205.2kmの実に長大な路線である飯田線は、これまで全線通し7時間という所要時間の長さに圧倒され、やや敬遠していた節があった。しかし、折角の機会であり、意を決して乗り通してみることにしたのである。

 

 豊橋から、まずは511M普通電車で途中の天竜峡を目指す。車両はそのままで天竜峡からの225M茅野行になるので、この車両に天竜峡での停車時間含む約8時間世話になることになる。気になる車種であるが、転換クロスを備えた2ドア車である213系であった。西日本の0番台と区別して5000番台の番号を与えられているようである。

 その213系がホームに入ってくると、先頭に近い座席に座って少しばかり寝てみた。8:10の豊橋発車で一度目が覚め、ゆらゆらとポイントを渡って飯田線の線路に入っていった。豊橋からしばらくの区間は東海道線と並走するほか、名鉄と線路を共用していることも知られる。線路の所有者はJRであるため、ダイヤ乱れなどが起きると名鉄名古屋本線に対し飯田線の列車が優先されることになる。また、名鉄はこの区間がネックとなり、豊橋の一つ手前で折り返す列車を設定せざるをえないなど、苦労しているようである。

 やがて名鉄と別れて豊川を通り、徐々に山が近づいてくる。本数もやがて少なくなり、本長篠あたりから完全にローカル線の風景となった。乗客も徐々に減っていき、私が乗っていた先頭車両には10人もいない状況であった。10:18着の中部天竜まで、飯田線は平凡なローカル線の顔をしていた。中部天竜では、26分間の長時間停車。ここで駅舎の外に出てみたり、構内踏切から電車を見上げてみたりと、何気ない暇つぶしをしていた。

 

 中部天竜を出ると、次の佐久間は佐久間ダムの近く。そこから先はダム建設による付け替えなのか、一度天竜川本流を離れ、直線的に線路が結ばれている。長いトンネルがあり、やがて城西を出ると次は向市場である。この区間には「渡らずの橋」と呼ばれる第6水窪川橋梁もある。本来川沿いの断崖の中にトンネルを掘る予定であったのが、当該部の地すべりで内部に変状を生じたことから建設放棄され、迂回するように橋をかけた、というものである。この時、更に大規模な崩落が起きても線路への直撃を避けるため、断層のある崖から大きく離れるように一度対岸近くまで回りこむ線形が取られたという。

 水窪を出ると、更に長いトンネルを抜けて天竜川の本流沿いまで出る。まさに現代土木のなせる力技というべき長大なトンネル区間と、地すべり地帯を避けるために橋で逃げるという一計を案じたエリアが共存する、趣味的にも学術的にも興味深い線区であった。

 この後は、有名な秘境駅が点在する区間に入る。2つのトンネルに挟まれた大嵐駅は、その名とはまさに正反対の静けさを見せる。次の小和田も、佐久間湖を見下ろす静かな小駅である。皇太子殿下のご成婚の際に話題となり訪問者が増えた時期があると聞くが、最近も秘境ブームに伴い観光客が増えているとか。次の中井侍を過ぎると伊那小沢。伊那谷に入ったことになる。車窓はトンネルに出たり入ったりを繰り返して忙しいが、明かりの区間で見える景色はどこも長閑なものである。田本なども有名な秘境駅であり、メディアで紹介されることも多い。ここしばらくの5駅ほどは、似たような景色が繰り返された。

 車窓が一変したのは、天竜峡の手前である。「天竜峡」というからには渓谷に沿った、静かなれども雄大な自然の中にある駅を思い浮かべていたのだが、この辺りから谷幅が広がり、突如として市街地が出現したのである。それも駅一つの周りを囲む程度の生半可なものではなく、川に面して広がる大きな街であった。ここが、まさに飯田市の中心をなすエリアだったのである。飯田駅を通り、伊那市に至るまで、ところどころ農地も見えるものの、建物が多く賑わっている印象であった。この先、かつて機関区も置かれた飯田線の要衝伊那松島を通り、辰野に至るまで人口の多いエリアを走っていた。

 伊那谷の北に当たる辰野に到着したのは15:40、ここで8分止まってから、岡谷へ向けて走る。車窓は飯田線のそれと変わらぬが、ここは中央本線の旧線である。16:00ちょうどに、列車は岡谷に到着した。

 

 岡谷駅は、駅名標など設備デザインを見るとJR東日本の駅であることを実感する。まだまだ東京には遠いものの、帰ってきてしまった感がいよいよ強くなった。家に帰るまで時間がかかるため、軽食など購入してから16:25発の1536M小淵沢行普通に乗った。211系のロングシート車3連だったように記憶している。車両の端に座ると、終点までの40分ばかりを寝て過ごしていた。まだ肌寒い時期のことであるが、車内は暖房が入っており暑苦しかった。それでも、疲れが勝ってしまい意識は飛んでいた。

 小淵沢の手前あたりで目が覚めた。これは私の特技(?)なのだが、車内で寝ても下車駅の手前で必ず起きられるのである。鉄道オタクとしては便利なスキルである。

 小淵沢は6分乗り換えである。17:04着から、階段を渡って小海線と同じホームから発車する17:10発塩山行の344M普通に乗る。やはり211系の3連で、ロングシート。これは終点までは乗らず、甲府で降りる。日が傾いてきており、17:48着の甲府では薄暗く感じられた。そして甲府で今度は18:08発の高尾行560Mに乗り換えた。今度こそボックスシート装備の車両であった。空いていれば、ロングシートにも多少足を延ばせるというメリットがある。しかし夕方ともなると混雑気味であるし、眠気を感じることもあれば、腹が減ることもある。一眠りしたり、パンやおにぎりなど摘んだりするにはクロスシートの一角に陣取る方が楽である。かつてこの区間の中央本線の普通では、東日本の車両は115系がもっぱら使用されており、どの車両に乗ってもボックスにありつけた。しかし211系に置き換わってからは、ロング、クロスが混用される列車もあり、その日次第の博打となる場合も生じている。

 甲府を出る18:08には、車窓はすでに夜の表情となった。塩山あたりまでは甲府盆地の中であるが、そこから甲斐大和を過ぎるといよいよ笹子峠にかかる。次の初狩は今なお貨物列車用のスイッチバック待避線が残る山の駅である。途中通る笹子トンネルは延長4,000mを超えるが、断面が狭いのかモーターの爆音がよく響いていた。

 笹子を降りてくると大月、富士急からの乗り換えも受けてより混雑するようになった。ここまで来れば、あとは高尾に向けて下るのみ。相模湖の湖面はすでに漆黒となり、窓のガラスも冷たくなってきた。19:38、ついに首都圏を実感する高尾駅に到着した。

 

 高尾からは、中央線の快速電車に乗り、山手線に乗り継ぎ、その後私鉄数本を乗り継いで帰宅するのみだ。帰宅ラッシュの時間に当たってしまうため、重い荷物を持っていると乗り降りには非常に難儀した。思えば山という自然の中での疲れは心地よいものであるが、都会での疲れは実に愉快でない。山歩きは心肺機能に負荷をかける運動ゆえ、足腰だけでなく全身の筋肉がひとしく疲れて、結果としてよく眠れてむしろ気分が良いのである。しかし人の多いところで動くと、周囲に気を使うため精神的に疲労する。適度であればこれも良い鍛錬なのだろうが、都会では息抜きをする機会に恵まれず過度な疲労がたまるのであろう。その点、雄大な奥大井は、私に良いリラックスタイムを提供してくれたように思う。

 

さいごに

 この駄文が会報「簡易線」に掲載され世に出る頃には、井川線の復旧から1年以上が経過していることになるが、この間にも小規模なトラブルが時折あったとの報告がされている。風光明媚であるところは、裏を返せば自然の営みの激しいところである。井川線も、やはり時に激しい破壊をももたらす強大な自然の中を走る路線であり、その維持には多大な労力が費やされているのが事実である。

 一方、幾度となく災害で壊されては修復する繰り返しを経てきた井川線であるが、そこには人間の粘り強さ、根気を見ることもできる。人工物は自然による損壊を免れることはできぬから、その都度作り直すという行為は、人間にできる最大限の努力なのかもしれない。そう実感する旅であったように思う。最後に、この奥大井の細い鉄路の維持に尽力する関係者各位に、謹んで敬意を表して結びとしたい。

 

 

 

 

写真はすべて筆者撮影

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