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南武線

平成29年度入学 海ツキ

 

1. はじめに

JR南武線は、神奈川県の川崎駅から東京都の立川駅までを結ぶ、全長35.5kmJR東日本の一路線である。また、尻手–浜川崎間をつなぐ4.1kmの支線、尻手−鶴見をつなぐ短絡線を持つ。

南武線自体は東京都心へは向かわない路線であるが、八丁畷駅で京急本線、川崎駅でJR東海道線・京浜東北線・京急本線・大師線、武蔵小杉駅でJR横須賀線と東急東横線、武蔵溝ノ口駅で東急田園都市線・大井町線、登戸駅で小田急小田原線、稲田堤・分倍河原駅で京王線と接続するなど、東京都心に向かう各路線同士を横方向に結びつけるという性格を持つ。このため、武蔵野線や横浜線などと合わせて「東京メガループ」とも呼ばれる。

本記事では、南武線の歴史を簡単にまとめる。

 

2. 歴史

南武線はもともと、「多摩川砂利鉄道」として1919年に免許が出願された路線に始まる。多摩川砂利鉄道株式会社設立趣意書によれば、川崎駅を起点として稲城村まで至り、将来的には立川にて中央線と接続するのだという。さらに、立川まで行った暁には国分寺への視線を敷設し川越鉄道とも接続したいという旨が設立趣意書にはあり、なかなかやる気はあったようである。

さて、その建設の主な目的は、その会社名にある通り「砂利」である。砂利は、線路に撒くバラストや、コンクリートの原料などに利用される。大正期、鉄筋コンクリート造りの建造物が東京にも現れ、砂利の需要が増加していたという。しかし、砂利はその重量の割に安価であったため、東京近郊から鉄道で輸送された。南武鉄道の他にも、砂利輸送を営業目的として設立された鉄道路線は、玉川電気鉄道(1907年創業)、東京砂利鉄道(1910年開業)、多摩鉄道(1917年開業、現在の西武多摩川線)などがある。これらはいずれも多摩川にて砂利採取を行っているが、この他に関東近郊では相模川でも砂利採取が行われている。相模川での砂利採掘のために敷設されたのが相模鉄道(現在のJR相模線)や神中鉄道(現在の相模鉄道本線)である。

なお、過剰な採取により川床が低下し、沿岸に影響が現れたため、多摩川の河床からの砂利採取は1939年に禁止され、その後は「岡砂利」と呼ばれるような河原などの陸地の砂利を採取していた。

1920年、多摩川砂利鉄道から「南武鉄道」に改名し、1921年に南武鉄道株式会社が創立された。19231月に着工したものの、不況や同年9月の関東大震災などの影響を受けて資金が苦しい状態になると、浅野セメントの浅野泰次郎が筆頭株主となり、南武鉄道は浅野財閥傘下に入ることになる。浅野セメントが南武鉄道の筆頭株主となった理由は後ほど考察する。

そして、19273月にようやく川崎−登戸間、矢向−川崎河岸間が開業した。その後は節をつぐようにちまちまと延伸に延伸を重ね、192912月に屋敷分(現在の分倍河原)−立川間が、1930年に尻手−浜川崎間が開業し、全線開通となるのである。

1931年の満州事変以降、軍需産業が好況に沸くと、日本電気や富士通信機(現在の富士通)といった軍事関連の機械・機械メーカーが広大な敷地を求めて南武線沿線に進出した。1936年に進出した。それに伴い、それらの工場に通勤する人も沿線に住むようになったため、乗降客も激増した。

なかなか好調であった南武鉄道であるが、先述の通り沿線に軍需産業が集中していたことから、1944年、地方鉄道法に基づき戦時買収私鉄に指定され、以降国鉄南武線となり、現在に至るのである。

ちなみに、国有化以前には、買収だけは回避しようと、南武鉄道は青梅鉄道・奥多摩電鉄(いずれも現在のJR青梅線)と共に「関東電気鉄道」となる計画を立てていたが、青梅鉄道の買収交渉が進まなかったために、全ての路線が国有化されることとなるのである。

 

3. 浅野財閥

さて、先ほど南武線が浅野財閥傘下となったことに軽く触れたが、この浅野財閥について軽く触れてみたい。

浅野財閥とは、浅野総一郎を祖とする財閥の一つである。国からの払い下げによって手にした深川セメント製造所を中核として、セメント、鉱山、製鉄、運輸交通、築港などを手がけていた。ちなみに、京浜工業地帯の基礎を築いたのもまた浅野総一郎、ひいては浅野財閥であり、京浜工業地帯の中を走る鶴見線(これもまた浅野財閥によって作られた鶴見臨港鉄道が由来である)には安善駅(浅野財閥を支援していた安田善次郎の名が由来となっている)などの浅野財閥にゆかりの深い駅名が残されている。このほかにも、浅野総一郎は新子安にある私立浅野高校の創始者などとしても知られる。

また、浅野財閥は青梅鉄道・五日市鉄道なども有していた。青梅鉄道は石灰石の採掘と砂利の輸送を旅客よりも重視しており、1920年には浅野セメントと契約して採掘した石灰石は全て浅野セメントに運ぶこととしていた。五日市鉄道も同様、沿線で発見された石灰山より石灰石を採掘し運搬することが目的だったようである。

さて、浅野財閥が南武鉄道の筆頭株主となり、南武鉄道を傘下に収めたことに話を戻そう。

ここで、1930年に発行された、日本の各財閥の沿革とその関連会社についてまとめた帝国興信所日報部『財閥研究』283頁「南武鉄道株式会社」の項を見てみると、次のように記述されている。

 

…事業の内容は、

 省線川崎駅を起点とし、多摩川南岸を沿ふて西北走し、府下府中町に出で、さらに中央線立川駅において青梅五日市両鉄道を連絡する線を幹線とし、更に川崎駅から、同所海岸所在の浅野セメント川崎工場に連絡する線を支線とし、主要目的は旅客の輸送よりも寧ろ秩父山中のセメント原石を工場に運搬するにあって、傍ら多摩川砂利の採取販売を為す

といふのである。

浅野セメントでは其原石たる秩父石灰石を青梅、五日市両鉄道を通じて、八王子、横浜経由で川崎工場へ回送して居って殆んど半円を画いて迂回して居るので甚だ不便であるが、当社線に依ると殆んど一直線に石灰山と工場が連絡され非常に便利である。当社の設立に浅野セメントが、イの一番に巨額の出資を為したのもこれが為めだ。ただし当社線は目下建設の途上にあり、開通営業して居るのは約十九哩で、全線三十哩には相当距離があり、現在は収支償はず政府の補助金で年五分の配当をやって居るに過ぎないが、愈々全線完成して其全能力を発揮するに於ては見るべき成績を挙げ得べきは明かである。…(原文旧字体)

 

ここに書いてあることを要約するならば、青梅・五日市鉄道の沿線で採掘される石灰石や砂利を、南武線を経由して川崎を始めとする臨海部へ輸送することで輸送距離の短縮化につながっているということだ。つまり、南武鉄道はバイパスとしての役割を果たしているのである。

加えて注目したいのは、浅野財閥は京浜工業地帯の基礎を築いたということであり、京浜工業地帯に多くの工場を有していたことだ。すなわち、浅野財閥の中核産業であったセメント業の原料を採掘する青梅鉄道・五日市鉄道沿線とを結ぶ、浅野財閥にとっても非常に都合の良い路線だったということである。そうであるからこそ、浅野財閥が株式を取得し傘下に収めたのだということがわかる。川崎周辺の有力者によって多摩川の砂利の採取・輸送を目的として作られた路線であったが、それは同時に多摩地域と臨海部を結ぶという役割をも果たすようになったのである。

なお、浅野財閥は戦後の財閥解体によって解体され、今は財閥としての姿はない。

 

4.さいごに

本記事では南武線について、歴史と浅野財閥との関連に注目した。こうして見てみると、例えば浅野財閥の存在がなければ南武鉄道は立川にさえ辿り着いていたかもわからないし、そもそも存続していたかも定かではない、と考えられる。様々な理由が重なり、独自の経緯をもって、現在の姿がある。それが鉄道を歴史という観点から見る面白さなのではないかと思う。(と、偉そうなことを言ってみたが、この記事を書いたのはそんな大層な理由などではなく、車両などには詳しくないがためにこのように歴史という内容でしか記事が書けなかっただけである。)

ところで、南武線をはじめとするこれらの浅野財閥系の鉄道路線は全て第二次大戦中に国有化されている。ちなみに浅野財閥系以外の中央線以南の私鉄はほぼ全て東京急行電鉄と合併しているか、その傘下に収まっている。さらにいうならば、南武鉄道が国有化された際の運輸大臣は五島慶太であり、また東京急行電鉄の社長は言わずもがな五島慶太である。果たしてこれは偶然であろうか…。

 

5.参考文献

五味洋治『南武線物語』(多摩川新聞社・1992年)

原田勝正『南武線 いま むかし』(多摩川新聞社・1999年)

東京川の会研究会編『「川」が語る東京 人と川の環境史』(山川出版社・2001年)

藤本均『環状線でわかる 東京の鉄道網』(たちばな出版・2000年)

東京南鉄道管理局『南武線いまとむかし』(東京南鉄道管理局・1981年)

帝国興信所日報部『財閥研究』(帝国興信所・1929年)

「官報 19440329日」(大蔵省印刷局)


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