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北陸関西遠征記

平成28年入学 理科一類 横コツ

まえがき

 北陸、それは我々鉄道趣味者にとって、何かと話題の多い土地であった。「國鐵金澤」なるジョークが飛び交っていた時代、この地の普通電車を支配していたのは型落ちした50年物の急行型電車、それから寝台特急電車を改造した「食パン」こと419系。駅の設備も、どこもかしこも古かった。つい最近までは若干数の夜行列車も残っていた。「北陸」「能登」「きたぐに」「トワイライトエクスプレス」など、記憶に新しい。

 しかし、北陸新幹線の開業という鉄道史の1ページになる巨大イベントを経て、北陸地域の鉄道は大きく様変わりした。在来線の分離という負の側面も否定できないが、普通列車を中心に車両が入れ替わり、新たな観光列車が登場、各私鉄路線も、福井鉄道とえちぜん鉄道の直通運転に代表されるように、意外性を伴った大変化が起きた。

 このような北陸地域の革新は、我々趣味者の目を今後も同地へと引きつけ続けるものになるであろう。そこで20168月、私は北陸地域の鉄道の最新状況を確認すべく、現地へと旅に出ることを決めた。

 今回の旅のテーマ・目的は以下の通りである。

 

・北陸の新幹線を除く全普通鉄道・軌道線完乗を達成し、その現状を視察し将来的な発展を考える。

 

 なお、完乗対象とする北陸地区普通鉄道・軌道線は、「富山・石川・福井3県に存在する」、「法令上鉄道または軌道に分類されるもの」のうち、「鉄軌条鉄輪で走行するもの」で、「特別な申請・許可を必要とせず一般人が自由に利用できるもの」と定義する。新幹線の乗車を見送っているのは、単に筆者の懐事情による。また、この旅行より前に乗車した区間については、今回の旅行では訪れなかったところも存在するため、予め乗車済みの旨を明記する。

 

・乗車済み区間

・あいの風とやま鉄道線、IRいしかわ鉄道線、JR北陸本線、JR氷見線、JR高山本線、北陸鉄道浅野川線、JR小浜線(いずれも各線全区間乗車済み)

 

 なお、この旅行中には多くの場所で撮影を行っているため、機材等の説明を述べる。また、掲載している写真を転載使用する際は当旅行記より転載の旨を明記するようお願いしたい。

 

・使用撮影機材

・カメラ:CANON EOS 80D…ハイアマチュアクラスのAPS-Cサイズ一眼レフで、暗所に強い。旅行直前に購入。ダブルズームキットとして付属のレンズ2本を使用。

・三脚…Velbon製、カーボン3段のものを使用。折り畳み時のサイズが大きく機動性には多少の難があるが、安定性が高いため、列車通過時の地響き、振動を受ける鉄道写真撮影に強い。

1日目 82

 82日夜22:30、私は当時の自宅(現在は都内某所に転居)最寄りのJR京浜東北線、鶴見駅にいた。夜出発ということは、当然夜行の移動手段を用いるわけである。先に述べてしまうと、ここから川崎へ行き、南武線で立川まで出て、日付が変わるのを待って青春18きっぷにハサミを入れてもらい、夜行快速「ムーンライト信州81号」を利用するのである。

 22:42、定刻通りやってきた京浜東北線の各駅停車、大宮行に乗車。川崎まで乗り、2245到着。売店を利用し、朝までの飲食物を調達する。買い物を終えて22:50、南武線各停、立川行に乗る。22:53、発車時刻になるも、2分ほど止まっていた。なんでも踏切の直前横断で安全確認を行っているという。結局5分遅れで発車したのだが、幸先の悪いスタートである。途中は回復運転を行い、結果1分遅れ程度で立川6番線に到着した。一度改札を出て、日付が変わるのを待つ。そして0時ちょうどに入鋏してもらい、中央線ホームへと向かった。

 

2日目 83

 ML信州号は0:29発車の予定であったが、当日はダイヤの乱れが発生しており、22分の遅延をしていた。なお、このとき列車の発車時刻が順番通りに表示されないという、遅れ発生時によく見られる光景が展開されていた。

 結局、0:50まで待って信州号に乗車。来たのは「あずさ」色の189系、6連。指定券通り3号車2番のD席に座り、一眠り…、と思ったがモハの爆音ゆえなかなか眠れない。そのまま八王子を過ぎ、高尾を通過、相模湖周辺は完全に闇の中であった。大月を出ると、途中笹子を越えるため余計にモーターが高鳴るようになった。周囲も眠れない人が多いようで、軽食を取ったり、一杯やったりする人も見られた。ここで私も弁当を食べることにする。Newdaysで売られているただの幕の内弁当であるが、夜食というものは昼に同じものを食べるよりうまい。不健康と分かりつつやってしまっている背徳感によるものであろう。通路をはさんで反対側の席に座っているおじさんは缶ビールを3本開けた上に、日本酒まで飲んでいる。なかなかの酒豪のようである。

 食べ終えると、さすがに眠気を感じ、塩山から小淵沢まで寝ていた。しかし、310に発車した小淵沢から先、右に左にカーブを切る列車は当然大きく揺れ、私も目を覚ました。特にすることも無いので、夜更かし大学生らしくTwitterを開きタイムラインを追っていた。もっとも途中のトンネルで電波が途切れることは多かった。4:01発の岡谷を出てから、特に電波が途切れる時間が長いところがあり、外が暗いためトンネル銘板を確認できなかったが、恐らく長さ5,994mの塩嶺トンネルと思われる。

 

 ここで少し余談である。中央本線には、岡谷から辰野を経由して塩尻に至る旧線があることは有名であるが、1983年に完成して、旧線を短絡して距離を縮めたのがこの塩嶺トンネルだ。明治中期の中央本線建設の際に既に構想としては持ち上がっていた塩嶺ルートであるが、辰野経由とされたのは同地がある伊那谷の出身である明治の帝国議会議員にして鉄道局長、伊藤大八の駅誘致活動によるものと言われ、「我田引鉄」の典型として「大八回り」区間と呼ばれ批判的に語られることも多い。1

 もちろん彼の駅誘致活動は事実であるし、辰野には没した翌年の1928年に胸像が立てられている。しかし、政治力をもって駅を誘致するために辰野経由としたという説には疑問もある。それは塩嶺トンネルの長さ、位置、勾配を見てみると理解しやすい。まず塩嶺トンネルは6,000m近い長さがあるが、これを1900年前後の技術で建設するのは無理がある(比較として5,000m弱の笹子トンネルが同時期に6年の工期を要している上、塩嶺トンネルは大断層帯である糸魚川静岡構造線を跨いでおり、工事に際しては異常出水も起きている。2)上に、仮に山の上まで登って短いトンネルで抜けたとしても、当時の蒸気機関車にとっては大変な難所となることが避けられない。ましてや、今の塩嶺トンネルのように内部に勾配を設けるなど論外である。上り連続勾配においては、釜が壊れんばかりの連続投炭を行うわけであるから、当然最大量の煙がトンネル内に充満し、機関士が窒息して死亡事故すら起きかねない。

 加えて、伊藤は建設決定当時の鉄道局長である。彼はこのような塩嶺ルートの悪条件を十二分に理解しており、それゆえ早期の開通と、輸送安定を狙って辰野を経由させた可能性も考えられる。駅誘致は、そのうえでの「おまけ」、あるいは地元世論を使っての当時非現実的な塩嶺ルート回避のようなものであったのかもしれない。批判的に述べるのは自由であるが、熟慮がなされていた可能性に目をつぶり、山岳地帯に鉄道を通す困難な事業を実現させた先人への敬意を忘れるのはいかがなものかと思う。

 

 大きく話がずれたが、4:11、塩尻に到着。側線で多数の211系が朝に備えて休んでいた。以前訪れた際は115系に支配されていたゆえ、時代の変化を強く感じる。停車時間は10分と長いため、ホームに降り、車内で飲んだ分の飲料を自販機より補給した。その後、ホームの風景を数枚撮影し、もう一度車内に戻った。

 4:21、塩尻を発車。わずか11分でもう松本である。ここで多数の登山者が降りていった。

未明の塩尻駅に止まる189系夜行快速「ムーンライト信州81号」 (JR東日本中央本線塩尻駅 2016.08.03.

 

 松本を出ると、大糸線に入る。規格の高くない大糸線内はよく揺れるがもう一眠りした。

 車内に朝日が差し込む5:40、終点白馬に到着した。下車してゆく人々は登山者や避暑地を目指す行楽客が多い印象で、同業者は前日に立川駅で見かけた人がいる程度だった。一度改札を出て、荷物をまとめて再入場し、6:11発の始発上りを撮影した。

 その後、6:56まで待ってから、始発下り南小谷行5321M普通に乗車。乗客は少なく一眠りできた。実は白馬から南小谷までの区間は、諸事情により大糸線の中でここだけが未乗であったので、今回で処理できたことになる。

 7:15定刻で南小谷に滑り込む。ここからJR西日本区間となり、車両は同社の典型的なローカル気動車であるキハ120系になる。単行と思われたが、入線してきた列車は2連であった。それもそのはず、7:39初の始発423D列車は、5321Mからの乗換客と、南小谷からの乗車を合わせて立ち客を多数出すほどに混雑していた。合宿帰りと思しき小学生の集団が、虫取り網を抱えて車内を埋め尽くしていた。

 16m級の軽量車体を強力なエンジンが大きく揺らし、定時で南小谷を発車した。架線が無くなり、非電化区間となる。日本海に向かって流れる姫川の谷を走ってゆくのだが、以前の洪水によって橋が流されたことのある個所が多く、やけに新しいトラス橋が目を引く。線形も悪く、極端なカーブが続く。規格も当然低く、軸重13tDE15型さえ入線できなかったことから、除雪用にDD16300番台が作られたことでも有名な区間である。

 列車は次々に現れる落石シェルターの中を走ってゆく。長いトンネルも見られ、カーブで減速した分の再加速のためエンジンが回りっぱなしである。しかし、山を下りてくるにつれて線形が良くなってきて、南小谷以北唯一の交換駅である根知を出ると長い直線も見られるようになった。

 姫川を離れ住宅地の中を走り、新幹線の高架をくぐると、8:35着、終点の糸魚川である。と、ここでにわか雨に見舞われた。この日は黒部峡谷鉄道の撮影乗車を予定していたため、不安であった。だが予定を簡単に変更するわけにもいかないので、とりあえず次の列車を待つ。ここから乗車するのは北陸本線を分離した「えちごトキめき鉄道」なる会社の路線である。まずは個人的に硬券を集めていることから、同社の観光列車運転開始記念のD型硬券7枚セットを980円にて購入した。同時に魚津までの1070円の切符を購入し、ホームに降りた。

 

 ほどなくして到着した泊行1632D普通列車は、ET122系気動車単行。JR西日本が姫新線に投入したキハ122系の同型車である。このET122系の投入といい、JR四国やあいの風とやま鉄道で発行されるICOCAといい、じわじわと周囲の会社を子分に取り込んでいるかのようなJR西日本である。車内の仕様は、本家よりやや暖色系の壁に、青い座席モケットという感じでまとめられているもので、部材配置の変更は特に見当たらないように思った。

 9:06に糸魚川を出て、親不知で海を見る。雲が低く垂れこめ、雨は止まない。9:34、泊着。中線に入った。ここから乗る金沢行普通は542Mの列車番号となっているから電車である。車種は同社の多数派の521系であった。

 

 金沢行普通電車は9:57に泊を出た。このあたりで、運よく雨が止み、曇り空程度の天気となった。内陸に入り、周囲に水田が広がるも、駅の周りは住宅が密集して、乗客も多い。2連の521系はあっという間に満員近くなった。

 10:19、魚津に到着。ここで隣接する富山地方鉄道新魚津駅に移動する。4,580円なる微妙な値段で2日間のフリー乗車券を購入し、10:35発の227普通電車宇奈月温泉行に乗る。車両は、地鉄の鉄道線の主力となっている14760系であった。自社発注車で、車齢は40年を超えるものの、車内の転換クロスは極めて快適で、冷房もよく効いていた。この頃には、雲が流れて日が出るようになっていた。電鉄黒部までは市街地を走る。あいの風とやま鉄道線と比較して、より人口密集地を抜けていく感じが強い。北陸新幹線連絡駅の新黒部駅は2015226日開業と新しい。この駅ができた際、周辺の軌道の勾配を平坦化する工事が行われたといい、興味の沸くところである。

 新黒部を出ると、徐々に山間部に入り、モーターの音が大きく響く。ちなみにモーターと言えば、富山地鉄の鉄道線用車の形式名の上3桁はその電車のモーターの馬力(PS単位)になっているのが面白い。

 この山区間は小規模な駅が連続する。中には、ダイヤの調整によって交換設備を撤去したところも見られる。それでも、内山駅では混雑した上り列車との交換が見られるなど、この区間の旅客流動は盛んなようである。一時期減少傾向にあった旅客数も、ここ最近持ち直してきているとの情報が入っている。

 やがて宇奈月温泉の街並みが見えてきて、11:25に終点に着く。下車して、記念に硬券入場券を購入した。そしてここから黒部峡谷鉄道のトロッコに乗るため、荷物をコインロッカーに入れようとした…、が空いているロッカーが無かった。仕方なく、荷物を全て抱えて(撮影機材、衣類、各種装備等、20kg)、黒部峡谷鉄道宇奈月駅に移動した。宇奈月駅の周囲には、黒鉄の車両基地や貨物の荷役装置などが広がっている。並んだ線路は、地鉄の1,067mm軌間よりも狭い、762mmのナローである。直流600Vと比較的電圧も低いためか、電気設備も簡素に見えた。

 駅に入り、ここで発券を受けるのだが、14:14発の列車を予約しているため、それまでの約3時間にわたって撮影を行う予定になっている。なお、黒鉄の駅でも荷物を預けられる場所がすでに満杯という。

 

 宇奈月駅そばの新山彦橋の下には、旧線の山彦橋がかけられている。現在は遊歩道なのだが、川底から30mという高さである。当然躊躇したし、タクシーで迂回することも考えていた。だが結局は財布と相談して、橋を渡った。山彦橋を渡ると、線路跡は急カーブを描いてトンネルに消えてゆく。このトンネルを抜けると撮影地近くに出るため、ここを通ることにした。黒部の山中には当然熊が出るため、鈴を鳴らし、手を叩きつつ歩いてゆく。しかし、こうしていると手が疲れてしまう。やはり携帯ラジオを持っている方が便利であった。万が一の遭遇時に備えて登山ナイフや唐辛子スプレーなども携帯しておく方が望ましいし(別に熊を倒すわけではない。無我夢中で反撃していると、熊の側も自分の身が危ないと思って襲う気力を失うらしく、こういった最終兵器があるのとないのとでは生還率が大違いなのだという。)、今後の山間部での装備品について考え直すこととなる。

 トンネルは山肌に比較的近い所を通っているため、一部では明り取りと思われる横穴があり、眼下に黒部川を望むことができた。一方、山側の壁には冬の運休期間中にダム関係者が徒歩で通行する「冬季歩道」があり、こちらもやはり横穴で連絡していた。冬季歩道内は照明がないため、ところどころ口を開ける横穴の奥は完全な闇の世界である。この穴の中を重装備で6時間かけて欅平まで向かうというから、今も昔も電源開発の仕事の過酷さに変わりはない。

 トンネル内部は石組みで作られている区間あり、素掘り区間ありと、変化に富む。オレンジのナトリウムランプの明かりが印象的で、感じ悪さが無い。時折登山者が利用するため整備されているのか、目立った損傷個所や汚れ、ゴミの散乱なども見られない。山ということで、途中すれ違う人と挨拶を交わして進んで行く。

黒部峡谷鉄道最新型電機のEDV型重連による旅客列車 (黒部峡谷鉄道本線宇奈月‐柳橋間 2016.08.03.

 

 トンネルを出ると、階段があって上の車道に出られるようになっていた。そして、車道わきの草地から黒部峡谷鉄道の列車を撮影できるようになっていた。線路横のタイガーロープから十分離れた位置に構えて、列車を待った。1本目は、最新型のEDV型電機牽引の下り旅客便。良いアングルで撮れた。続いての上り旅客便は失敗。10分後、下り工事列車はうまく撮れた。列車は20分間隔で上下が交互に来るという感じのネットダイヤのようである。このとき、撮影地に同業者と思われる人はおらず、通り過ぎる車もほとんどなかった。谷底から聞こえる激流の音、風が吹くたびの木々のざわめきが聞こえるだけで、新山彦橋を渡り撮影地を通過する列車の音以外、人工的な音は聞こえない。ただ、こう書いただけならばなんとも平和で心地よい情景を思い浮かべてしまう方も多いだろうが、このとき気温は30度を超えており、なかなかに過酷な撮影であった。

 

 発車時刻にはまだ早いが、13:00ごろに駅へ向けて戻る。例のトンネルと橋を渡り、宇奈月駅まで20分程度の道のりであるが、今度は下り坂なので暑い事を除けば楽であった。

 黒部川を渡って宇奈月駅に戻ると、時刻は13:20と、出発時刻までまだ50分以上の余裕があった。山歩きと、炎天下での撮影をしてきたわけであるから、当然空腹感を覚え、駅の食堂に入った。注文したのは名物の富山ブラックラーメン。800円ほどと少々高めの値段であったが、観光地なのであまり気にすることではない。味はかなり濃かったが、先程大量の汗をかいてきたためむしろありがたかった。ちなみに富山ブラックが濃い理由であるが、これは戦後間もないころに復興事業で働く肉体労働者のために生まれたもので、エネルギーと塩分の補給を第一に考えたものだからなのだという。当時の話を調べてみると、ブラックラーメンをおかずにして、どんぶりに山盛りのご飯を平らげるおじさんもいたらしい。やはり、体を動かして疲れたあとの食事は格別である。

 食事を終えると、駅2階の資料室を訪問した。黒部峡谷鉄道に限らず、黒部川の電源開発の歴史を豊富な資料や図表、模型を用いて解説している大変興味深い施設でありながら、入場無料であるため、黒部を訪れた際にはぜひご覧いただきたい場所である。以前、小説「高熱隧道」や映画「黒部の太陽」などで知った上流部の過酷なダム・発電所建設の歴史が詳細に解説されており、先人の努力を知ることができる。黒部川は水量豊富、急傾斜であることから発電に適しており、電源開発は戦前から行われている。資料によれば黒部川だけで900,000Kwの電力を生み出している3のだという。鉄道に関する展示もあり、峡谷鉄道の歴史を物語る資料が置かれている。中でも、地方鉄道となる前の専用鉄道時代の登山者向け便乗券に記された「生命の保証は出来ない」旨は実に恐ろしいものであった。

 発車時刻が近づいてくると、改札前に多数の乗客が集まってきた。私は少し早めに並んでいたため、この集団の先頭を切って乗車券に入鋏を受けた。改札口まではきれいに改装された駅も、ホームに降りてみると途端に産業用鉄道のそれに変わる。停車していた列車も、先頭に立つEDR型電気機関車、1000型開放客車・3500型リラックス客車ともに少し汚れとサビが浮いていた。都会からの旅行者と思しき同じ車両の乗客数名は、しゃれた電車に慣れているのか、抵抗があるようなことを話していた。しかし、ここの車両群は、元はといえば大自然と対峙する最前線で「働く」連中である。薄く汚れているのは当然の事、これが彼らの本来の姿なのである。私も、まったくきれいな車両よりも、黒部を走る車両のような、老練、精悍な姿が好きである。

 ところで、まだ述べていなかったが、私が乗ったのは3号車、開放型の1000型普通客車である。運賃だけで乗車でき、特別料金は必要ない。開放型と言われるように、窓がなく雨天時はおすすめできないが、その分黒部の澄んだ空気を味わえるため、往復とも普通客車を選んだ。だが後、私はこの「黒部の澄んだ空気」に苦しむことになる。

 

 14:14、深い峡谷に機関車の汽笛が響き、欅平行旅客列車が発車した。道路の下を潜り抜けた列車は、まもなく新山彦橋を渡る。黒部川から30m以上の高さの橋を渡り切ると、間もなくトンネルに入った。と、ここでトンネル内の空気が異様に冷たいことに気付く。山中での野宿を想定しているような本格的な登山装備を持ってきているわけでもないため、持っている防寒具と言えるものは上着が1枚あるだけで、大変貧弱であった。最初のトンネルは短かったためさほどつらいものではなかったが、この後には長いトンネルも複数控えていると聞いて非常に不安になった。

 数時間前に写真を撮っていたポイントを通過し、宇奈月ダムを横に眺めながら列車は進む。時折沿線の風景を案内する放送がかかるが、朝方降っていた雨のせいなのか黒部川は濁っている中で「エメラルドグリーンの水面」などと言われたものだから少し笑ってしまう。続けて、「列車は山を登っていくけれど、宇奈月が起点だからこれは下り列車ですよ」と冗談めかした豆知識なども放送されていた。

 列車は最初の駅、柳橋に到着。関西電力の専用駅で、一般客の乗降には供されないが、交換設備を持っているため最初の列車交換が行われた。対向列車もやはり旅客列車で、乗客同士が手を振り合う。発車すると、中世ヨーロッパの古城を思わせるデザインの新柳河原発電所に向かう専用線が分岐していった。昔この付近には柳河原発電所があったが、宇奈月ダムの完成に伴い水没し、やや上流の新発電所に切り替えられたということである。ちなみに、宇奈月ダム完成により下流側の水位が上昇し、落差を稼げなくなった分、新発電所の出力は旧発電所よりも若干低下してしまっている4という。

 鉄道研究会員のレポートであるにも関わらず先程から水力発電の話題ばかりで恐縮だが、黒部という土地の関係上ご容赦願いたい。列車は山中に分け入っていき、線路からも近いところに「仏石」が現れる。仏像によく似ていることからこの名が付いたもので、以前は入山者が安全を祈願した場所でもあるという。そして長短さまざまのトンネルを抜け、この間私は異様に冷たい空気に苦しみ、やがて森石駅に到着した。森石も関電専用駅であるが、やはり交換があった。今度の相手は関電の専用列車、「工事列車」である。客車の中でくつろいでいた作業員のおじさんがやはりこちらに手を振って下さったので、旅客列車の乗客も手を振り返した。なお、このあたりから携帯が圏外となった。

 森石の前後はトンネルで、ここを出ると今度は黒部川本流を離れ、線路に沿うのは支流黒薙川となる。

黒薙駅に入線する旅客列車(黒部峡谷鉄道本線黒薙駅 2016.08.03.

 

 トンネルをいくつか抜けると、武骨なシェルターに守られた11線の黒薙駅に到着する。宇奈月の次の一般客も使用できる駅であり、山腹を削って作られているため、ホームの横はすぐ崖になっているというスリリングな駅である。この近くには秘湯として知られる黒薙温泉があり、また付近の堰堤へ向かう関電の専用線も分岐している。この専用線は駅の途中で分岐して、素掘りのトンネルの中に抜けていくのだが、電化されていないため黒鉄ではDLも所有している。また、このトンネルは以前駅員の許可のもと黒薙温泉への近道として使われていたというが、今は保安上一切立入禁止となったとのことである。なお、その黒薙温泉は、衛星電話以外の携帯電話は圏外、郵便局からは交通困難地に指定され、はがきすら届かないという文字通りの秘境である。なお普段はデジタル世界に入り浸っているネット住民の私ではあるが、こういった自然の中で過ごすのも好きなので、この黒薙温泉は一度訪れてみたいと思う場所である。温泉に入って、うまい食事にありつき、普段ならネットを開いてしまうところを、風を浴びつつ星を眺めるのも良いだろう。

黒薙駅より見る後曳橋 (黒部峡谷鉄道本線黒薙駅 2016.08.03.

 

 黒薙を出た列車は、駅のすぐ先で黒薙川を渡る。谷底からの高さ60m1スパン64mアーチという「後曳橋」をゆっくりと進んで行く。この後曳橋の名は、「あまりに谷が深いので、昔の登山者が思わず後ずさりをした(後に引きさがった)」ことに由来する5というが、これに全く異論をはさむ余地がない事は、現地を訪れれば自ずと理解される。

 後曳橋の先はトンネルに入るが、その姿は「山の中に掘られた」というより「岩の中を無理やりぶち抜かれた」という表現が適切であろう。橋の先は崖であり、そこに文字通り無理やり穴をあけたようなトンネルが待っているのである。内部には素掘りの箇所もあり、ここがやはり電源開発に用いられる簡素な事業用の路線として生まれたことを物語る。

 次の駅は、宇奈月からちょうど7kmの笹平。関電専用駅だが、春先の部分営業のときは、ここが折り返しとなる事があるという。列車交換により停車時間が長いときはトイレ休憩として駅のホームに降りることができる場合もあるようだ。笹平でもやはり列車交換があり、文字通りのネットダイヤで運転されていることがわかる。

 笹平を出ると、線路の左側の崖下に「冬季歩道」が沿っていることに気付く。やがて右手には「出し平ダム」が見え、ここを過ぎると黒部川の水位がまた上がる。次にやはり列車交換を伴って出平駅を過ぎる。留置線のあるこの駅には、重機などの輸送に使われるものと思われる大物車が停車していた。

 

 出平の次の停車駅は猫又である。有名な妖怪である「猫又」と何か関係があるのかと疑う駅名だが、その由来は駅の手前の断崖にあるという。その崖はあまりに急であり、猫に追われた鼠でさえ登れなかったということから「ねずみ返しの岩」と言われているという。そして、「鼠は仕方なく引き返すが、鼠を追ってきた『猫』も『また』、登ることができず引き返した」という伝承があり、それによって一帯の地名が「猫又」となったという6ことである。

 猫又駅の至近には関西電力黒部川第2発電所(通称猫又発電所)が存在し、猫又駅からは発電所に資機材を送り込むための引込線が分岐している。発電所は線路の対岸にあるため、黒部川を渡る橋がかけられているが、この橋の内1スパンは非常に珍しい形状のトラスが用いられており、仕様決定の経緯などに興味を持つところである。

 

 猫又駅を出ると、車窓に見える風景はより険しい山のものとなってゆく。複数のトンネルを抜け、「スーパーサムイ」などと下らない事を言っている間に(ふざけていても実際本当に寒いのである)、列車は長大な鐘釣橋を渡って次の停車駅、鐘釣へ向かう。ここは有人であり、一般旅客が利用できる駅である。宇奈月からの営業キロは14.3kmの地点にあるこの駅、最大の特徴はスイッチバック運転が行われていることである。勾配区間の途中にやや強引な形で平坦部を設けて交換可能駅を設置したものの、その後のトロッコ列車の人気爆発に伴う編成長の長大化に対応するには交換設備の有効長が不足していたという。そのため、本来は衝突対策のためにある安全側線の横にホームを延伸、到着した長い列車は一旦安全側線に突っ込むように停車し、発車するときは一度後退して安全側線を離れ、そこで分岐器を本線側に転換し、最終的に目的地へ向けて発車するという、日本国内でもおそらく唯一ではないかと思われる運転形態となっている。

 その鐘釣駅に停車すると、終点まで向かわずここで下車する人も多く見られた。この周辺には「黒部万年雪」があり、展望台も設置されているほか、河原に温泉が湧いていて、野湯となっているなど見どころが多いということである。

 一通り乗り降りが終わると、やはり長大な客車13連、機関車重連のこの列車も一度後退、ポイントが転換する音が鈍く響き、続いて機関車から威勢の良い汽笛が鳴る。上り本線と下り本線を分ける欅平方の分岐を越えると、すぐに傾斜が急になった。駅構内で大きく助走を付けた列車は力強く坂を駆け上がってゆく。

 

 鐘釣の次は、関電専用駅の小屋平である。小屋平駅のすぐそばには、1936年完成、特徴的なデザインの小屋平ダムがあり、先程通った猫又駅そばの関電黒部川第2発電所に導水しているという。ここから地下の導水管を流れ下った水は、第2発電所の水車を回し、認可出力72,000kWの電力を生み出している。そして、第2発電所を出た水は、今度は出し平ダムに入り、さらに下流の新柳河原発電所や、宇奈月よりも下ったところにある音沢発電所にまで送水しているのである。一度発電に用いられた水も、下流で再び勢いをつけるため何度も発電所を通すことが可能であるというこの事実こそが、黒部峡谷の急傾斜と険しい地形を物語っていると言えるだろう。

 小屋平の前後から、次の終点欅平にかけての区間は、より険しさを増すことからトンネルも長いものばかりで、私の体からも確実に熱が奪われてゆく。このあたりはアップダウンも激しく、客車の中にいても勾配変化を強く感じた。そして、出発から1時間22分が経った15:36、ついに列車は黒部川に張り出すように築かれた欅平駅終点に到着した。列車から次々と人が降りていき、私も下車して改札を出る。外は適度な涼しさであったが、虫が多かった。折り返し列車の発車時刻は16:43なので散策等する時間も十分あったが、あえて少し休憩することにした。それもそのはず、前日のML信州号ではあまり寝られていなかったのだ。意識がしっかりしない状態で、それなりに危険もある黒部の山中でこれ以上歩くと事故の恐れもある。高額の撮影機材をすべてケースに入れたうえで体に縛り付けて盗難対策とし、駅前にあるベンチの中でも目立たないところに座り、そのまま仮眠をとった。なお、欅平では電波が通じるようだ。

 

 発車30分前ごろになって目を覚ますと、周囲の風景を撮影した。黒部川は雨の影響がまだ残っているのか濁っており良い景色とは言い難かったため、山と空をメインとする構図を狙った。撮影を終えると、売店に立ち寄って買い物をした。欅平限定品という胡麻饅頭を土産に買う。ちなみに店員さんが饅頭をひとつおまけして下さった。

 16:43発旅客列車の発車が近づいてきたので、改札に並びたいところだがここで乗車券変更をする。往路の開放客車はトンネル内で尋常ではない寒さに襲われたが、夕方になり気温が少し下がったことを考えると復路も開放客車のままでは風邪をひきかねない。よって、370円を追加して窓付きの特別客車の切符を購入した。

 ホームに入ると、客車がEDR型電機重連に引き出されてきた。私は13号車の座席が割り当てられており、この車両にはほかに妙に仲の良すぎるカップルが1組同乗した。つい10分前に乗車券変更をして割り当てられたこの特別客車であるが、形式を2000型といい、オレンジ色の車体に固定式のクロスシートを装備するものである。3人掛けクロスであるが、補助席を出して4人掛けとできる構造になっている。特別客車の乗車に必要な追加料金は先程の通り370円である。また黒鉄には転換クロスシートを装備するリラックス客車もあり、こちらは追加料金530円で乗車可能である。現在リラックス客車3100型の導入が進んでいるため、置き換えにより徐々に特別客車は廃される方向にあるという。

 

 列車は定刻通り欅平を発車、山を下りていく。今度は連続するトンネルでも大して寒くなかった。後ろでカップルにいちゃいちゃされていることを除けば、実に快適である。そう、後ろのカップルさえ除けば。この山の電源開発の仕事で汗を流す作業員の方々が見ればどう思うだろうか、この光景。

 最初の客扱い駅である鐘釣では、後ろの車両が宇奈月まで空なので移ってよい旨を駅員さんより案内された。もちろん、いい加減この雄大な山中で無粋に抱き合っているカップルとおさらばすべく、有難く14号車を独占、「俺様専用車」とさせていただいた。前述した補助席を出して4人掛け状態とすると、横になって俗に言う「C寝台」である。まだ寝不足が解消されていなかったのか、宇奈月まで雄大な山中で無粋に寝てしまった。

 

 宇奈月駅に戻ってきたのは、日も傾いた17:58であった。特にやり残した用事もないので、そのまま富山地鉄宇奈月温泉駅に移動、18:15発の電鉄富山行158普通電車に乗った。車両は元東急8590系で、富山では17480系と呼ばれているものであった。地鉄ではこれまで2ドア車が運用されていたため、4ドアである17480系は中間の2つのドアを締切りとされている。ワンマン運転を行っていたので、後部車は無人駅でドア扱いをしないため客の出入りが少ないであろうと思い、その車端部に座席をとった。

 宇奈月温泉発車直後はまだ日が出ていたが、それも電鉄黒部付近でかなり暗くなってしまった。新魚津を出ると、未乗区間に入ることになる。ここからあいの風とやま鉄道と並走し、一種競合区間のようにも思えてくるが、実際は地鉄が頻発型で駅の多い地域輸送、あいの風とやま鉄道が中長距離輸送を担当するというふうにある程度の利用客の層が分かれているという。地鉄本線は起点の電鉄富山から終点宇奈月温泉まで、全体的に本数を増やしたり優等列車を設定したりするなど、利便性を高めることで自家用車利用者の電車移転を狙うなどかなり積極的な攻勢に出ているようだ。山間部の区間でさえも乗客数が増加に転じている駅もあり、地域公共交通の維持、発展のモデル的な線区と言える。

 そんな富山地鉄本線、滑川付近でも多数の乗車があり、車内は徐々に混んできた。日は完全に落ちて暗くなったが、駅前には家が固まっているようで、明かりが多く見えた。上市駅ではスイッチバックがあり、さらに乗降客も多い。いよいよ立ち客も増えてきた158普通電車は、立山線乗換駅である寺田でさらに混んで、富山市近郊の人口の多いエリアに入った。各駅で入れ替わりはあったもの、高い乗車率を保って終点電鉄富山に定刻19:56に到着した。

 

 電鉄富山駅はJR富山駅の南東に接するように位置し、この2駅に北と東を囲まれるようにバスターミナルがあり、ターミナルの西には地鉄軌道線の線路が通っている。軌道線はJR富山駅の高架化工事進展を受けて、その直下に乗り入れる形となっていた。

 その電鉄富山駅を出て、街の夜景、軌道線電車を数枚撮影すると、駅南西すぐのところにある「ビジネスホテル立山」さんに投宿した。建物は少し古いものの、きれいに改装されて管理も行き届いており、非常によい印象であった。富山ではここに2連泊する。お値段は連泊で10,000円を少し上回る程度とややお高いが、部屋が広く、大型装備を置いてメンテナンスをするだけのスペースが確保されていたことから、不満はない。加えて、窓からは富山駅電停に出入りする軌道線を始めとして、街の夜景を眺めることができたので大当たりであった。これも一種のトレインビューであるかもしれない。

 一度宿に荷物を置くと、付近のコンビニで食事を調達して食べた。そのあと、再度撮影機材をもって駅前に向かい、暗いなかであったが路面電車を撮影していた。駅前の軌道線の踏切は、電車が近づくとなぜか「メヌエット」が流れるという特別仕様で、どういった経緯でそうなったのか非常に気になるところである。

 富山駅電停には、南富山駅前〜大学前間の系統のすべての電車が停車するようになり、利便性が高められているようである。電停自体がきれいに作られているほか、富山都心線を走るLRVのデ9000型も乗り入れてきており、近未来的な印象を受けた。

富山駅直下に新設された富山地鉄軌道線電停 (富山地方鉄道富山市内軌道線富山駅電停 2016.08.03.

 

 富山駅前での撮影を終えて宿に戻ると、夜食を食べつつ写真を整理して、学園祭の仕事をしたり動画を見たりして暇をつぶしていた。黒部で計2時間ほど寝ていたためか、少し寝るのが遅くなってしまったように思われる。こうして生活リズムというのは少しずつ壊れてゆくものらしい。

 

3日目 84

 朝8時ごろ目が覚める。洗顔等準備を終えて、富山駅前に繰り出す。朝日を浴びる軌道線電車を撮影した後、今度はいよいよ地鉄軌道線に乗車する。実は宿の朝食をつけ忘れており、朝から開いている店で食事をとらなければならない。朝から食事のできる店といえばファストフードの類がほとんどであるし、実際私が選んだのも某牛丼チェーンであった。だが、旅先で牛丼だけ食べてもつまらないということで、「路面電車で飯」なる発想に至ったのである。なお、2日目に購入したフリー乗車券は、地鉄全線利用可能なので、当然ながら軌道線でも全区間で通用する。

 まずやってきた軌道線電車は南富山駅前電停行のデ8005号車、5両が在籍するVVVFインバータ搭載車デ8000型のラストナンバーだ。ツリカケのデ7000型とは異なり平行カルダンであると書けば何やら静かそうなイメージを持たれてしまいそうだが、素子がGTOサイリスタであるため意外と賑やかな音が聞ける。私は「音鉄」と呼ばれるタイプではないので、どこの何系と似ているなどあまり詳しいことは書けないが、やはり元気な音を聞くと気分が高まるものである。こうしてみると静かな車両が一般化し始めたのは最近の事で、比較的新しい車両でもインバータのうるさい連中は多いのだと実感する。かつてはツリカケ台車から聞こえるうなりであり、少し時代が下って直巻モーターの回転音であり、20年ほど前の車両はGTOサイリスタが歌うのである。この変遷と、最近になって大きく進んだ低騒音化、一般の乗客にとってはありがたいことであるが、「音鉄」の方々はどう思っているのか、気になっているのもまた事実である。

富山駅電停に進入する南富山駅前行デ8000型デ8005号車 (富山地方鉄道富山市内軌道線富山駅電停 2016.08.04.

 

 富山駅電停を出た電車は、駅前の交差点(ここで線路が2方向に分岐する)で東側に進路をとる。地鉄本社ビルの前の交差点で右折して南に向かう。途中、登録有形文化財となっている桜橋を渡る。1935年に架橋されたもので、構造が特徴的であり同様の橋の現存例が少ないことから大変貴重なものとなっているという。

 桜橋の先、中町電停を過ぎると、西側から富山都心線の単線軌道が合流する。このあたりから先、南富山駅までは郊外と都心の中間的な風景となる。この軌道線は富山駅や都心部に直接アクセスする便利な路線であるからか、駅方面へ向かう対向列車はどれもかなり混んでいた。

 小泉町電停で下車して、10分ほど歩いたところの牛丼屋で朝食をとった。幹線道路沿いにあるものの、さほど混雑しておらず、この手の店としては少し長居できた。再度小泉町電停に戻ると、今度はデ7000型の南富山駅前行に乗り、終点まで乗りつぶす。地鉄軌道線のもっとも古い型の車両で、最近では大変貴重になったツリカケモーターを唸らせて、朝の富山市街を文字通り「爆走」していた。

 終点南富山の駅は年季の入った建物で、地鉄鉄道線である上滝線と、軌道線の線路がそれぞれ並んでホームを構えている。ここで折り返して、先程までたどってきた道を逆に戻っていき、今度は電鉄富山駅前にて下車した。

 電鉄富山から、9:35発の宇奈月温泉行123普通に乗車する。14760系の2連で、ラッシュが終わった後の下り電車だったため空いており、冷房もよく効いていた。古い車両であるためモーターがやかましいと感じる人も多いようだが、本線は比較的規格が高いため揺れは少なく快適であった。この電車で寺田に向けて郊外を抜けていき、同駅に9:52に到着した。

 寺田駅は44線で、本線から立山線が分岐し、両線とも列車交換が可能な構造となっている。木造駅舎が残るほか、駅の周囲は農地が広がっており、青々とした稲穂が夏らしさを演出していた。駅の自販機で水を買うと、保線員のおじさんの案内に従い構内踏切を渡り、立山線ホームに移った。

 ここから立山駅に向かうのだが、10分後になんと宇奈月温泉からきた特急「アルペン4号」が、駅の電鉄富山方でスイッチバックして立山線に入ってきた。何が起きているのか理解できなかったが、先程の保線のおじさんが立山行だと案内して下さったため、ようやく状況をつかむことができ乗車した。のちに調べてみたところ、この特急「アルペン」は、立山黒部アルペンルートが開通している時期に観光客向けに運転されている列車で、宇奈月温泉と立山を乗り換えなしで結んでいるとのことであった。なお、富山地鉄の特急列車は有料特急であるが、私が利用したフリー乗車券には特急料金が無料となる効果がある。車両は16010系、西武5000系の譲渡車と紹介されることも多いものである。しかし、西武は5000系廃車時に、機器や台車を後継の10000系に流用していたため、この譲渡劇はそんな甘いものではなかったようである。その場でネットを開き情報収集してみると、もと西武5000系の車体に、JR九州において廃車された485系のモーターと台車、旧営団地下鉄3000系や京急旧1000系のブレーキ装置、都営地下鉄5000系の空気圧縮機、東洋電機で新製されたパンタグラフなどを搭載したという一種の「キメラ」、存在そのものが「カオス」と言って差し支えない車両であった。個人的にはもう少し部品もまとまった車を入れても良かったと思うのではあるが、趣味者の視点で見ると大変面白く感じた。

 

 その16010系に乗車して、空席を見つけて座り、座席を倒すと、そのまま寝てしまった。途中の交換設備のある駅で分岐器を通過する際の揺れで何度か目を覚ましたような気もしたが、結局岩峅寺を出るまでの記憶がない。

 岩峅寺を出ると、山間に入ってゆく。車窓に濃い緑が映るようになり、やがて列車は急坂を登り始めた。途中は小さな駅が続き、千垣を出ると撮影地として有名な鉄骨アーチ橋で常願寺川を渡る。橋を渡った先の有峰口からはさらに急な坂となり、本宮を過ぎると再度川を渡って、10:41の定刻通り終点の立山に到着した。

 

 立山駅に着いた列車からは大勢の観光客、登山客が下車していった。その流れについて改札を出て、そこでお約束の硬券入場券を購入した。立山駅前からはケーブルカーが出ているが、ここから先はアルペンルートに入り、文字通り財布によろしくないので回れ右。11:33発の折り返しの電車までの時間をつぶすことにする。

 立山の駅前には、常願寺川の砂防工事の歴史を展示する「立山カルデラ砂防博物館」がある。この裏手には、砂防工事に使われている国土交通省管轄のトロッコがあり、それと合わせて見学することにした。見学は基本的に無料で、古くからの土砂災害の多さゆえに1926年から国の直轄で砂防工事が行われてきた歴史が伝えられている。ここの資料によれば、砂防事業そのものは1906年から富山県の管轄で始められていたという。しかし、建設された施設が土石流を受けて被災するなど、県だけでは事業規模が小さすぎて追いつかない状況になり、1926年に国に移管されてより大規模な工事を行うようになった7という。小規模な崩落が幾度となく起きているという立山カルデラには、今なお黒部ダムの貯水量とほぼ同等と言われる2m3土砂が溜まっているといい、これが一度に流出した場合、富山平野全域が平均して1m以上埋もれることになるという事である。そのため、現在も冬を除いて休みなく工事が行われている。そして、立山ではこの土砂が大規模に流れ出した場合に、ヘリなどで避難、救助を行える態勢が整えられており、この砂防博物館の屋上にも避難用のヘリポートがあるということであった。

 博物館を出る際、受付で砂防工事トロッコの話を伺い、裏手に回ってみた。するとそこには緑の小さな産業用機関車が貨車をしたがえて待機していた。

砂防博物館裏に保存される砂防トロッコの旧型機関車 (2016.08.04. 国土交通省立山砂防工事専用軌道千寿ヶ原連絡所)

 

 上の写真のものは保存車であるが、実際にこのような機関車が止まっていた。鉄道事業法、軌道法の適用外という、正真正銘の「工事用軌道」を前にして胸が熱くなる。博物館裏が車庫になっており、ダルマポイントが並ぶ様子、国内で他にほとんど例がない610mm幅の軌道、かわいらしい外見とは裏腹に豪快なエンジン音を上げる機関車など、どれをとっても新鮮であった。

 この砂防トロッコは正式名称を「国土交通省立山砂防工事専用軌道」といい、同省北陸地方整備局立山砂防事務所によって管理されている。準拠する法律が「労働安全衛生法」であるという文字通りの工事用軌道だ。そして、全体のスイッチバック数38段、最大で連続するのは18段、最大勾配83.3‰というデータが見るもの誰もを驚かせる。連続18段スイッチバックというのは世界的にも例が限られるのではないだろうかと思われる。駅に相当する施設は「連絡所」と称され、工事に携わる作業員が乗り降りするほか、使用される資機材もこの軌道で運ばれる。もちろん、日常的に一般人に開放されているものではないが、工事の見学会の抽選に参加し当選すると、現場への移動のため乗車することができるのだという。

 そんなトロッコの周辺を、帰りの電車の時間まで歩き回っていた。待機していた列車が動き出すことは無かったが、非常に貴重なものを見ることができ、立山地区の歴史を知ることができたのは非常に有意義であったと言える。

 

 帰りの立山駅11:33発の寺田行322普通電車は、往路の16010系の折り返しであった。これにて途中岩峅寺まで向かう。この車内で気付いたことだが、取り外した網棚のパイプを1本だけ残したものを上下逆向きに取り付けたものが手すりとして使用されており、なかなかのアバウトさに少しばかり笑ってしまった。この16010系、見るもの聞くものすべてが「奇想天外」「意味不明」である。これに興味を持った私は、先程の各地から部品を集めて車両をこしらえた事も含めて、この車両の各部品の詳しい出どころや、導入に当たって行われた改造など、関係資料を集めて現在研究調査を進めているところである。この翌年にもう一度北陸を訪れる機会もある事なので、記事にして「簡易線」に掲載することも考えている。

 

 帰り道は急坂を下ってゆく。途中で線路わきの背の高い草や木の枝が窓に当たるが、これも地方の電車でよく見られる光景である。常願寺川の鉄橋は徐行して通過するが、景色が良いからという理由を一般的には聞くものの、一部では老朽化が進んでいるという情報もある。いずれにせよ本線と異なり乗客数の少ない立山線は、整備が後回しにならざるを得ないのであろう。平野部では健闘するものの、山の区間では本線のそれと異なり、乗客数が極めて少ない駅や減少の激しい駅もあるようで、富山地鉄では最も厳しい状況に置かれている区間である。事実、立山線の輸送密度は富山地鉄の全路線において最も低くなっている。アルペンルートの観光が現在よりも盛んになり、パックツアーなどで立山〜富山市の移動に「のんびりローカル線の旅」などとして立山線を利用するようなものが増えてくれれば、多少は改善されると思うのだが、どうだろうか。

 山を下りると、上滝線分岐駅の岩峅寺に着く。予定では12:01到着であったが、若干遅れていた。ここで上滝線の電鉄富山行622普通電車に乗り換える。2両編成で待機していた14760系の車内に乗客はおらず、結局発車まで誰も乗ってこなかった。運転士さん、車掌さんと私だけが乗って、この旅2度目の「俺様専用車」と化した622普通電車は、12:06の定刻で出発した。黒部のときは1両のみの独占であったが、今回は編成まるごと占領してジャイアン気分である。

 途中、最初の交換駅の月岡まで乗車は無く、月岡から先も数名の乗降が続くのみで車内は非常に閑散としていた。正午過ぎの電車であるから仕方なかろう。月岡の次は難読駅の開発で、「かいほつ」と読む。沿線は農地が広がるが、水田が全農地面積の9割を占めると言われる富山のことであるから、電車の巻き上げた風で稲穂が大きく揺れていた。その次の布市、小杉あたりから住宅が目立つようになり、乗客が増え始めた。上滝線の駅は、付近に駐車場が整備されるなどして利用客が増えているところが多くあり、本線と同様に地域公共交通の維持発展の好例として見ることができるだろう。

 次の交換駅、南富山で軌道線と接続して、市街地に戻ってきたというふうに感じる。乗客も増えて立ち客が出るなどして、富山の手前、稲荷町に着いた。この時の時刻は12:37で、これをもって富山地鉄の鉄道線を完乗した。

 稲荷町駅は、地鉄本線との接続駅だ。ここで12:45発の上市行1033普通電車に乗り換えた。車両は相変わらず14760系で、威勢のいいモーター音を上げて昼下がりの富山平野を走る。今度は、寺田の2つ手前、12:54着の越中三郷駅で降りた。周囲は住宅地ばかりの駅で、特に大きな商業施設や観光地などがあるわけではない。ともなれば、お気づきの方もいるかもしれない。撮影に向かうのだ。

 

 越中三郷駅は趣のある木造駅舎が残り、折しも保線作業が行われていた。保線員のおじさん数名と会釈を交わしてから道に出ると、付近の富山県道4号線に出ると、西へ向かった。線路はこの駅の西で川を渡るため、堤防に向けて高さを稼ぐような上り坂になっている。その堤防の手前の、水田の中にある踏切の近くで狙うことにした。

 撮影地の周囲は木などがなく、日差しが直接照り付ける環境だったが、帽子をかぶり冷水を大量に持っていたこと、加えて叩くと急冷する冷却剤を持っていたことで、比較的長時間の撮影にも耐えられた。また、近くに用水路があり、かなりの水量が流れていて、水音だけでも随分と涼しく感じられるものであった。まだ青いがトンボも飛んでおり、よくある農村の夏の風景であった。

 この区間は、2030分間隔で電車が来るため、上下合わせるとかなりの本数になる。14760系が多いだろうと予想していたが、意外にももと京阪電鉄3000系の10030系や、自社発注で14760系の先輩に当たり、車齢50年を越える10020系など、多彩な系列が通っていった。編成も2連のほか、3連もあり、塗装も複数あるなど撮っていて飽きの来ないポイントだった。撮影する上での構図としては、やや引いて立山連峰を背景に写すのが定番のポイントのようだが、山の方が曇ってしまっていたため、低い位置から列車を見上げるように編成主体で撮っていた。上り勾配の途中にあるため、フル力行する電車は相当な爆音を上げており、録音にも適しているポイントであると考えられる。

電鉄富山へ向かう富山地鉄1002010025号以下3連 (富山地方鉄道本線越中荏原-越中三郷間 2016.08.04.

同じく電鉄富山行の富山地鉄1003010045号以下2連 (富山地方鉄道本線越中荏原-越中三郷間 2016.08.04.

 

 上下の列車ともに多数の収穫を得て、14:00ごろに撮影地を後にした。気温はいよいよ高くなり、駅に戻るとレールから陽炎が上がっていた。到着時から行われていた駅周辺の保線作業はまだ続いていた。夏も冬も厳しい環境の中での過酷な作業であるが、これにより安全で正確な運行が保たれているわけであり、頭が下がる思いがした。

 

 14:19に、宇奈月温泉行137普通列車が到着した。列車は相変わらずの14760系だが、クハが増結された3連であった。車内はこの時間帯としてはやや混んでおり、立席となった。

 越中三郷を出た列車は、上市でスイッチバックをしたのち、あいの風とやま鉄道線に沿って、滑川の市街地に入る。線路沿いは住宅が立ち並び、途中駅で交換する列車の乗客や、沿道をゆく車も多い。やはり富山県内最大の幹線区間である。意外だったのは、早月加積駅が分岐器の線形、信号装置含めて完全な一線スルーとなっていたこと。通過する特急は高速で分岐の直線側を抜けていくのだ。

 

 前日も利用した新魚津駅に、15:09に到着した。すでに昼も過ぎているが、再び来たのには理由がある。富山湾の新鮮な魚を扱う寿司屋があり、「富山湾鮨」が大変安く提供されているため、これを狙ってきたのだ。富山湾鮨を扱う店は県内に多数あるが、私が選んだのは駅から10分もかからない所にある「お気軽寿司 小政」さんだ。

 富山湾鮨というのは、富山湾で獲れた魚介の寿司10貫と、味噌汁が付いたセットのことで、値段は3000円台が多い。東京で食べれば1万円するようなものが、新鮮なうちに地元価格で頂けるのである。そして、私が訪ねた店は、その中でも2,700円とさらに安く、さらにぶり大根も付いてくることで人気のあるところだ。

富山湾鮨 (富山県魚津市「お気軽寿司 小政」さん 2016.08.04.)

 寿司を食べなれている方ならお分かりいただけると思うが、本来なら競り落とされて店にネタが来た直後の時間を狙った方が良い。しかし、この日は撮影等があったため15時台というなんとも微妙な時間とならざるを得なかった。お店にあったネタも昼に使いつくしてしまったものがあるらしく、10貫のうちバイ貝、白エビ、カニが2貫ずつと、ネタは7種だった。だがそれでも、水っぽい冷凍ものなどとは明らかに違う、地元ならではの新鮮さを感じられ、素人の私にも、普段東京で食べるような安物との違いは一目瞭然であった。エビの甘み、貝の歯ごたえや、口の中でとろりとするイカなどを、店主のおじさんと話しながらゆったりと味わった。おじさん曰く、「ちょっとネタが少なくて申し訳ねえが、これは築地でも食えんぞ」とのこと。味のしみたぶり大根とあら汁も美味しかった。

 

 16:20に寿司屋を出た。駅に戻り、16:49発の電鉄富山行148普通列車を待った。あいの風とやま鉄道で戻る方が速いのだが、地鉄フリー乗車券があるためこれをとことん使い倒して元を取ることにした。信号が変わり、黒部方面から到着したのは、先程も撮影したもと京阪3000系の10030系だった。乗ってみると、車内はワンマン設備が取り付けられているほかは京阪時代と大した変化はなく、かつて関西に住んでいたことがあり、幾度となく3000系を利用した経験のある私としては大変懐かしいものであった。赤い座席モケットも京阪時代そのままのようだ。

 夕方の富山に、古いもと京阪車のモーターが響く。やはり富山駅に近づくにつれて乗客が増えていった。日が傾き、車内に西日が差し込んでオレンジに輝き始めると、17:46に電鉄富山駅に到着した。

 

 電鉄富山駅を出ると、やはり駅前で軌道線を撮影した。今度は最新型T100型なども来た。

富山駅電停を出る環状線T100T102号車 (2016.08.04. 富山地方鉄道富山市内軌道線富山駅電停)

 

 ツリカケモーターのやかましいデ7000型などと違い、新型のLRVは静かに電停に出入りしていた。今後はT100型によってデ7000型は置き換えられるとのことで、富山市内の軌道線は大きく変化しようとしている。過去に廃止された都心環状線が復活し、接続するバス路線も整備され、電停の改良や富山ライトレールとの乗り入れ準備も進められるなど、地鉄軌道線のLRT化が順調に進んでいるように思われた。まだまだ自家用車への依存度は高い街だが、公共交通の利便性を向上させようとする富山市や富山地鉄の姿勢には非常に好感が持てる。

 

 富山駅電停から、まず大学前行のデ8000型デ8004号車に乗る。このデ8000型、前日からデザインに既視感を覚えていたのだが、ここで気付く。都電8500型によく似ているのだ。登場時期も近いから無理もなかろう。この都電の兄弟分のデ8004号で、18:00を過ぎた夕方の富山市中心部を南へ向かって走り抜けていく。車内は富山駅を出た時点から非常に混雑しており、軌道線が市内の重要な移動手段として受け入れられていることが伺える。

 県庁前で乗り降りが多数あり、電車は丸の内電停から西へ進路を変えた。富山県道44号線の併用軌道を進んで行き、安野屋電停を出ると、富山大橋で神通川を渡る。この橋は2012年に供用を開始した、道路片側2車線ずつと軌道線の複線、さらに広い歩道も確保されるなど非常に容量の大きい橋だ。しかし、それ以前は1936年から使われていた非常に古い橋がかけられていた。旧橋時代は道路片側1車線ずつ、軌道は単線で、容量の少なさから渋滞が慢性化していたほか、耐荷重の関係上、旧型のデ7000型などと比較して大型の超低床路面電車が渡れないなど、道路交通と軌道線の双方にとってネックになっていたという。そのため、5年の工事を経て倍の容量を持った今の橋が建設されている。橋の設備を見ていると、まだまだ真新しさを感じる。

 終点の大学前電停に着くと、混んでいた電車から乗客が降りていき、車内には私だけが残った。運転士さんに乗り潰しをしている旨を伝え、フリー乗車券を見せて、折り返し南富山駅前行となった電車内でゆったりとくつろいでいた。今度は非常に空いており、そのままもと来た道を戻って丸の内電停に着いた。

 丸の内電停から、デ9000型デ9001号車による都心線に乗り換えた。この区間は一度廃止されたものの、2009年に再敷設されたという経緯がある。単線の片方向運転だが、利用者は多いらしく私が乗った電車も混雑していた。富山城下を抜け、企業や商業施設が集まるエリアをスムーズに抜けていく。そして10分足らずで、富山駅〜南富山駅前間の線路に合流した。19:00ごろ富山駅前に戻ってきて、これにて富山地鉄軌道線も完乗となり、鉄道線と合わせて100H以上にも及ぶ富山地方鉄道を全線乗りつぶしたことになった。

 

 富山駅に戻ってくると、次は地下道で線路の下をくぐり、駅の北側に出た。駅北から出ている富山市のもう一つの軌道線(とはいっても鉄道事業法準拠の区間が多いが…。)、富山ライトレールに乗車するためである。富山ライトレールは、2006年にJR富山港線の移管を受けて、第三セクター方式で運行されている路線だ。もとが普通鉄道だったため、富山駅北に乗り入れる区間1.1Hが併用軌道に切り替えられて軌道法準拠となったほかは、鉄道事業法による区間が多くを占めている。富山港線と呼ばれたころは、昼間は1時間間隔での気動車運転となるなど、都市部であるにもかかわらず非常に利便性の低い区間であった8。しかし、いったん地元自治体や企業が出資する形の第三セクター企業としてローカルサービスを重視する方針に転換、超低床車を導入して、毎時4本程度にまで増発したところ、日に4000人以上が利用するようになり、当初の想定を上回る成績を上げるようになった91世帯あたり自動車保有数が国内でも特に多い富山県でのこの成功例は、今後の交通政策を考えるうえでも非常に意味のあるデータとなるだろう。一方で、JR時代に長く続いていた「テコ入れ(収支改善)はしないが、廃止(完全なコストカット)する訳でもない」という「消極的維持」が、企業にとっては止まらない出血であり、利用者にとっては利便性低下という迷惑であるということも理解される。そんなことを考え、どんな路線に生まれ変わったのか期待して、電停に向かった。

 

 と、そこには軌道緑化がなされ、きれいに整備された電停が、駅から出て来たお勤め帰りの人々を待っていた。屋根からミストが噴射されており、夏の夕方にはとてもありがたいものだったが、撮影機材にとってはあまりよろしい環境ではなく、それゆえこの電停では写真を撮れなかった。

 19:10に、岩瀬浜からの電車が到着。TLR0600型と呼ばれる超低床タイプの車両で、富山地鉄デ9000型とほとんど同型の車両である。デ9000型が2009年の登場なので、2006年の富山ライトレール開業と同時に登場したこのTLR0600型は兄貴分にあたるわけなのだが、デ9000型がTLR0600型と共通仕様となった理由は、富山駅高架化後に、ライトレールと地鉄軌道線が直通運転を行う計画があるからである。富山市と周辺の軌道線はさらに規模を拡大していくことが検討されている10のである。なお、デ9000型が白、銀、黒と無彩色の車体色を使っているのに対し、TLR0600型は全7編成それぞれが虹にちなんだ配色となっている。私がこのとき乗車したTLR0603編成は黄色であった。

 

 19:15の定刻で富山駅北を出た。車内は大入り満員で、帰宅ラッシュ真っ盛りという感じであった。すっかり日も落ちた富山の街を走っていく。最初の交差点を曲がって、インテック本社前を過ぎ、交換設備のある奥田中学校前から鉄道線に入る。ここまでの併用軌道区間も非常にスムーズに抜けていた。各駅で少しずつ人が降りていくが、依然として高い混雑率のまま、下奥井、粟島、越中中島とすぎてゆく。車窓は住宅地が続いている。3つ目の交換駅である城川原には、富山ライトレールの本社と車庫がある。このあたりからようやく混雑率が下がってきたなと感じた。

 途中で運河を渡って、その次は蓮町。この駅からはフィーダーバスが出ている。4つ目の交換駅、大広田を過ぎると、後は棒線区間となって終点岩瀬浜に着く。岩瀬浜もバスと接続するようになっている。バス乗り場とライトレールのホームは段差無しで隣に並んでおり、多くの乗客がバスに乗り換えていった。なお、私はこれで富山ライトレール完乗ということになった。

 

 富山ライトレールと地鉄軌道線を乗りつぶして感じたことであるが、先進的な取り組みをしていることがよく分かり、これについては大きく評価するところではあるが、さらなる改善点も見られるのではないかと思う。

 当然、富山市が、お情け程度の数の超低床車を入れただけで「これが我が街のLRTです」などと言っているような「なんちゃってLRT」と訳が違うのは事実である。老朽化の著しいデ7000型の取り替えとT100型の増備は自治体も支援して行っており、継続的に改善しようという考えが読み取れる。電停の整備も進んでいるし、路線バスとの連携を行い、富山ライトレールと地鉄の直通計画を進行させるなど、「総合的な利便性を高める」ということ、「公共交通を主軸とした街づくりを進める」ということが行われているのが実感でき、恐らく国内で最も進んだ考え方をしているのではないだろうかと思われる。

 しかしながら、夕方の軌道線も、ライトレールも、非常に混雑している列車が多くあった。利便性の向上で、自家用車利用者が転入してくるなどして、乗客が増えていることもあるだろう。だが、それを受け入れていくだけの「輸送力」が足りているのかといえば、もう少し余裕が必要なのではないかと思われる。

 現在、富山市で運転される路面電車車両のなかで最大のものはデ9000型とTLR0600型で、全長18mの車両である。これだけ見ると一般の鉄道線車両1両分に相当するから、「大きい」という印象を抱かれる方も多いだろう。しかし、定員は80人、高々13m級のデ7000型(定員90人)よりも少ないのである。これは、超低床車の構造に起因する現象ではないかと筆者は推測している。床の低さゆえ、車内に大きく張り出した台車部をカバーするように、超低床車ではクロスシートが設けられるのが一般的で、ロングシートで床の広い従来型電車よりも定員が少なくなってしまうということである。また、揺れ動くことで、そこに立つと危険を伴う連接部は定員計算にカウントされない。そういったことから、「超低床車=輸送力面で不利がある」という図式が成立するのだ。そして、これは富山に限ったことではなく、例えば愛媛の伊予鉄道が導入した超低床車は、別な要因もいくつかあるものの、「定員47人」などと極端に少ない例もあるのが現実である。

 この状況を打開するには、路面電車を大型長編成化することを避けられない。しかしながら、ここで一つ問題がある。路面電車、すなわち軌道線を管理する法律「軌道法」に付帯する「軌道運転規則」では、路面電車の全長が30m以内になるよう制限が加えられている1130mをオーバーする長さである広島電鉄5000型が、導入に当たって特認を受けた話なども知られている。なお、この広電の大型路面電車で、ようやく定員は150人程度となって通勤電車1両分に相当する値となる。

 この規則による30m制限は、戦前に定められた条文の中にあり、人口も少なく都市への集中ということもさほどなかった時代の遺物である。したがって、路面電車が現代の都市の交通網の基幹として機能するには、この規定はいささか邪魔な存在なのである。大型路面電車を導入できなければ、バスとの違いを明確にすることも難しくなる。「どうせ同程度の輸送力なら、バスで何が問題なの?」と言われてしまえば路面電車の新規導入を検討する向きにとっても強い逆風となる。「このバス路線は輸送力が限界に達しているから、2倍、3倍の定員を持った路面電車で置き換えて、強化しましょう」という理屈が通じなくなってしまい、路面電車を新規に敷設することが支持されにくくなりかねない。一方で、このように異常に厳しい制約のないヨーロッパでは、最大で50mクラスにもなるような巨大な路面電車が街を走り回っている。今後の各地の交通事情の改善、街づくりへの貢献のためにも、軌道法は時代に即した内容に改正されるべきである。これがなされなければ、せっかくの富山市の取り組みの効果も限定的なものとなってしまうだろう。以降、軌道法の各条文について活発な議論がなされることを期待したい。

 

 ここまで富山市を評価しつつも軌道法をさんざんこき下ろしてしまったが、そろそろ折り返しの時間である。私は富山市内で使えるICカードを所持していないため、現金で運賃を支払うことになる。しかし手持ちの小銭が足りなかったので、車内の両替機で千円札を両替する。ここで何気なく千円札を突っ込んだところ、出て来た小銭に違和感を覚えた。500円玉のような何か、だが「0」のところに透かしが無く、横にギザギザがない。一瞬ニセモノを疑ったが、調べてみると旧500円玉であった。なんでも旧500円玉は、韓国の500ウォン硬貨(≒50円)とよく似ており、500ウォン硬貨を旧500円玉と自販機に認識させて多額の釣銭を盗み出すという事件が多発した結果、2000年に今の500円玉に切り替えられたのだという。とはいえ珍しいものを手に入れて気分が良かったので、自宅に持ち帰って今も保管している。

 帰りの電車は上りのため、ある程度混雑は穏やかであった。とはいえ、急な買い物に行くのか、地元のお母さん方が多く乗っていた印象である。他にも、「富山駅で何食べるか?」などと話していた家族連れもいるなど、富山ライトレールが日常の用に活発に使われていることが伺えた。先程と同じように、各駅に静かに止まって、静かに発車していく。途中気付いたのは、単線のこの路線、交換設備のないいわゆる「棒線駅」でも、車両のドア位置の関係上、必ず左側の扉が開くように、上りホームと下りホームが分けられていたことだ。よく考えてみると、複線区間でも路面電車は島式12線配置の電停というものをほとんど見ない。運賃支払いを確実にしてもらう関係上当然と言えば当然だが、起終点以外では必ず左側で客扱いをしている。奥田中学校前まで戻ってきて、併用軌道に入る。インテック本社前から乗車があり、少々混雑して20:10に富山駅北電停に到着した。下車した乗客の多くは富山駅構内へと向かって行った。

 

 路面電車の今後の方向性や、成功例と問題点など、様々な知識を得るに至った富山市内の軌道線完乗を終えて、地下道を抜けて富山駅の南側に出てきた。すでに20:00を過ぎ、空腹感を覚えたため、駅下の商業施設に入ってみた。いくつか店を見つけたが、ここで選んだのはラーメンの「西町 大喜」さんだ。富山ブラックの元祖であるお店である。戦災被害の大きかった富山で、戦後復興事業で働く人のために味の濃いラーメンを提供したのが「大喜」さんなのだが、このお店が2000年ごろに閉店を決めた際、とある企業が屋号を買い取り昔からの味付けのままでブラックラーメンを提供しているのである。昔は、「飯持ち込み可」とのことで、あくまでラーメンはおかずであったのだという。この店では100円で注文制となっているが、元祖ということもあり相当濃いものが来るであろうと予想して、予め頼んでおく。すぐに来た白飯は大きな茶碗に山盛り入っていた。

 数分後、きたのは真っ黒な汁のラーメン。食べてみるとやはり塩が多い。が、一日動き回って汗をかいた後ではやはりうまいのである。工事現場で働く人が好んだ味というのも非常によくわかる。黒部で食べたときは気付かなかったが、メンマがとくに辛く味付けしてあるようだ。麺を食べ、汁を口に含んで飯をかき込むという食べ方が非常に合っているような気がした。

 食べ終えて店を出ると、また懲りずに軌道線を撮影。当の昔日は落ちて暗いが、駅前の明かりを使って夜景として路面電車を写すのもまた良いものであった。翌日には富山を出なければならないから、少しでも多く様々な写真を撮影しておこうと考えて撮った。

 宿に戻ると、深夜まで夜食をつまみながら写真を整理したり、学祭に向けた作業をしたり、あるいはTwitterのタイムラインを追いかけていたりと、不健康夜更かし大学生の極みのようなことをしていたが、3:00ごろに寝てしまった。

 

4日目 85

 朝6:00前に目が覚める。荷物をまとめて顔を洗い歯を磨くなどし、7:00前に宿をチェックアウトして富山駅に向かった。7:03発の高岡行522M普通電車に乗り、終点高岡に向かう。もと特急街道ということもあり、快調に521系が飛ばしてゆく。速度計は110H/h程度を指し、駅間も長いので高速で走る。高岡までの18.8Hを19分で走り、各駅停車としてはトップレベルのスピードである。

 

 7:22に高岡に着くと、駅前から出ている軌道線「万葉線」に乗りに行く。この路線も、富山ライトレールと同様の第三セクター方式で経営されている路線で、もとは富山市まで繋がる富山地鉄の路線であった。それが、富山新港建設によって路線が分断されると、高岡側を加越能鉄道に譲渡され、20024月まで同社の路線であった。しかし、富山市への直通運転ができなくなったことから利便性が低下、自家用車への転出を招く事態となり、1970年代から経営状態は悪化していた。2001年についに廃止の意向が表明されたが、これに対して自治体を中心に路線存続を求める運動が展開された結果、第三セクター移管によって路線は残されることになったというものだ。移管後は、新型車両の投入、増発、駅設備の改良などによって乗客数が持ち直している。移管直前に100万人を割っていた年間輸送人数は、今は120万人を越えるところまで回復している12という。積極的な利便性、サービス向上が効果を現してきているものと考えられる。

 

 この複雑な歴史を持つ路線は、高岡駅の直下から出ている。以前は駅前広場に始発の電停があったが、駅改良に合わせて直下への乗り入れが実現したのだという。その高岡駅構内のコンビニで食事を買い、始発の高岡駅電停に行ってみた。コインロッカーに荷物を放り込むと、ちょうど電車が到着した。旧型のデ7070型デ7073号だ。富山地鉄のデ7000型と外観、システムが非常によく似ている電車である。また、このデ7073号車は正面にネコ、側面に十二支の動物が描かれた特別塗装車で、「アニマル電車」という正式名があるものの、正面のネコが印象的であるためか、地元ではもっぱら「ネコ電車」と言われているという。

 

 7:45に高岡駅を出る。まだ新しい高岡駅電停に、威勢のよいモーターの唸りが響き、やがて高岡のメインストリートに繰り出した。下り電車(事実上。書類上の起点は六渡寺駅であるから、本当は上り電車。)だが、立ち客が出ている。私もコンビニ弁当を抱えて、整理券を握って立っていた。途中気付いたことであるが、この路線は意外にも単線であり、途中で交換が何度も行われていた。

 車庫と万葉線本社のある米島口電停から、ところどころ専用軌道も目立つようになり、次の能町口電停との間でJR氷見線の上を跨ぐ。この後も専用軌道が多い区間を走って、六渡寺駅に着く。ここまでが軌道線である「高岡軌道線」、ここから先は鉄道線である「新湊港線」となるが、運行実態としては中間駅に過ぎず、直通運転が行われている。線路にATS地上子が置かれ、信号が軌道信号から一般の鉄道信号機に変わる程度でしか違いを感じない。スピードが上がるわけでもなく、電車はゆったりと「軌道」然とした走りを続けている。このあたりになると車内の人も減ってきて、着席してゆったりとくつろぐことができた。六渡寺の次、庄川口の前で庄川を渡る。並行する道路橋のトラスが美しい。その後も運河を渡るなど、海が近いことを感じる。そして、8:34に、終点越ノ潟に到着した。約50分と、軌道線(+α)の旅としては非常に長い部類に入る。

 

 越ノ潟は、11線の小さな駅だ。トタンの上屋があるだけの無人駅で、高岡駅からの運賃350円を車内で支払って降りる。目の前にはかつて路線を分断した富山新港があり、県営の渡し船が出ている。駅の北には、富山新港を越える巨大な道路橋がかかっている。聞く話によれば、エレベーターで橋の上に上がって、徒歩で渡ることもできるようだ。もっとも私は小心者であり、高い所は得意ではないので、あまりそういった高所を歩くことは考えたくもないのだが…。

 到着した電車は8:37に折り返して発車していった。次の電車まで15分あるので、ここで朝食とした。海風を浴びて食べれば、ただのコンビニ弁当もなかなかうまいものである。

 

 目の前の富山港には大型コンテナ船も接岸しているなど、重要港として機能している様子がうかがえる。タグボートも右へ行ったり左へ行ったりと忙しそうだ。渡し船も頻繁に動いているようである。普段あまり海を見ることは無いのだが、久々にこのように眺めてみると癒されるものである。時々潮風に乗って汽笛が聞こえてくるのも、実に気分の良いものだ。

 

 10分ほどして、今度は超低床の新型車がやってきた。5人ほどが下車して、入れ替わりに乗車する。MLRV1000型と呼ばれる赤い車体の超低床車で、富山ライトレールTLR0600型などと仕様がよく似ている。なお、車内のつり手がJR東日本でよく見られるタイプの三角形のものであったため、旅行気分から少し現実に引き戻されてしまった。旅先で、ふだんの日常で見かける物を見てしまい、「非日常」の気分が失われてしまうこの現象、知り合いに聞いてみると同じ経験のある人は多いらしく、こうなれば何か名前を付けたいものである。

万葉線MLRV1000型電車 (万葉線越ノ潟駅 2016.08.05.

 

 8:52の発車時刻まで待っていたが、私以外に乗ってくる人はいなかった。この旅3度目の実に平和な「俺様専用車」の車内でゆったりと寝る。時々分岐器の揺れで目を覚ますと、Twitterで旅行実況をするなどしていた。いくつか駅を過ぎるうちに少しずつ人が乗ってきて、軌道線に入るあたりで立ち客が出始めた。横を走る車と抜いたり抜かれたりしつつ、朝というか昼というか、区別のつけにくい時間帯の高岡を走ってゆく。静かな新型車で路面を走っていくのは、まるでスケートリンクで滑っているかのような感覚だ。加減速もスムーズで、ほとんど揺れない。途中で地元のお年寄りに席を譲ったが、立っていても非常に乗り心地が良かった。そうして、9:39に高岡駅前に戻ってきた。

 

 高岡駅で青春18きっぷに入鋏を受けて、今度は城端線に乗りに行く。10:10発の335Dに乗車する。キハ40系列3連で組成されていた。高岡を起点とする城端線、氷見線はローカル線としては成績の良い路線であり、乗客も比較的多いことから、長い編成の気動車が運転されている。

 私が乗った列車は、乗車してから比較的すぐに発車して、南へ進路をとった。車体の重いキハ40系列のため、エンジン換装を受けてはいるものの、加速が鈍い。エンジンは激しく音を立てるが、思うようにスピードが上がらないようであった。1.8Hの平坦区間に3分をかけて、新高岡に到着。ここで新幹線からの乗換客を受けて、混雑が激しくなった。終点からバスに乗り換えて白川郷に向かうと思しき外国人客も多い。ジャパニーズ・キドウシャがよほど珍しいのか、車内の写真を撮って回る人、荷物が大きすぎて網棚に入りきらず、しまいには背が高すぎて網棚に頭をぶつけてしまう外国人のおじさんなど、一気ににぎやかになった。

 列車は冷房がなかなか効かず、どうも不調のようだ。乗客は誰からともなく窓を開け始め、車内は昭和の非冷房車のようになった。日本の暑さにあまりなれていないであろう外国人旅行者たちも、窓から吹き込む風を浴びて涼んでいた。途中、砺波で9334D高岡行と交換。車窓は田園地帯が続いている。気温としては30度にもなるが、窓からの風は強く、体感温度としてはさほど暑くない。途中現れる駅は、味のある古い駅舎が残るところも多いようだ。

 終点、城端には10:59の到着。ここで、駅舎側の線路に入った。本当はゆっくりとしていきたかったのだが、行程の都合上今回はとんぼ返りである。駅舎と反対側のホームに止まっていた11:01発高岡行336D普通に乗って、2分で城端を後にした。やはり途中、砺波で城端行9337Dと交換。どの列車も混雑しているようであった。そして、日が高く上がってきた11:49に高岡に戻ってきた。

 

 高岡からは、あいの風とやま鉄道線に乗り換えて、石川方面へ抜ける。同線の切符と、昼食にするつもりで「ますのすし小箱(850円)」を買って再入場し、12:00発金沢行430M普通電車、521系の2連に乗り込む。地元客や観光客などで、昼間の列車であるにもかかわらず激しい混雑を起こしていた。おそらく2連では輸送力が足りていないものと思われる。特に混雑する時期には増結が求められる列車だろう。私は1両目のトイレわきに押し込められるようにして立っていた。発車すると、しばらく高岡の市街地を抜けていく。街を出ると、田園地帯の中を走るが、少しばかり山というか、丘陵地も見えるようになる。ただ線形は悪くないので、110H/h程度で快走していく。途中で車掌さんが車内を巡回していたが、検札は無かった。富山〜金沢間など、青春18きっぷ期間は運賃をごまかす輩もいそうだが、あえて調べるほどでもないのだろうか。

 富山・石川県境を越える石動〜倶利伽羅間は山の中を走る。このあたり一帯で有名なのは「倶利伽羅峠の戦い」である。付近の道の駅には牛の像が置かれているところがあるが、これはこの戦いにおいて、源氏の軍勢が牛の角に松明をくくりつけて、平家の軍に突入させて大混乱を起こさせて破ったということにちなむ。しかし、調べてみるとこの戦術が本当に用いられたのかは疑問の余地が大きいようである。なお、この区間では入口が撮影地として有名な「倶利伽羅トンネル」もあり、過去に訪れたことがある。倶利伽羅から先は、IRいしかわ鉄道の区間となる。

 

 12:26、津幡駅に到着。ここからJR七尾線に乗り換えるため、切符を青春18きっぷに切り替える。日が高く上がって非常に暑いが、この間、高岡駅で乗り換える際に購入した「ますのすし小箱」を頂く。味は非常にさっぱりとしたもので、夏の炎天下で食べてもしつこさを感じるようなものではない。量もちょうどよい。

 12:42に、金沢方面からやかましいモーターの音が聞こえ、赤一色の4133連が到着した。七尾線、七尾行845M普通電車である。半自動ドアを手で開けて乗る。車内は昼過ぎにしては非常に混雑しており、立ち客があふれていた。客層としては買い物帰りの地元のおばさんや、学生が多い感じであった。

 12:43に津幡を発車、すぐに車内の電気が消える。交流のIR線から、七尾線の直流区間に入ったのである。七尾線は特急直通に際して電化されているが、宝達駅付近で天井川の下をくぐるトンネルがあり、交流電化に必要な絶縁距離を確保できないとされたことから、直流とされている。当然境界にはデッドセクションが設けられているため、古い交直流車では通過時に非常灯以外の電気が消える。車外では前照灯の片方も消灯することが特筆される。

 直流区間に入った413系は中津幡、本津幡あたりまではゆったり走るが、そこから駅間が長くなるため本格的に飛ばすようになる。先頭車に乗っていたため、運転室をのぞき込んでみると、速度計は100H/h近くを示していた。七尾線は特急直通を行うに当たり高速化され、最高速度100km/hまで出すことができるようになっている。各通過交換駅は一線スルーとなっているが、見ていると普通電車は特急との交換、通過待ちが無い限り原則左側通行のようだ。一線スルーのあまり知られていない難点として、普通列車の発車番線が一定しないということが挙げられるが、優等列車が絡まない列車交換においては左側通行とすることで極力混乱を起こさぬように考えられているものと思われる。

 途中、一部特急が停車する宇野気や羽咋などは比較的まとまった街があるが、能登半島の付け根から先に向かうにつれて家がまばらになり、乗客が少なくなるようである。そのため徐々に空いてきて、羽咋の2つ先、金丸で座ることができた。座った後は、七尾まで一眠りした。

 

 13:53到着の終点七尾は、先程までの閑散とした風景とは異なる能登半島の拠点と言った感じの街で、予想よりも大きい印象を受けた。電車に残っていた乗客が一斉に降りて改札口に向かっていった。私は、ここで一部の乗客の流れに乗って、のと鉄道の列車に乗り換えた。JRの普通列車は七尾までの運転で、ひとつ先の和倉温泉までは特急電車のみ直通、七尾から先の普通列車はのと鉄道により穴水まで運転される。

 乗り換えた先の列車は、14:08発、のと鉄道線穴水行137D普通だ。車両はNT200型といい、最近の気動車全国シェア8割を占める新潟トランシスのNDCシリーズ第3世代に当たる。ドア位置が左右で統一されていたため、半室運転台の横が非常に広くとられており、乗り降りの邪魔にはならないであろうと判断し、ここに立っていることにした。発車後は、先頭かぶりつきが楽しめるわけである。なお編成は1両となっていた。

 七尾の次の駅は和倉温泉。私は駅前から温泉街が広がっているのかと勝手に思い込んでいたのであるが、意外にも草原の中を走る線路の途中に突然、ぽつんと現れた小さな駅であった。一足先に到着した特急「サンダーバード」15号が停車していたが、JR西日本の最速特急の終着駅であり、有名な温泉地の最寄りにしては小さすぎるような気もした。留置線もないため、特急車は到着後いったん七尾駅に引き上げるようにダイヤが組まれているようだ。

 和倉温泉を過ぎると、車窓はよりのどかになっていく。偶然ある雑誌の取材をしていた記者と乗り合わせており、その記者数名に混じって風景を撮影するなどしていた。余談ではあるが、私がTRCとは別に所属する駒場祭委員会の同期が、全く同じ日にこの能登半島を旅行していたということが後日判明して驚いたものであった。

 能登半島の先へ向けて走っていくにつれて、線路のアップダウンが激しくなる。この辺りは丘陵地が続いているようである。平坦になったところに集落があり、そこに駅が置かれているという印象で、どの駅も地元の人が協力しているのか、整備はきちんと行き届いている感じである。途中能登鹿島ではNT200型・NT3003連の七尾行との列車交換があり、うち先頭がNT200型アニメラッピング車、後2両が観光用NT300型「のと里山里海号」となっていた。

のと鉄道NT200型ラッピング車、NT300型「のと里山里海号」3連の七尾行 (のと鉄道七尾線能登鹿島駅 2016.08.05.)

 

 終点の穴水には14:49の到着である。駅前はまとまった街があるが、駅の中は閑散としていた。駅舎は比較的大きく中に観光案内所などが入っている。ここで、「奥能登観光記念入場券」を4枚購入する。1枚ずつ違う地元の風景写真が入ったD型硬券である。これを買ってから、駅舎外に出て休憩とした。暑いが、風があり気分は良かった。

 穴水から先は、能登半島の先に向かう輪島まで、蛸島までの2つの廃線がある。のと鉄道が運営していた路線であったが、それぞれ2001年、2005年に廃止されている。特に蛸島へ向かう能登線は60kmを越える路線長があったが、これらが廃止されたことでのと鉄道の路線はわずか30km程度を残すのみとなっている。能登線の方は地元の過疎化という問題があったためある程度やむを得ない面はある(それでも地元への影響は無視できない。廃止後は朝のバスが大混雑を起こしているなどの指摘もある。) と思われるが、輪島への区間は、他にも事情があるようだ。もとが簡易線規格であったため、スピードアップができず時間がかかり、当時能登有料道路と呼ばれた自動車専用道を経由する金沢〜輪島間高速バスとの競合に対応しきれなかったということもあると考えられる。

 ここで見えてくるのは、極端な道路偏重行政の問題である。全国で道路が建設されたり改良されたりしているが、それに対して在来線鉄道への国や自治体の支援が一般的に少なすぎるのである。災害運休しているJR北海道の某線の問題のように、「残しておいてほしいけれど、金を出すなど支援の予定はない」といったことを平然と言い出す自治体もあるほどである。自治体の財政状況もとうぜんあるのだろうけれど、それを差し引いたとしても、JRの都合は一切考慮に入れず「タダ残してくれて当たり前、それができないのは鉄道会社の努力不足」というのは身勝手な話であり、鉄道交通を馬鹿にしていると断言できよう。

 さらに言えば、このことは能登や北海道に限った話ではない。軌道線に力を入れる富山市や、JRと共同での高速化事業に取り組む山陰2県、奈良線や山陰線の改良を行っている京都府など、比較的先進的と言えるところもあるが、全体を平均して述べると、やはり鉄道交通への支援は少ない。ヨーロッパ諸国などみていると、鉄道関連の国家予算が道路予算を上回る国(オーストリアなど)すら見られるが、もう少し見習うべきではなかろうか。民間任せにしすぎることなく、国や自治体も適切に金を出し使いやすい鉄道を維持する義務があるのではないかと私は考える。少なくとも、投資はしないがリターンとしての鉄道の存続安定を要求するという異常かつ鉄道に対して無理解極まりない姿勢をとる自治体が無いような社会でありたい。

 

 相も変わらず不毛な政治批判をしているうちに、折り返し七尾行140D普通列車の発車時刻となる。車番を確認していなかったので、増結なのか別編成なのか不明であるが、今度は2連となり乗客も少し増えていた。15:12に穴水を出ると、能登半島を南下していく。往路よりも日が傾いて来ているため、山間部では木々の影が長くなり、印象的な光景となる。海の青さも増してきたように感じられた。帰り道の途中と思われる観光客が多く、若干の立ち客が出ていた。外の風景に向けてカメラを構える人も多く見られた。途中駅で少しずつ人が増えていき、15:45着の和倉温泉では20名ほどが乗車した。かなりの混雑率となったところで、15:51に七尾に戻ってきた。ただ、観光客は多かったものの、地元の利用客とみられる人がさほど乗ってこなかったのが不安なところである。

 

 七尾で切符を切り替えると、JR415800番台に乗る。16:00発の金沢行856M普通電車だ。のと鉄道から乗り換える人も多いが、編成が1両長いためキャパシティに余裕があり、混雑率はさほど高くない。より日が傾いてきて、車内に西日が差し始めて暑かった。古い車両なためか冷房はあまり効いていない感じであった。このような蒸し風呂状態の車内では、駅で購入した水の冷たさがありがたい。他にも窓を開けて、風を入れるだけでも随分と違う。

 七尾を定時で出て、そのまま金沢へ向かいたいところであるが、ここで急遽予定変更が入る。七尾駅で引上線に赤い車両がいたことを思い出したのである。2連の、赤い気動車である。時刻表を開いてみて、納得した。金沢行8014D観光特急「花嫁のれん」の運転日であった。そこで、撮影に向く開けた場所のある、金丸駅で下車した。

 駅前はごく普通の田舎の集落である。住宅と数件の商店があり、比較的人通りは多かった。駅前を抜けて、七尾方に歩いて行く。水田の中に抜けたところで、踏切を渡ってインカーブから狙える場所に構えた。

 今回のネタであるこの列車、2015年の北陸新幹線開業によって北陸を訪れる観光客が増加することを見込んで、余剰となっていたキハ482連を大改装して登場したものである。車内は和風でまとめられているが、金箔も使用されるなど「豪華」なイメージを目指したようである。観光列車らしく、乗客に対し軽食やお酒の提供、物販や各種イベントなどのサービスが行われている。運転本数は金沢〜和倉温泉間を1日2往復するのがスタンダードとなっており、臨時列車であるため閑散期の平日などはお休みとなるので注意が必要である。

キハ482連観光特急「花嫁のれん」 (JR西日本七尾線金丸-能登部間 2016.08.05.

 

 16:36に七尾を出て、金沢に向かう途中を撮影する。17:00前ごろに、良い順光の中で通過していった。一方で、反対方向の普通電車も狙ったが、これは激しい逆光の為黒くつぶれてしまい、満足できる写真としての体をなしていなかったのが悔やまれる。もう1本撮っても良かったが、現地は日差しを遮るものが無く暑かったため断念した。

 

 金丸駅に戻り、17:07発の金沢行858M普通電車に乗る。先程と同じ415800番台である。この車両は、七尾線の電化に合わせて113系から改造されたというものなのだが、調べてみると非常に面白い。681系投入により、北陸特急で余剰となった485系の交流機器を下ろして183系とし、その交流機器を113系に搭載して415系とするなどということが行われ、415系に至ってはパンタグラフ周りの低屋根化も行われているという凝りようである。そして、人はこのような正直面倒な改造を見てこう思うのである。「いっそ新車を作ってしまえ」と。事実、この交直流化については多額の費用がかかり、改造当時で既に30年物となっていた種車の経年を考えると最初から新車を作った方が良かったとの指摘も多い。サービス面でも陳腐化が進んでいるように感じられる。521系など新型車による置き換えもそう遠くない時期に行われるのではないかと予想できる。

 車内に強烈な西日が差し込む。冷房が回っているが、あまり涼しくならない。金沢に近づくにつれて乗客は増え、立ち客も出始める。17:28発の宝達で例の天井川の下をくぐったあたりから、カーテンを閉めて帽子を目深にかぶり、しばらく寝ることにした。ほんの10分ほどで起きるつもりであったが、案外長く寝てしまい、起きた時には津幡であった。交流区間に入り、その後の18:10に終点金沢に到着した。到着時にはドア付近を中心に混雑率が上がっていた。

 

 金沢駅は、新幹線の終点でもある北陸最大の駅であるが、在来線改札は昔ながらの有人となっている。今後、ICOCAのエリア拡大などにより変化する可能性は十分あるものの、初めて訪れる人にとっては意外に思われるらしい。駅を出て、東口近くの東横インにチェックインする。今回は1泊であるが、当然ながら5,000円強のお値段となる。

 TRCでは旅費を切り詰めるためにネットカフェや漫画喫茶を「広義における宿」などと称して利用する人も多いのだが、私のように高額かつ大型の撮影機材を持っていると、必然的に鍵のかかる個室があり、全体としての防犯も徹底しており、かつ機材メンテナンスに必要なスペースを備えているところしか利用できない計算になる。そのため、ビジネスホテルや旅館の利用がメジャーとなり、15,000円程度の出費はやむをえない。東横インについては会員になっているため多少割り引いてもらえるのが救いである(もっとも、利用頻度が高いため、割引目的で会員加入したのではあるが)。

 

 大きな荷物を置くと、もう一度金沢駅へ向かう。駅下の商業施設に入り、ちょうど良い飯屋を探して彷徨う。5分ほど歩いていると、「金沢カレー」の有名店である「ゴーゴーカレー」を発見。ゴリラが写った看板ですぐにわかった。

 店内に入り、ロースカツカレーを注文する。量が飛行機の座席のランクで表現されており、ビジネスクラスと称する大盛りは890円である。注文して5分ほどで出てきたカレーは、世間一般で「普通のカレー」と認識されているものとはいくつか相違点がある。まず、金沢のカレーは味が濃く、色が黒い。加えて、「下の飯が見えてはならない」というルールがあり、それを隠すためにカツやキャベツなどが動員される。結果として、相当な量のあるカレーができる。さらに先程述べた通り味が濃いので、この時の私のように1日動き回った後でも無い限りは、少なめの量でも十分と感じる人もいるかもしれない。もちろん、人気店ゆえ味は良い。辛さもあるがうまみもある。上のカツは、カレーの濃い味に合わせてあるのか、脂っこさが無く比較的さっぱりとして食べやすい。キャベツを混ぜると甘みも出て絶妙だ。

 

 食べ終わると、駅構内を放浪。ここでホタルイカ沖漬と珠洲の藻塩を土産物として購入。イカは要冷蔵とのことだったが、どうしても食べたかったため、保冷ケースをもらい、保冷剤を別に購入して宿に持ち帰った。この後、ホタルイカ君は移動中は山のような保冷剤に埋もれ、宿にいる間は冷蔵庫に放り込まれて筆者自宅まで来ることになる。

 宿に戻ると、ネットをつないで旅行実況をするほか、TRC会員とTwitter上で会話したり、夜食をつまんだりとしていた。結局寝たのは3時前だったように思う。

 

5日目 86

 朝7:00時起床、東横インではどこに行っても提供される、ありがたい無料朝食をを頂く。おにぎりと味噌汁でホッとするあたり、私もやはり日本人である。荷物をまとめて、沖漬の袋に大量の凍りついた保冷剤を放り込み、少しでも断熱効果を高めるためにタオルで包んで保冷袋に入れ、リュックの奥深くに入れる。8:00にチェックアウトすると、金沢駅へ向かう。朝であるがすでに気温は高く顔に汗がにじむ。散歩していた犬が舌を出していて暑そうだ。

 金沢駅の中はさすがに冷房が効いていた。駅に入ると、青春18きっぷの3日目に入鋏を受け、北陸線上りホームに上がる。巨大な高架駅である金沢、JR西日本初の一般型交直流車で、北陸本線普通車の主力である521系の4連が停車していた。8:29発福井行334M普通電車だ。334という数字はネット上のとある有名なジョークで使われるため、思わず噴き出してしまった。列車番号をTwitterで呟くと、半自動ボタンを押してドアを開け、車内に入った。新型車の強力な冷房に加え、ドアの半自動扱いが威力を発揮しており、車内は非常に涼しい。発車時刻が近づくと乗客が集まってきて、若干の立ち客が出る程度となった。

 

 定刻で金沢を出る。4分で次の西金沢だが、ここで下車。周囲は住宅が立ち並ぶ郊外の駅だ。駅舎は建て替えられて間もないらしく新しい。駅前にこれといって目立った商業施設などはないが、ここにきたのには理由がある。駅の南側に、北陸鉄道石川線の新西金沢駅があるのだ。この路線も、当然乗りつぶし対象であるため乗車しなければならない。

 西金沢と新西金沢は歩いて30秒かからない至近距離にありながら、駅名が異なる。一方で、直線距離で2kmほど離れているところにJRと北鉄の野々市駅がそれぞれ存在しているのも面白い。どのような経緯で「超至近距離の別駅名」「遠距離の同駅名」が誕生したのか非常に気になるところである。

 駅でフリー乗車券の購入を申し出てみると、新西金沢では扱っていないらしく、野町か鶴来で買うよう案内された。これから鶴来まで向かう予定の私は、同駅でフリー乗車券を購入するまで無札乗車が認められるようである。

 

 新西金沢に9:05に到着した鶴来行413普通電車は、元東急7000系である同社70007100型の2連だ。北鉄石川線では元東急7000系改造車と、元京王井の頭線3000系改造車の大きく2種類が運用されているが、このうち元東急車については、非冷房の7000型、冷房搭載、オリジナル前面の7100型、同じく冷房搭載だが先頭車改造車である7200型というふうに3種類に分かれる。ただ、石川線の架線電圧は600Vであるため、従来1,500Vで運用されていたこれらの車両は、機器をほとんど載せ替えた上で、豪雪地帯に対応するよう雪対策装備を詰め込まれている。その結果として、メカニズム的にはこの大きく2種、細かく見て4種ある車両群は、ある程度の共通性を持っているのである。私が乗車したのはこの中の7100型であり、床下の機械類がゴッソリ入れ替わっているのとは対照的に、車内は東急在籍時の写真と比べてみても大きく変化している点はないようだ。

 新西金沢を定刻で出発。早速住宅地の中を盛大に揺れて弾んで、爆音を上げて進んでいく。ふと気づいたことであるが、国鉄一般型電車のモーターと、走行時の音がよく似ているのである。訪問時は「機械を乗せ変えている」という情報しか持っていなかったため、どういった機器に換装されているのか不明であったが、後日調査してみるとなんとMT54電動機と設計のよく似た、西武701系の発生品ということであった。そして、他にも驚くべき情報を多数発見したのである。抵抗制御器はJR東日本の103系、サービス電源用の電動発電機は南海電鉄、空気圧縮機は当時の営団地下鉄からの発生品というふうに、前述の地鉄16010系と張り合えるレベルの混沌さである。ちなみにこの東急7000系というのは、アメリカから技術提供を受けて製造された「パイオニア台車」を使用していたことで有名であるが、この台車はディスクブレーキが外側に付いており、北陸の豪雪に対して不適とされたことからやはり換装されている模様である。もはや何がどうなっているのか、さっぱり意味不明な電車である。

 

 北鉄の沿線はしばらく住宅地が続き、随分と狭いところを縫って走るような印象である。ラッシュ終わりの下り電車のため、乗客は十数名ほどで、それも途中の駅で少しずつ下りていく。四十万駅(「しじま」と読む)で私以外の乗客が全て下車し、冷房の良く効いた7100系はこの旅4度目の「俺様専用車」と化す。ロングシートでも、ゆったり座って足を延ばすと王様気分である。先ほど出た四十万駅から、急に沿線が開けて農地が多くなる。少しずつ開発されているところもあるようだが、全体的にのどかな風景である。その風景が、再度市街地のものとなってきたところで9:32、終点の鶴来に到着する。

鶴来駅横の検査施設に留置されていた北陸鉄道70007100型 (北陸鉄道石川線鶴来駅 2016.08.06.

 

 鶴来駅には検査設備や電留線があり、70007100型や、元京王井の頭線3000系で、1編成のみが石川線に在籍する7700系などが待機していたり、整備を受けていたりした。写真の通り、北陸という土地のため当然のことではあるが、雪かきが目立つ。7100型の屋根上は通風器が並ぶだけで、一見すると非冷房車のようにも思われるが、床下に冷房装置を搭載しているとのことである。

 留置車両の撮影を終えると、出札窓口でフリー乗車券を購入した。1500円と安い。鶴来では特に乗車券購入以外の用事はないため、すぐに折り返す。

 9:34発の野町行418普通電車となった先ほどの編成に乗車して、今度は9:39到着予定の井口駅に向かう。この駅の前は少し開けており、撮影に適するのだ。ここで1時間ほど撮影して、上下2本ずつ、計4本を記録した。2編成が運用されていたようで、私が乗っていた7100型のほか、先頭車改造車の7200型も走っていた。日が高く上がり、気温も上昇して非常に暑いため、撮影を終えるとすぐに駅に戻り、10:55発野町行422普通電車に乗る。先ほど走ってきたところを戻っていくだけだが、西金沢や野町方面へ向かう買い物客が乗っていて、座席が半分ほど埋まっていた。途中駅で乗車が続き、混雑率は単調増加してゆく。住宅街に入ると立ち客がではじめた。これまで北陸を回っていて思ったのであるが、電車の利用が予想と比較して非常に盛んである。北陸地方というとどうしても自家用車保有率が高く、近場の利用については車を出すことが一般的であるイメージを持っていたのだが、予想外に鉄道が健闘しているようだ。JR北陸線と接続する新西金沢で半分強が下車し、残りの乗客はほとんどが野町まで乗っていた。以前浅野川線には乗ったことがあるため、ここ野町で私は北陸鉄道完乗となった。

 野町駅は古い駅舎が残る。味のある出札窓口は今も有人であり、ここでお約束の硬券入場券を購入。140円となっており、地方私鉄の入場券としては安い部類に入る。電車は15分ほどここで待機しているので、その間に駅舎を見学。待合室なども古いが、手入れが十分なされている印象であった。

 折り返し11:36発鶴来行421普通電車に乗り、11:40に新西金沢に戻った。新西金沢と西金沢の間の接続は念入りに考慮されているというふうではなく、北陸線上りに関して言えば11:33に福井行が発車してしまっており、次の12:04発まで間が空く。下り金沢行も11:37に発車しているため乗り継げない。JR側のダイヤは特急が絡むため変更が難しいと考えられるため、北鉄がもう少し柔軟に接続を考えることで、金沢と郊外との移動は楽になり、北鉄の乗客数も増えると思われるのだが、いかがだろうか。

 

 西金沢でしばらく待ってから、青春18きっぷで入場して、12:04発の小松行638M普通電車に乗る。目的地は福井なので、次の福井行まではさらに30分ほど待つことになる(北陸線金沢近郊は福井〜金沢間の長距離電車と小松〜金沢間の区間電車がそれぞれ約1時間おきに走るダイヤとなっている)が、西金沢で待つよりも、拠点である小松に行けば飯屋が多数あるのではないかと思い、とりあえず小松まで先行することに決定したのだ。

 小松行は521系の3次車4連である。521系は途中から225系に始まる先頭部衝撃吸収構造を採用しており、それが3次車である。脱線など異常な動きを検知して、非常ブレーキをかけて信号炎管に点火する機能の搭載や、車内の尖った部品の角を丸める、手すりを黄色で着色して目立たせるなど、他形式で採用された安全対策をフィードバックしているのが特徴だ。この5213次車や、225系、227系、323系、それから207系の更新車など、最近JR西日本では大きく安全対策が進展していることがうかがえる。同社では、ドア数の異なる車両が混在する中でも、車種統一を図ったりバー昇降式ホームドアを開発して設置を進めたり、社員教育も徹底したりするなど、各方面から安全対策を進めているとのことである。「酔っ払いがホームのベンチから立ち上がって、そのまま前に歩いてホームから落ちる」という例の多さに気づいて、ベンチの向きを90度回転させるといった、他社ではなかなか見られない独自の対策が複数行われているのも注目に値する。

 また、JR管内の521系列車は増結も進んでいるようで、昼間でも2連を見かける機会が減り、4連がメインとなった印象を受ける。一時期、両数が少なすぎるとの問題を受けてJRも改善に乗り出しているらしく、広島の227系など短編成を組む他の形式でも積極的に複数編成をつなぐようになっているようである。

 その521系で、小松を目指す。北鉄の古い電車とはまた違ったスマートな走り方をするが、120km/h近くにもなるかなりの高速を出すため、力強さもある。時代が変わって静かに走るようになった鉄道ではあるが、やはり田園地帯の中ではこれぐらい飛ばしてくれた方がむしろ本来の姿のように思える。ただ、そうは言っても強そうなヨーダンパで台車と車体が繋がれているためか、高速にもかかわらず揺れが少なく安定した走りを見せる。以前ここを走っていた急行型よりも乗り心地は快適であり、彼らから「力強さ」は受け継ぎつつも、「騒音」「振動」と言ったマイナス要素は排除されたような、そんな気のする車両だ。車内の転換座席の座り心地も上々であり、落ち着いた内装や、冷暖房効率を高めてくれるドア半自動機能、ステップを廃したドアなど、従来車から大きくサービスレベルが上がっている。

北陸本線の主力普通電車521系 (JR西日本北陸本線小松駅 2016.08.06.

 

 途中、駅周辺は住宅、駅間は農地が広がる、典型的な地方幹線の様相を呈する。拠点駅小松が近づくにつれて、農地が減り、住宅、商業施設、工場などが徐々に増えていき、12:31に終点に到着した。

 小松は多くの特急列車が停車し、一部普通列車の起終点となる重要な駅である。街としてみても、人口では白山市に劣るものの商工業が集中し、特に建設機械で世界第2位の小松製作所の本拠地となっている一種の企業城下町で、駅前も賑わっている印象であった。その他にも航空自衛隊小松基地が置かれる、国防上の要地でもある。小松の第6航空団は日本海側唯一の戦闘機部隊であり、日本海で国籍不明機が確認されるなどした際のスクランブル発進で時折話題になる。

 

 小松駅での待ち時間は30分ほどあることから、まず駅構内の喫茶店で食事をとる。この手の店らしく洒落たメニューが並んでいるが、特にパスタが充実していたのでカルボナーラを注文して、札を受け取る。5分ほどして出来上がると、レジ横で札と料理を交換である。生クリームに卵黄と、ハイカロリーなため普段は敬遠することもあるが、夏の長旅で体力を使っている時には非常にありがたいものである。犬が餌に食らいつくような勢いで栄養補給に徹していたというのが実情ではあるが、大変助かった。

 13:00ごろ、ホームに戻る。13:13に、やはり521系の4連、福井行342M普通電車が到着した。小松までの638M3次車であったが、今度は2次車である。衝撃吸収構造が採用される前のモデルで、岡山-高松間の快速「マリンライナー」に用いられる2235000番台などと先頭デザインが似ているが、最近先頭車間の転落防止幌の設置が進んでいる。ちなみにこの2次車であるが、北陸線・湖西線の直流区間延伸に関係して、自治体から資金提供を受けて製造された1次車と異なり、JRの独自の判断および負担で地方線区へ普通用車が大量投入され始めた例として画期的な存在である。

 342M普通電車で、今度は13:44着の芦原温泉を目指す。福井に早く着きすぎても、次に乗る予定の越美北線の本数が少ないことから暇を持て余す(観光等は翌日に予定している)だけなので、芦原温泉で2時間ほど撮影時間を取っているのだ。

 芦原温泉に到着。24線の拠点駅で、停車する特急列車も少なくない。ここで下りホームに移動し、順光となる上り列車を撮影することとなる。最初の列車は14:24着の特急「しらさぎ10号」であり、しばらく時間が空く。暑い時間帯なので、ホームの待合室で暇をつぶす。Twitterを開き、タイムラインを追っていたら、相当電池を食ってしまった。九頭竜湖までの越美北線往復で緊急の要ができた際に支障をきたさぬよう、これ以降芦原温泉ではスマホを封印。モバイルバッテリーにつないで回復に努める。

名古屋行10M特急「しらさぎ10号」、増結9連での到着 (JR西日本北陸本線芦原温泉駅 2016.08.06.

 

 最初の名古屋行10M特急「しらさぎ10号」が到着。681系の増結9連で、まずこれを撮影。繁忙期のため、増結されてもなお車内は混雑しているようである。窓に並んだ大量の飲料缶、ペットボトルが壮観であった。

 ところで、もともと特急「しらさぎ」は、6832000番台での運用で、基本編成5連、付属編成3連というものであった。しかし、北陸新幹線開業による「サンダーバード」「はくたか」余剰車転属によって681系(一部、もと北越急行車6838000番台もあり)での運用を基本とされ、編成は基本6連、付属3連と変化した。もともとの6832000番台はというと、交直切替スイッチを直流側に固定する改造を受けて「289系」に形式変更され、編成も4連や6連に組み替えられたうえで「くろしお」や北近畿方面の旧型特急車を置き換えた。車種だけ見ればひとつ前の世代の車両に変わった「しらさぎ」であるが、681系のサービスレベルが本来国内でも特に高い水準にあるものであり、特に接客面での問題は起きていないようである。

 次の列車は14:31着の大阪行4026M特急「サンダーバード26号」である。6834000番台の単独9連で、未更新。その次は14:43着、5214連の福井行344M普通電車だ。2次車での運用だった。

5212次車4連、福井行344M普通電車 (JR西日本北陸本線芦原温泉駅 2016.08.06.

 

 この後にも複数の特急電車が通過ないしは停車していく。特徴的だったのは、15:31に通過した大阪行4030M特急「サンダーバード30号」である。6834000番台の単独9連運用だったのだが、リニューアルを受けた車両であった。北陸新幹線と接続することから、新幹線とイメージ、グレードを合わせるべく、「サンダーバード」用の681系、683系は、内外装の更新を受けることになっているのだが、その工事を済ませた車両だった。外観では、窓周りを黒とし、青の帯を太くはっきりとさせたほか、ロゴも変更されている。正面も青と黒を目立たせたデザインに変更されている。なお、この先頭デザインについては、少々口の悪い向きから「化粧の濃い、きつそうなおばさん」などと言われているのを耳にしたことがあり、笑ってしまうが分からなくもない。

大阪行4030M特急「サンダーバード30号」、683系更新車 (JR西日本北陸本線芦原温泉駅 2016.08.06.

 

 15:35ごろに、上りホームへ戻る。15:41に、福井行346M普通電車が到着。5212次車の4連であった。これに乗り、4駅先の終点福井を目指す。芦原温泉から福井までの17.7km17分で走る。表定速度60km/hを越える、国内屈指の俊足の各駅停車だ。「最後の在来幹線」と称される北陸本線にあって、頻発する特急や貨物に伍して走るため、「新快速」223系から高速性能を受け継いだ521系の面目躍如たる走りである。田園地帯を抜けたと思うと今度は街に入り、轟音を上げて九頭竜川の鉄橋を渡ればもう終点福井である。過去に「食パン」の名で知られた419系が重々しく走っていたことを思えば、時代の変化を強く感じる。

 

 福井駅に降りると、すぐに改札を出て、恐竜のオブジェが待ち受ける西口に出る。駅前の東横インにチェックインし、指定された部屋に入って荷物を置く。今回は2泊である。またこの後は、装備を軽くしてから再度駅に向かい、越美北線(案内上は九頭竜線との愛称が使用されることも多いが、本記事では越美北線に統一する)を乗りつぶす予定となっている。ただ越美北線は末端部の本数が少なく、これから乗る列車は福井にその日のうちに戻れる最後の便である上、山間部の区間は天候不順の影響を受けやすく運休リスクもあるため、一定量の水や食料と、最低限の着替えは鞄の中に残しておく。沿線は過去に水害なども起きているエリアで、かつこの日は九頭竜湖周辺で雨の予報となっていたため、万全の体制を期す。

 福井駅に戻ると、なぜか駅弁屋に「ますのすし」ののぼりが立っているではないか。しかも数箱残っている。ますのすしの本場は富山のはずであるから、少々驚きつつも興味をもち、あろうことか1,800円の大箱を買ってしまった。ただでさえ腹の減る時間帯である。このような気を引く戦術(なのかどうかは定かではないが)は卑怯である。文字通りの「飯テロ」ではないか。

 見事にテロに屈した私は、ますのすしで重くなった鞄に軽くなった財布を放り込むと、改札を通り敦賀方にある切り欠きホームに向かった。ここに越美北線の列車が発着するのである。待っていた車両はキハ120-204で、キハ120型の中で最初に作られた鋼鉄製車体のグループに属する。車内は福井からの帰宅と思われる乗客で混雑しており、最後部に立つことになった。

 

 16:56の発車時刻となり、越美北線九頭竜湖行731D普通列車が発車する。大きく揺れながらポイントを渡って北陸線下り線に入ると、隣の越前花堂まで走る。越前花堂は、もともと越美北線のみの駅であったところに、北陸線のホームが作られた経緯があり、今も越美北線所属としてカウントされている。ほか、もともと越美北線は貨物駅の南福井駅で分岐する扱いであったため、時刻表上の分岐駅は越前花堂であるにもかかわらず、北陸線と越美北線を分ける分岐器は南福井駅構内の扱いになっているという、非常に複雑な逸話がある。

 北陸線と分岐して、単線非電化の越美北線に入る。東へ向かって走るため、私の立っていた最後部は西日が差し込んで暑かった。途中の越前東郷はかつて交換設備があった形跡があり、今は廃止された交換線の一部が保線車両の基地になっていた。一乗谷を出ると、最初の大きな橋である足羽川第1橋梁を渡るが、妙に新しい長大なトラス橋である。次の第2橋梁は普通の上路プレートガ―ダーで、特に違和感はない。そして、隣の越前高田の手前の第3橋梁も、何気なく見ただけでは第2橋梁と似たプレートガーダ−であるが、スパンが長く橋脚が少ない、新しい構造をしていた。1960年開業の区間であり、ローカル線であるため通過トン数も多くないだろうから、老朽化での架け替えと考えるには早すぎる。そして、越前高田の先の第4橋梁も、第1橋梁と同じ新しいタイプのトラスであった。

 この時点でさすがに怪しいと思い、スマートフォンを取り出し越美北線の橋について調べてみたところ、恐るべき事実を知ることになった。県の資料など見てみると、2004年に足羽川流域の広い範囲で豪雨災害があり、越美北線は足羽川にかかる7本の橋のうち、第1、第3、第4、第5、第7の実に5本が被災し流失している13のだという。他にも、この川は福井市街地に入ると急に川幅が狭くなり蛇行を始めるため、福井市内でも堤防の決壊が起きたとのことであった。妙に新しい橋は全て、一度流されたのちに架け替えられて復旧しているということである。1スパンが長大で橋脚が少ないのは、同様の増水時に橋脚が水をせき止めて、周辺で洪水を発生させたり、あるいは橋そのものが流されたりすることを防ぐ工夫による14ものである。自然の力は非常に強大なものであるが、それに無理に抵抗せず受け流そうという発想だ。「減災」の考え方に通じるものがあるだろう。また、第2、第6の橋が流失を免れた経緯なども、橋の洪水対策を考えるうえで何かヒントを与えてくれるかもしれない。

 第4橋梁を過ぎて、市波から徐々に谷に入っていく。やはりトラスで架け替えられた第5橋梁を渡ると、左手に山が迫り、落石の恐れもあるのかスピードを落とす。その次の駅は、難読の小和清水(こわしょうず、と読む)で、手前には水力発電所もある。洪水の起きやすい山間部の川だが、水量豊富で急流であれば、同時に電源開発にも適するという事である。自然は脅威だけの存在ではない。いかにして自然の恩恵を有効に活用するかということも重要なポイントである。

 

 しばらく谷間を縫うように走り、足羽川の7本の鉄橋を全て渡り終えると、美山に着く。交換設備があり、周辺もまとまった市街地がある。ここで乗客の半数弱が下車して、1ボックスが空いたためここに座る。17:30に、越前大野からの福井行732D普通列車が到着して、交換。17:31に発車した。美山からはしばらく谷を走り、車窓の変化は乏しい。この日は炎天下での撮影なども行っていたため、冷房の効いた気動車の中でしばらく寝ていた。

 目が覚めると、ちょうど広い平地に出るところであった。大野市の中心部に向かうところだ。越前大野着は17:52、ここより先は1日の本数が5本という閑散区間に入る。柿ヶ島までは、大野市の郊外の田園地帯を走る。夕日を浴びる稲穂が美しい。柿ヶ島から先は本格的に山間部に入る。1972年開業の比較的新しい区間のため、トンネルや橋梁で直線的に山を抜ける。このあたりから、並行する川が九頭竜川となる。柿ヶ島の次、勝原(かどはら)周辺は、ダムが点在し、洪水調節に威力を発揮するほか、発電も行われているが、長大なトンネルで抜けてゆくため車窓はほとんど闇である。途中の越前下山駅付近で明かり区間となっただけで、18:27に終点九頭竜湖に着いた。ちょうど、予報通り雨が車窓を叩き始めていた。

 

 九頭竜湖駅は、ログハウスの駅舎があり、簡易委託なのか有人であった。駅員さんに申し出ると、到着証明書なるものを受け取ることができた。九頭竜湖駅は福井県最東端の駅なのだという。

 雨が降っているため、一度駅舎の写真を撮った以外は外に出ていない。そして、そのまま折り返すべく、ホームに戻る。11線の単純な配線の駅だが、線路は少し先まで続いている。この先を目指す計画があったことの証拠である。

 「越美北線」というからには、「越美南線」がある。その「越美南線」は、今は「長良川鉄道」と名乗っているから気付きにくい。国鉄線が第3セクター転換されたものだが、「越美南線」の名は、今も正式な路線名として引き継がれている。そして、この越美北線と、長良川鉄道越美南線は、福井・岐阜県境を越えて繋がるはずだったのだ。いわゆる未成線である。「越美線」として全線開業していれば、九頭竜湖を出ると、九頭竜川の支流石徹白川に沿って分水嶺を越え、北濃駅に到達するはずだったのだ。だが、分水嶺となる石徹白地区は、つづら折りの道路で山を越える区間であり、また九頭竜湖駅と北濃駅の間にも標高差があることから、仮に鉄道を通したとしても、スイッチバックやループ線、長大トンネルなどの施設を必要としたことは確実である。この区間は以前バスが連絡していたが、それも廃止され、北濃と九頭竜湖の間を移動するには徒歩移動を強いられる区間も存在するのが現状である。ただ、景色は非常に良いらしく、いつか歩いてみたいとも思うのである。

 

 列車は折り返し福井行734D普通となるが、九頭竜湖駅を発車する時刻になっても乗客は私だけであった。この旅5度目の「俺様専用車」である。が、車内に大きな虫が2匹飛び回っており、環境としてはあまりよろしくない。しかも片方はどう見ても毒虫であると考えられるため、やむを得ず時刻表のフルスイングで「撃墜」した。すると、「虫ですか?」と運転士さん。運転席からスタフを持ってきて、残る1匹を空中で叩き、吹っ飛ばしてそのまま窓に突っ込ませた。と、その窓の周辺は何物にも形容しがたい地獄絵図のような光景が広がっていた。虫、いや「過去に虫だったもの」が無残に砕け散り、どこがどのパーツか分からなくなった肉片が窓に付着していた。なかなかに気持ちの悪いものであるが、車内の便所から紙を持ってきて、運転士さんと共同で処理した。この毒虫嫌いの私が乗る列車の中に迷い込んでしまったのが運の尽きであったと言えよう。

 結局列車は定刻18:35から2分遅れで発車して、元来た道を戻っていった。つまり、虫を処理するために2分遅れたという計算である。鉄道始まって以来最もくだらない遅延理由ではないだろうか。

 往路はあまり気にしていなかったが、トンネルの多い勝原付近も、明かり区間では九頭竜川の雄大な流れを見ることができた。外は徐々に暗くなり、越前大野には19:04に到着した。ここから3人が乗車したが、依然としてガラガラである。越前大野では、福井からの列車を待つため14分の停車時間があり、ここで「ますのすし」を開封。大箱は初めてのため知らなかったことだが、プラ製のナイフが入っており、自分で好みの大きさに切って食べるというものだった。半分ほど食べて、後は福井での夜食に回す。津幡駅で食べた時同様、さっぱりしていて夏の旅に非常に向いているものである。

九頭竜川の流れ (JR西日本越美北線柿ヶ島-勝原間 2016.08.06.

 

 19:18、すっかり日も暮れた越前大野を発車する。外は暗いため、特に見るべきものもなく寝ていた。越前花堂で起きると、座席が半分埋まる程度の乗車率となっていた。終点福井に、20:10に着いた。

 福井駅前は、恐竜のオブジェがライトアップされるなどしていた。駅前のコンビニで飲料を調達すると、東横インに戻り、部屋で写真を整理しつつ「ますのすし」の残りをつまんでいた。広島原爆の日であり、各種のテレビ特集を見つつ、核兵器というものは、存在そのものが国際法に反するものなのではないか(破壊力が強大すぎるため攻撃対象を戦闘員に限定することがほぼ不可能であり、非戦闘員の殺傷を禁じることに反している)などと考えていた。同時に、現代日本の平和にも感謝する思いであった。

 この日は、23:00ごろに就寝した。

 

6日目 87

 朝、7:00ごろに起床し、無料朝食をいただく。一通りの支度を終えると、8:00過ぎに装備を持って福井鉄道福井駅電停に向かう。ここは田原町と越前武生を結ぶ福井鉄道福武線の支線で、「ヒゲ線」と呼ばれる区間である。福武線の市役所前電停から分岐して、福井駅電停まで1区間となっている。

 が、待てども電車が来ない。すると福井鉄道の職員と思われる制服姿のおじさんが来て、「今日はヒゲ線運休だよ」とのこと。何かあったのか聞いてみると、ヒゲ線区間は併用軌道なのだが、その沿道で夏祭りがあり、露店が出て歩行者天国となるのだという。それでヒゲ線もこの日は運休なのだそうだ。

 ヒゲ線運休により、北陸地区鉄軌道完乗計画は惜しい所で諦めざるを得なくなった。仕方が無いので、動いている区間は全て乗りつぶそうと、市役所前電停に向かった。

 

 福武線は15分間隔程度で動いているようで、利便性は高い。まずは越前武生まで乗りつぶそうと思い、そちらへ向かう電車に乗った。8:27発の816R列車で、車種は名鉄600V線区から移籍した770型の連接2連である。乗ると、日曜日ではあるがが満員に近い。列車内で、えちぜん鉄道と共通のフリー乗車券(土休日のみ使用可)が購入できると調べてあったのだが、この混雑率の中で運転士さんに申し出るのもなかなか気が引けるように思えた。が、市役所前電停の目の前が交差点で、赤信号で長く止まっていたため、その時間に1,500円を支払って購入することができた。

 市役所前を出ると、3つ先の商工会議所前電停までは併用軌道となり、周囲の自動車と並んで走る。福井の市街地は駅西口周辺から、この併用軌道がある通り(福井県道28号線。「フェニックス通り」と呼ばれている。)の一帯にかけて随分と発展している印象であるが、博物館などもある足羽山公園周辺など、適度に緑地が残されているのが好印象である。

 赤十字前駅の手前で、軌道線から鉄道線に切り替わる。鉄道線区間では最高速度65km/hまで認可されており、併用軌道区間より明らかに速度が上がったことが感じられる。設置されている信号機が鉄道線用のものに変わり、ATSが設置されている。ただ、駅間は短く、路面電車車両の高い加減速性能が遺憾なく発揮されている。JR北陸本線と並走しているが、あちらは駅間が長く、また長距離輸送が主体である路線なのに対し、こちらは駅と本数を多めに設定して、ローカルサービスを重視しているスタイルであるから、特に競合関係にあるようには感じられない。

 福武線は、先程の県道28号線から続く県道229号線(こちらもやはり、28号線と一体でフェニックス通りと呼ばれる)と近い距離で並走しているため、郊外部でも駅周辺を中心に住宅が多い。福武線の多くの駅にはパークアンドライドの駐車場が整備されているが、駐車台数が多くこの電車も立ち客が20人ほど出ていることから、地元に定着しているものと考えられる。日曜日の朝の、郊外部に向かう電車でありながら、地元利用者が多く電車は依然として混雑しているのである。770系の座席定員は52人、総定員90人ということなので、70人以上乗っている計算になるだろうか。富山地鉄や軌道線などでも思ったことであるが、想像以上に鉄道の利用が盛んである。ひょっとすると、「自家用車保有率が高い」ということは、必ずしも「自家用車依存度が高すぎる」ということではないのかもしれない。福井県は1世帯あたりの自家用車台数が「1.8台」となっており、これは全国で最も高い値なのである。それでも鉄道線の利用がこれだけある(事実、2008年の「鉄道事業再構築実施計画」によって、減少が続いていた福武線の輸送量は増加に転じている14。)ということは、「車は持つが、それだけに依存する生活はしない」という人が相当数いるのではないかと考えられる。また、鉄道の側が適切な本数、運賃、スピードなどのサービスを提供することで、利用客を定着させることができるという例でもあるだろう。

 

 9:13に、終点の越前武生に到着する。23線の終着駅で、比較的大きい駅舎がある。駅前にはバス乗り場が整備され、自販機や窓口なども整備されている。かつては、福井鉄道南越線福武口駅と連絡していたが、1981年に廃止されたという。

 窓口に行ってみると、見慣れない古い硬券が数枚置かれていた。駅員さんに尋ねてみると、廃止された南越線の硬券や、昔の福武線の硬券があり、希望者に安く譲っているのだという。ここで、この古硬券の3枚セット購入した。

 

 越前武生からの折り返し電車は9:25発の925普通電車である。編成は先ほどと同じとなる。この電車で、途中の「三十八社」という駅に向かう。9:50に着いたこの駅の周辺には農地が広がり、福武線の駅としては駅前が静かな部類に属する。ここで1時間ほど列車を撮影するのである。

福井鉄道の大型路面電車F1000型「FUKURAM」 (福井鉄道福武線鳥羽中-三十八社間 2016.08.07.

 

 実は私が訪問したこの2016年に、田原町駅の配線を改良して、福井鉄道とえちぜん鉄道の相互乗り入れ運転が開始されている。旗艦1,067mm、架線電圧600V、鉄道線規格というところが共通していたため実現に至ったものと考えられるが、路面電車タイプの車両に切り替えつつある福鉄と、鉄道線車両しか用いていなかったえち鉄との直通には困難も伴ったようである。結局は、福鉄がF1000型「FUKURAM」と予備用として770型を直通対応化し、えち鉄は路面電車タイプの車両であるL型電車を導入、各駅に低床ホームを整備して直通運転開始に至った。直通区間は福武線越前武生から、えちぜん鉄道三国芦原線鷲塚針原までとなっている。直通電車の多くは急行運転を行っているようだ。

 撮影中にも、直通運転を行っているF1000型がやってきた。名鉄からの譲渡車880型などに混じって、えちぜん鉄道所属のL型超低床電車も来た。こちらは「ki-bo」と呼ばれている。両形式の愛称をつなげると、「希望ふくらむ」となるのが面白い。

ひよこのようなデザインが愛らしい、えちぜん鉄道L型「ki-bo」 (福井鉄道福武線鳥羽中-三十八社間 2016.08.07.

 

 直通運転を行っているF1000型とL型であるが、F1000型が3車体連接、L型が2車体連接となっているのも面白い。また、F1000型は車体幅が広いこともあり、定員155人と、国内トップクラスの大型路面電車となっている。F1000型が大きい理由だが、もともと福鉄は鉄道線規格の高床電車で運転していたため、車体幅など寸法を大きく取れたこと、その高床の大型電車をバリアフリー対応の新型で置き換えるため、大きな輸送力が必要とされたことという、偶然と必然が重なったものである。

 

 電車が過ぎると、しばらく待つことになる。日が高く上がっていき、暑い。黒いカーボン三脚が熱を持っていた。汗が噴き出し、呼吸も荒くなる。流石に厳しいと感じたため、冷却材の袋を鞄から取り出すと、やや乱暴に叩いて冷やす。やはり夏場の撮影は、この冷却材があるのとないのとでは大違いである。また、撮影地近くには小さな用水路があり、絶えず聞こえる水音も少しばかり涼しい気分にさせてくれたようである。秋には遠いためまだ青いが、トンボも飛び交っていた。稲穂の上を渡ってくる風に乗って、優雅に舞う姿が疲れた私を癒してくれた。

夏の稲穂 (福井県鯖江市、福井鉄道福武線三十八社駅付近 2016.08.07.)

 

 上下合わせて7枚ほどの収穫を得てから、駅に戻る。三十八社は交換設備がある駅だが、冬の豪雪から分岐器を守るため、鉄骨鉄板で作られた実に頑丈そうなシェルターが駅の両側に備え付けられていた。と、その分岐器を見てみると、片分岐である。信号設備も、どちらの線路も上下両方向への発車に対応していた。一線スルーである。調べてみると、三十八社は急行が通過するため、一線スルー化されているとのこと。他にも、急行が通過する交換駅は本格的なスルー配線となっているようだ。もっとも、急行停車駅ではスプリング・ポイントもあるらしく、駅同士のギャップがおもしろい。

 しばらくして到着した10:50発の田原町行1025普通電車に乗る。市役所前まで戻るのだが、郊外の住宅地から福井市中心部へ出かける途中と思われる人で混雑しており、冷房がフル稼働しているにもかかわらず車内には熱気が漂っていた。

 車窓から徐々に農地が減り、変わってビルが見えるようになると、福井市中心部へと戻ってくる。一旦昼食とするため、11:11に、朝にも利用した市役所前で降りる。

 

 福井と言えばソースカツ丼が知られている。非常に評判が良いのでぜひ食べてみたいと思ったのであるが、私がこの日狙った店は、最初にこれを提供したことで知られる「ヨーロッパ軒」である。元祖なので当然人気があり、ネットで調べると「うまい」と高評価なのだ。市役所前電停から5分ほど歩いた所にある店には、まだ11時台であるにもかかわらず数人が外で待っていた。

 暑い中ではあるが、15分ほど外で待つと、席が空いて中に通された。店内は少し古いが洒落ている。喫茶店として営業しても違和感ないような、上品な雰囲気である。

大盛りソースカツ丼 (福井県福井市「ヨーロッパ軒総本店」さん 2016.08.07.

 

 撮影で汗をかき、体力を使っていたため、飯大盛り、カツ4枚乗せという「大カツ丼」を1,180円にて注文した。10分程度で出て来たのだが、かなり量が多いためどんぶりの蓋が閉まり切っていないようであった。開けてみると、案内通り大振りのとんかつが4枚乗っていた。ついてきた追加のソースをかけると、急いで食べ始めた。肉が柔らかく、脂の量は適度であった。ソースが下の飯にもしみ込んでおり、絶妙な塩辛さがさらに食欲をそそる。別に注文しておいた烏龍茶との組み合わせも上々であった。

 さすがは名店、看板に偽りなし、である。大満足で食べ終えた。代金を払って店を後にすると、また市役所前電停に戻る。ちょうど田原町行電車が発車するところであったが、併用軌道ならではの道路の赤信号に引っかかり、駅を出ないままに停車。「乗りますか?」と車掌さんが融通を効かせてドアを開けて下さった。このような軌道線の大らかさというのが、私は大好きである。

 

 運よく飛び乗った電車は、市役所前12:21発の田原町行1145K急行であった。郊外部の鉄道線区間では急行運転を行い、福井市中心部の併用軌道では各駅停車となる。福武線は急行と各停がそれぞれ30分おきに運転され、毎時4本の本数が確保されているようだ。また、急行は2本に1本が田原町駅を抜けて、えちぜん鉄道と直通運転を行っている。なお、この時乗った電車は非直通車で、車種も直通運転に対応していない880型であった。これも名鉄からの譲渡車のようだ。

 昼の福井市街は、人も車も活発に動いている。その中を、立ち客を出す程度の乗車率で電車が進んでゆく。夏の猛暑の中、大通りの賑わいは絶えない。

 

 市役所前から、終点田原町までは5分で着く。ここがえちぜん鉄道との接続駅だが、私が乗ってきた電車は直通運転を行わないため、乗り換えとなる。田原町のホーム上屋や駅舎は、木材を活用した大幅リニューアルによってきれいに整えられている。冷房の効いた待合室も一面に木が使われているが、断熱効果も期待されているのかもしれない。

 少しばかりの階段を上ると、鉄道線規格のえちぜん鉄道三国芦原線ホームである。天井から吊り下げられている駅名標は、漫画の吹き出しのような形をした立体的なもので、非常にかわいらしい。

 この日利用したフリー乗車券はえちぜん鉄道区間も全線で通用するため、そのまま電車を待つ。

 

 12:48に、三国港行1239M普通電車が到着、これに乗る。車種はMC7000系である。このMC7000系、何者かといえば元JR東海119系である。飯田線を引退して、ここ福井に移ってきているものなのだが、譲渡に当たって大きくリニューアルを受けているため、鉄道に興味のある人でも、何も知らないで行くと元119系だと気づかないこともあるという話である。内装も綺麗に回収されたうえで青のモケットで整えられており、また走行機器も制御装置やモーターはじめ多くが載せ換えられている。

 MC7000系は現在2612両が在籍しているが、導入の経緯を調べてみると、既存車両の更新のほか、輸送力を増強する目的もあったようである。当然、輸送力を増強するというからには、需要増があるのだろう。このことの背景には、えちぜん鉄道誕生に至るまでの複雑な歴史がある。

 

 えちぜん鉄道は、会社設立が2002年、路線開業が2003年という、非常に新しい会社だ。だが、同社が運行する勝山永平寺線と三国芦原線は、もとは京福電鉄の路線であった。京都「嵐電」の、あの京福である。京福が京都と福井という離れた地域に、まったく独立した鉄軌道線を持っていたこと自体がそもそも不思議な話であるが、調べてみると、京都〜福井エリアで戦前に電力事業と、それに関連した鉄道事業を行っていた京都電燈が、戦時統制によって解散した際、鉄道事業を継承するために設立されたのが京福ということのようだ。

 そして、福井の路線は自家用車依存度の上昇などにより成績が良くなかったのであるが、それによって電車の整備が行き届いていなかったのだろうか、2000年〜2001年にかけての半年間に2度の列車衝突事故が発生した。2度目の事故の際、運行停止命令が下り、それを機に京福は路線廃止を決定したのだ。

 これに対し、福井県は鉄道存続の方法を模索した結果、第3セクター方式での路線営業再開を決定、2002年にえちぜん鉄道が設立されたのである。京福から設備を譲り受け、2003年に営業再開した。

 開業後のえちぜん鉄道は各種のサービス改善を行っている。増発を行い日中でも毎時2本の本数を確保したほか、愛知環状鉄道からの中古車譲受、そしてJR東海119系の譲受によって全旅客車冷房化を達成した。観光客向け案内や高齢者の介助などにも対応するため、多くの列車ではアテンダント(「車掌」という肩書ではないためドア扱いなどはしていないという)が添乗するようになった。これは「親切で使いやすい路線」というイメージを定着させることにつながった。

 ほかにもユニークな施策が行われている。なんとえちぜん鉄道では、開業時に京福時代の券売機はすべて撤去、有人駅では駅員、無人駅では車内のアテンダントから切符を買うという方式に改められている。もちろんこれは、素人考えでは合理化に逆行しているようにも思える。しかし、これにはある理由が存在している。切符を買う乗客の年齢層や、通勤通学なのか観光なのか、といった客層を把握して、経営戦略に生かすためのものであるという。確かに、外見から人の年齢や利用目的を推測するのは生身の人間が行うのがもっとも正確である。意外なところで人間の強みが発揮されている。余談ではあるが、JRの駅に人の顔を識別しておすすめ商品を紹介する自販機が置かれていることは、ご存じの方も多いだろう。だが、ちょっと走って汗をかき、顔が赤いだけで、あの自販機は19歳の私に「お酒好きのあなたに」と書かれたオルニチン入り味噌汁をプッシュしてくる。酔っ払いと間違えられているのだろうが、現状、機械の顔認識ではその程度のようだ。(もっともその味噌汁自体は大好きである。)

 このような積極的な改善が行われた結果、転換後、えちぜん鉄道の輸送量は上向き始めた…以上えちぜん鉄道に関しては参考文献15。そのため、従来同社の電車は25両体制であったのが27両に増強されているのだという。この輸送力強化分も含め、119系改めMC7000系は12両導入されているというわけだ。

 

 そんな複雑な経緯で開業したえちぜん鉄道線に乗り、三国芦原線の中角という駅を目指す。車内はJR東海時代に搭載されたインバータクーラーのおかげで涼しく、ボックスが一つ空いていたため、ゆったり座ることができた。2連の列車は全体で50人ほど乗っていたように記憶している。

 12:57到着の目的地の中角は、九頭竜川の大鉄橋を渡った築堤上にある、11線の小さな無人駅だ。周囲には農地と集落があるだけで、他にこれといったものは神社とお寺ぐらいしかない。福鉄との直通急行も、えちぜん鉄道線内では唯一通過する駅(築堤上に低床ホームを整備するのに難があったとの話も聞かない訳ではないが)である。

特に目指すべき施設は何もない駅という事は、もうお約束となった感のある撮影である。築堤を上り下りする列車をこの付近で撮影するのだ。

 

 駅を出ると、まずは階段で築堤を降り、神社のある側に出る。その神社を回り込むようにして北へ向かい、線路沿いの道を歩く。時刻は13:00となり、天気は快晴、気温は30度を超える。道の先の方が、アスファルトの熱で陽炎を上げていた。線路の反対側は水田が広がっているが、用水路の涼しげな水音が唯一気休め程度に聞こえるのみである。周囲には大きな木などはなく、日差しを遮るものは被っている帽子だけであった。駅からほんの5分で行けるポイントであるにもかかわらず、異様に疲れてしまった。水を持っていなければ冗談抜きでミイラ化していたかもしれない。

 

 撮影地に到着すると、とりあえず水を飲み、塩飴をなめるなどしていた。すると34分後であろうか、九頭竜川の鉄橋の方から列車の音が聞こえてきた。鷲塚針原行の直通急行電車だ。大柄なF1000型が築堤を疾走してくる絵を思い浮かべていたが、意外なことに直通用としては予備扱いの福鉄770型だった。FUKURAMが不調で代走に入ったのかどうかは定かでは無いが、比較的レアな列車を撮影することができたのは良かったと言える。

直通急行運用に入る福井鉄道770型 (えちぜん鉄道三国芦原線中角-鷲塚針原間 2016.08.07.

 

 その後はえちぜん鉄道車による自社線内列車を数本撮影した。MC7000系の2連や、愛知環状からの譲渡車であるMC6001系なども走っていた。MC6001系は両運のため、単行運転が可能なようだが、1列車を除いて他は2連であった

 1日の中で最も暑くなる時間帯となり、1時間ほど撮影してから駅に戻ると、13:57発の三国港行1339M普通電車に乗って北上を再開する。今度もMC7000系の2連である。冷房のよく効いた車内から、風に揺れる稲穂を眺めつつ、あわら湯のまち駅あたりまで到着。駅の周辺は市街地化されており、あわら市の中心部…、と言いたいところではあるが、一方でJR芦原温泉駅もそれなりに街である。そのため、あわら市という自治体はどこに中心があるのかよく分からない。市役所はJRの駅に近いが、警察署、消防署などがあわら湯のまちに近いなど、役所の機関だけ見ても分散している印象である。温泉に近いのはえちぜん鉄道の側であるが、観光客の移動としては福井でえちぜん鉄道に乗り換えるルートよりも芦原温泉まで特急で乗り付けて、そこから送迎バスなどを利用する方が多いとも聞く。なんというか謎の多い街である。

 あわら市内で、線路は西へ向きを変える。途中の水居駅付近では、両側を道路に挟まれた中を電車が走るという、微妙に併用軌道のようにも見える区間も見られた。三国神社あたりから再度市街地となり、14:28に終点三国港に着いた。

 三国港駅前は、九頭竜川の河口となっている。駅の構造としては、11線の着発線と、ほか側線1線を有する終端駅である。木造の小さな駅舎が残されており、自販機などが並んでいた。有人駅で、窓口では切符の販売などが行われている。

 

 三国港での折り返し時間は11分あるので、駅舎を見たり、自販機でアイスを買ったりして過ごした。折り返し準備が整うと、再度電車のドアが開き、車内でアイスを食べて発車を待つ。

 14:39の発車時刻となり、福井行1438M普通となった電車は三国港を後にする。先程来た道を戻ってゆくが、少しばかり日が傾いてきたように感じられた。まだ秋には早いが、午後の日差しを受ける水田がなんとも美しい。あわら市付近でまた街並みを見てから、九頭竜川を渡るまで田園地帯の中を走る。田原町を過ぎ福井市中心部に近づくと、住宅や店舗が密集し、ビルも多く並ぶ市街地に入っていくが、この区間では駅が多く設置され、集客に努めているようである。

 

 北陸本線、それから建設中の北陸新幹線の高架下をくぐると、左から別の線路が近づいてくる。京福時代は越前本線と呼ばれた、勝山永平寺線である。福井の2つ先、福井口駅で三国芦原線と分岐しているのである。

 その分岐駅となっている福井口に、15:28に到着した。ちょうど福井方面から、勝山行1625K普通電車が到着し、対面で乗り換えた。今度もまたMC7000系である。

 

 15:29の定刻で福井口を出た。途中は永平寺町に入った所にある松岡という駅まで、所々農地も見られるものの、概して市街地が続いている。松岡駅では駅名表を撮影。夏の暑い時期にこんな駅名が現れたら、余計に暑く感じそうである。

 松岡の先から、右側に山が迫り、線路は九頭竜川に沿う。山間の集落の中を縫うように走ると、志比堺(しいざかい)に着く。付近の集落との間にはかなりの高さの差があり、長い階段で下の道路まで降りるようになっている。上越線の某トンネル駅ほどではないが、バリアフリーに真っ向から喧嘩を売るような駅である。

 志比堺を出ると、やはり右側に山が迫り、左側の道路との間の狭いところを線路が抜けてゆく。その山が開けたら、15:50着の永平寺口である。ここで一旦降りて撮影に向かう。読者の皆さまの中に私を知る方がいれば、「撮影する暇があったら永平寺で座禅組んで精神を鍛えろ」と言われそうではあるが、あいにく永平寺までは数キロ離れているのである。バスが連絡しているが、そこまで時間があるわけでもないので、あまりこの線路から離れた所に足を延ばすのは厳しい。

 

 永平寺口駅は木造駅舎が残る23線の有人駅だ。駅舎やホームは手入れが行き届いており、気分の良い駅である。ここで駅員さんにフリー乗車券を見せて改札口を抜けると、線路に沿って勝山方面へ3分ほど歩く。畑の中を抜ける道の途中にポイントを定めると、機材の設定を行った。20分ほどして、上り電車が通過、これと永平寺口で交換した下り電車も、続けて通った。上りはMC6001系、下りはMC7000系であった。MC6001系は連結された2連であるが、どうもこれが普通の運用のようだ。単行のMC6001系は中角で1回見たきりで、他はすべて2連しか見ていない。

福井へ向かうMC60002連 (えちぜん鉄道勝山永平寺線永平寺口-下志比間 2016.08.07.

 

 2本の列車を撮影して、駅に戻った。すると、駅に見慣れない電車が止まっていた。えちぜん鉄道の塗装ではあるが、MC6000系でもMC7000系でもない。前面が「く」の字型に折れ曲がったスタイルの、比較的新しそうな単行電車である。直ちに頼れる強い味方、Google先生に聞いてみると、MC5001系という車両だという。もともと京福時代の1999年にモハ5001系として新製されたもので、導入の目的はサービスアップで乗客の減少に歯止めをかけることであったという。

 

 この元モハ5001系、現MC5001系は、京福→えちぜん鉄道という経営移管を語る上でも重要である。もともとモハ5001系は2両あったのだが、モハ5002が事故廃車となっている。2001624日に、モハ5002による普通電車が、停止現示の越前本線発坂駅の出発信号機を冒進、対向列車と正面衝突し24名の負傷者を出すという事故が発生した。これにより同車は大破し、廃車されたのである。しかも、京福ではこの半年前の20001217日にも、永平寺口駅(当時は東古市駅)付近で旧型電車のブレーキの整備不良により列車が停止できず正面衝突に至る事故(この際故障列車の運転士が死亡している)を起こしていた。結果、前述の通り国から運行停止命令が出され、老朽設備の改善も合わせて命じられた。しかし、もともと赤字で余裕のなかった福井エリアの路線への設備投資の負担は不可能と判断され、ここで京福は全線廃止を決断する訳である。

 廃止の後、えちぜん鉄道への移管が行われるまでは、バスでの代行輸送となるわけである。だが、朝夕のラッシュでは当然輸送力が大幅に不足し、京福は各地からバスをかき集めるなどした。しかし今度は、バスが道路を埋め尽くす有様となり、他にも自家用車に転出した人も多かったことから道路のキャパシティが足りなくなるという事態に陥った。福井市中心部と沿線各地との間は所要時間が伸びて混乱をきたし、メディアはこの状況を「負の社会実験」と評した。この結果、決して望ましくない形ではあるが、鉄道が日常的に社会の活動に大きく貢献しており、普段は実感しづらくとも、確かに重要かつ不可欠な存在であるということが沿線住民や自治体に広く理解されていった。

 予想外の事態に直面した福井県や沿線各自治体も状況を重く見て、沿線から寄せられる鉄道再建の要望に応えることを決意した。京福からの鉄道施設の譲渡を受けるに伴い、福井県が設備改善等に必要な投資経費を全額負担し、開業、運営の責任を沿線自治体が負うとして、2002917日に「えちぜん鉄道」が発足したのである。2003720日には勝山永平寺線福井-永平寺口間、三国芦原線福井口-西長田間の鉄道運行が再開、同年810日には三国芦原線が三国港まで全線再開、残る勝山永平寺線永平寺口-勝山間も1019日に無事運行再開を果たし、以降着実に乗客数を伸ばして今に至る…以上16

 事故で相棒のモハ5002を失い、ただ1両のみとなったMC5001であるが、移管後はえちぜん鉄道の派手な塗装をまとい活躍を続けている。2006年には福井大学などによるリチウムイオン蓄電池での電車走行実験に使用されるなど、1年半しか走れなかったモハ5002の分までフルに働いているようである。今後もMC5001の活躍とえちぜん鉄道のさらなる発展を願うとともに、鉄道の真価に理解を示し、存続と維持発展に向け努力を続けるすべての当事者の方に、一人の鉄道愛好者として深い感謝の意、尊敬の念を示したい。

 

 本筋に戻ろう。このMC5001であるが、定期のダイヤでは電車が来ない時間帯に停車していたが、車内に乗客が多数いたので、何かの臨時であろうと思い、構内踏切で待機していたアテンダントの女性に尋ねてみた。なんでも最近流行りのビール電車だという。そして、MC5001は勝山方面へ走っていった。もう少し撮影地でたそがれていれば撮れたものを、惜しいことをしたと感じたばかりである。

 MC5001が去った永平寺口のホームに上がり、次の電車を待つ。16:48ごろに構内踏切が鳴ると、MC

60012連の勝山行1625K普通電車が入ってきた。勝山方面からは福井行のやはり2連が到着、交換が行われる。初めての乗車となるMC6001系で、私は勝山を目指した。16:50に永平寺口を出た電車は、福井からの帰宅途中と思われる乗客が各車20人ほど乗っていた。線路は九頭竜川の河岸段丘の中を走っているが、川と両岸の山との距離が近づいたり遠ざかったりを繰り返しているようである。沿線は農地と森の中に、それなりの数の住宅が点在する散村の風景であった。また、線路の南側には中部縦貫道の高架も見える。高規格道路が並走していると、鉄道側にとっては不利な条件となりそうにも思えるが、主要な市街地と縦貫道のインターチェンジが離れている関係もあるのか、勝山永平寺線の利用は目立って落ち込んでいることは無いという。

 途中の比島駅は、駅付近の集落が他に比べ小さい関係か、日中は半数の電車が通過するという駅である。朝夕は全て停車するので、私が乗っていた電車はドアを開ける。初老の男性が1人、夕方の小さな駅に降りていった。

 

 比島の次は、終点勝山である。17:19到着、20人近くが降りていった。

 勝山駅は大きな木造駅舎がよく手入れされて使われている。駅前に目立った施設などは無いが、九頭竜川を渡った500mほど先のあたりから市街地となる。夕方とはいえ夏のことで蒸し暑いが、数台の自販機があり飲料やアイスクリームなど冷たいものを求めるのに困らない。

 また、駅舎の横には現存国内最古の電気機関車ML6が展示されている。動態保存のようで、イベントの際に線路を走ることがあるという。ML6ともう1両、無蓋貨車も置かれていた。

 

 保存車両を変なアングルから撮影したり、複数のアイスを同時に頬張ったりと、相も変わらず挙動不審な行動をしていると、急に暗くなってきた。山の向こう側に日が落ちていっているのに加えて、雲が沸き出して、雨が降り始めた。山から雷鳴が聞こえてきたので、ひとまず駅舎の中に避難した。この時点で時刻は17:40ごろとなっており、折り返し準備を終えたMC6001系が福井行1748K普通電車となって待機していた。既に乗車可能ということであったので、フリーパスを見せて車内に入った。

 外では夕立が続き、不穏な雷の音が響いていたが、車内では冷房がよく聞いており、しばらく快適に寝ることができた。17:50過ぎに目が覚めたが、どうやら寝ている間に発車したらしく、電車は比島駅に停車するところであった。日は山の影に落ち、川の対岸に見える恐竜博物館、そして九頭竜川の流れも夕闇の中に飲まれていった。

 18:20着の永平寺口で、MC70002連の勝山行と交換して、暗くなった福井の地を走ってゆく。車内で私は、この日の夕食について考えていた。うまい飯屋は無いかとネットを見ていると、福井口のひとつ手前の越前開発駅の近くに、評判のいいラーメン屋があるという情報を見つけて、そこに行くことにした。「まくり屋」という店なのだが、濃厚な豚骨スープが高評価なのだという。

 

 越前開発には、もうほとんど真っ暗となった18:37に到着した。かつては福井からここまで複線であったが、北陸新幹線の工事の関係で今は単線化されている。複線時代に狭い敷地の中に設置されていた名残であるのか、11線ながら極めてホームが狭い。古い平屋建ての木造駅舎はよく手入れされていた。改札口では中年の女性駅員に切符の提示を求められたが、制服着用ではなかったため簡易委託なのだろう。簡易委託といえば駅前のたばこ屋と相場は決まっているが、地元の人が丁寧に管理する小さな駅というのは何とも言えず雰囲気が良い。

 駅舎を出ると、夏の蒸し暑い空気は何処へ行ったのか、涼しい風が吹き、草むらからは虫の声が聞こえる。駅前通りは車も少なく、静かであった。店までは500mほど歩くが、途中の交差点までは極めて静かな住宅街という感じであった。

 しかし、東環状線という大きな通りに出ると、急に行き交う車が増えた。その通り沿いにあるお目当ての店は、典型的なロードサイド店舗と言った感じで、直接車で乗り付ける家族連れなどが多いようであった。

 

 店に入り、とりあえず豚骨ラーメンを注文した。麺硬めで注文したため、5分ほどで出て来たラーメンは、スープが普通のものよりとろみがあり非常に濃かった。この手の濃厚な味が好きな私としてはかなりポイントが高い。焼き目のついたチャーシューも一般的なものより厚く、食べ応えがあった。

 

 食べ終えると、やはり店を出る他の客がそれぞれの車へ向かう中で、颯爽と歩道に出て大通りを闊歩する。この珍しい徒歩客は西へ向かって、北陸本線の線路を越えると住宅街の中へ突っ込んでいった。福井口駅を目指していたのである。道は間違っていないのだが、街灯が少なく、時々変な物音が聞こえて非常に気味が悪かった。ただ幸いなことに私は災害時の備えとして最低限のサバイバルグッズを常備しているので、懐中電灯を付けて前方の視界を確保することができた。地図を頼りに、えちぜん鉄道三国芦原線の線路をくぐり、徐々に福井口駅に接近。北陸本線の高架の横を歩いてゆき、仮駅舎となっている福井口駅についた。道中なかなかに不穏な感じだったので、住宅地を15分ほど歩いただけなのに、なぜかエベレストに登頂したかのような達成感で駅に入った。

 

 19:39に、勝山からの福井行1848K普通電車が到着し、同時に入ってきた三国港行と交換する。えちぜん鉄道で残る唯一の未乗区間であるここ福井口から、福井までを乗りつぶすため、この1848Kに乗った。車両はMC7000系であった。この時間帯の福井口は無人となるため、前のドアしか開かないようで、後ろの方で待っていた私は運転士さんに前に来るよう呼ばれた。車内には110人も乗っていなかった。夜の上り電車なので空いているのは当然ではあるが、ボックスを占領して、福井までの3分を楽しむ。電車は高架線に上がるが、これは北陸新幹線の高架を暫定的に借用しているものだ。横ではえちぜん鉄道本来の高架線の建設も進められている。

 途中の新福井からは複線となる。ここから乗ってくる乗客も数名いた。後日調べてみると、新幹線の高架線上に仮駅として作られている新福井では、なんと「高架区間の構内踏切」なるものがあるという。昼間に来て写真を撮っておきたかったと後悔した次第である。

 19:42に、列車は終点福井に到着した。これにて、えちぜん鉄道全線完乗となった。改札に降りてみると、地方の駅にありがちな有人改札が並んでいて、駅員さんに切符を見せて出場した。

 

 まだ20:00にもなっていないこの時間帯なら、福鉄軌道線を撮影するというのも一つの選択肢になるが、炎天下での2度の撮影で体力を使い果たしていたので、宿に戻ることにした。風呂に入ってから、この旅で何度目か数えるのすら忘れた蒙古タンメンを食べ、写真を整理しつつテレビを眺めるなどして過ごしていた。日付が変わった1:00ごろに寝たように思う。

 

7日目 88

 この日は朝5:00ごろに起きた。荷物をまとめてから下に降りて、朝食をとってからチェックアウトした。5:40に福井駅に入り、飲料を確保すると、ホームに上がった。するとちょうど、521系の2連が回送されてきた。その521系が、敦賀行224M普通電車となって6:06に福井を出るのである。

 車内は座席が7割ほど埋まる程度の乗車率となり、発車時刻となった。ゆらゆらとポイントを渡って、高架を降りるとスピードを上げた。越前花堂、大土呂、北鯖江と止まって行くが、出発が早かったためしばらく寝ていた。起きると今庄で、次の南今庄までの間で、最近「魔剤」と称されるモンスターエナジーを飲んだ。急激に眠気が覚めるわけではない(一瞬で眠気が覚めたら、それはもはや非合法薬物の範疇である)ので、しばらく車窓を眺めてぼんやりと過ごしていた。

 

 簡素なホームと待合室の南今庄を出ると、すぐに車窓は暗転する。総延長13,870mの北陸トンネルである。このトンネルは、北陸本線が嶺北と嶺南を越える木ノ芽峠、杉津駅ルートの旧線を付け替えたものである。旧線は1896年に開通した古い区間のため、急坂に狭いトンネルが連続し、旅客列車は速度も出なければ、貨物列車の重量も制限されていた。DF50型機関車の三重連でも、700tを引くのが限界だったという。これがSL時代ともなると最悪で、排煙による窒息の危険を伴いながら運転されていた。

 それが1962年に付け替えられ、複線電化で高速運転を行うようになったのである。1067mm軌間の鉄道トンネルとしては、開通当時世界最長を誇ったことも特筆されよう。

 一方で、北陸トンネルといえば、開通から10年後の1972年に発生した青森行下り夜行急行「きたぐに」の火災事故の話もよく知られる。食堂車からの出火により列車が炎上、トンネル内で停車してしまい、多数の死傷者を出した。当時の規則では、「火災発生時は直ちに停車」とされていたが、トンネルという閉鎖空間であるため、鎮火不能となった後は大量の一酸化炭素が発生する事態となったという。加えて、深夜の事故であったため、逃げ遅れもあったようである。このことの反省から、国鉄は規定を改正し、「トンネル内での列車火災の場合は、直ちに全速力でトンネルを脱出する」ことが定められたり、延焼防止のため車両の不燃化進めたりといったことが行われた。

 また、この事故では、列車防護のために設置される「軌道短絡器」、つまり軌道回路を短絡させて、対向線に赤信号を示す器具が、避難した乗客によって蹴飛ばされたことにより、上り線が青信号となり、偶然付近にいた上り急行「立山3号」がトンネルに進入、途中で「きたぐに」からの避難者を発見して225人を救助することに成功した、など、まさに不幸中の幸いと呼べるような奇跡的な出来事もあった。

 

 長い北陸トンネルの中で、「火事だ」と叩き起こされて暗闇の中を逃げ走った、当時の「きたぐに」の乗客、ススまみれの避難者を、床の高い475系に引っ張り上げて救助したであろう「立山3号」の乗員乗客たち、危険を伴う中で救援列車を運転した鉄道員や消防士、あらゆる関係者に思いをはせる。同時に、45年前の惨事への教訓が、今の鉄道の高い安全性の基礎となっていることを再確認する。

 10分ほどして、高速で飛ばしていた521系は敦賀方に出た。敦賀側坑口の横には、火災事故の慰霊碑もある。そして、新型車らしく、明かりが消えることもないままデッドセクションを渡って、終点の敦賀に到着した。7:06の定時であった。

 

 敦賀から乗り換えの電車は、やはり521系の2連、近江今津行4842M普通電車だ。今度の521系は、新快速乗り入れのための敦賀までの直流化に絡んで製造された1次車だ。2次車以降は手すりやつり革が大型化され、目立つように黄色くなっているが、この1次車は、そういった安全対策が取られるようになる前の車両だ。とはいえ、今後手すりなどは更新されることもあるだろうし、一種貴重なものであるかもしれない。

 この4842Mに乗り、朝の湖北路を走って行く。7:17に発車した電車は近江塩津から湖西線に入り、高規格路線をトップスピードを維持しながら爆走してゆく。近江今津から北の区間の駅は小さく、乗降客数もそこまで多いわけではないようだ。比較的閑散とした沿線を、2連の軽快な電車が駆け抜けて行くだけである。

 

 終点近江今津には、7:53定刻での到着。9分後に来た特急「サンダーバード4号」を撮影すると、乗り継ぐ電車を待つ。今度は、8:12発の京都行1815M普通電車だ。113系なども残存する湖西線は、どの車両が運用されているか今ひとつわかりにくいのだが、駅で待っていると「何系が来るかお楽しみ」といった気分にもさせてくれる。結果やってきたのは117系の6連だった。2ドア車であるため静粛性も高く、上品な内装や転換クロスシートは、現代のJR西日本の車両にも通じるものがある。

 この117系で近江今津を出ると、しばらくは田園風景が続くが、徐々に家が増え、堅田から南は本数も多くなる。もっともこの区間のほとんどは寝てしまっていたのだが。なかなかに快適な117系の罠である。

 

 京都に9:20に到着した。京都では、京大に進学した高校の1年上の先輩と食事をしたのであるが、私事であるため(この旅行自体も私事と言われればそれまでであるが)割愛させていただく。

 先輩と別れて京都を出たのは11:34であったが、今度はJR奈良線に乗って木津へ向かった。奈良行2611Mみやこ路快速、車両は221系の4連だ。まだリニューアルを受けていない編成だった。

 車内は、旅行客と地元客が半々ずつといった感じで、立ち客も多数。大きな荷物を抱えた旅行者の中には外国人も多く、英語や中国語も聞こえてきた。そんなグローバルな列車は、京都を定時で出ると、次の東福寺に止まってから、「快速」らしく飛ばし始める。JR藤森までは複線であるが、ここで両分岐を渡って単線区間に入る。カーブの中に分岐がある桃山では厳しい速度制限を受けて通過するが、次の停車駅の六地蔵は一線スルー。木幡も一線スルーで通過してゆく。宇治で乗客の入れ替わりが多く、またここから新田までの2区間も複線である。

 

 複線単線が入り乱れているこの奈良線、ご存知の方も中にはおられるだろうけれど、念のため説明させていただくと、現在複線化の途上にあるのである。現在の複線区間は京都-JR藤森、宇治-新田だけであるが、JR藤森-宇治、新田-城陽、山城多賀-玉水の区間も複線化が決定しており、本数の多い京都から城陽までの区間は完全複線化、それ以南の区間も将来的な完全複線化を目指して、駅改良などを行ってゆくという。JR奈良線は沿線開発や外国人観光客の増加とジャパンレールパスの人気増大により乗客数が右肩上がりとなっており、複線区間が伸びると増発を行う予定もあるという。

 また、複線化が終わった区間は順次95km/hから110km/hに最高速度も引き上げられるようで、これまで京奈間で優位であった近鉄に対して本格的に殴り込みをかけるのかもしれない。

 なお、この複線化事業は京都府も全面的に支援している。京都府は、知事が山陰本線園部-綾部間の複線化に対しても非常に前向きな発言をしている(「JRに負担を求めない」=我々が責任を持ってやる)など、鉄道交通の整備に協力的な姿勢を取っている。これには、南北に長く文化的に相違が大きい(昔は北から丹後、畿内、山城と大きく3地域に分かれていたことも関係するだろう)ゆえ、県内相互の交流が少なかったことから、それを改善すべく交通網を強化するという思惑があるのではないかと私は考えているが、純粋に鉄道愛好者としての視点で見ても非常にありがたいことである。

 

 城陽を出ると、駅間には農地が広がるようになる。この辺りはちょうど農村イメージのあるのどかな区間である。このあたりから、2キロほど離れた木津川の対岸にJR学研都市線も並走してくる。学研都市線もまた、複線区間の延伸などの改良が期待されている線区である。

 一線スルーの玉水を発車すると、短いトンネルをくぐるが、これは関西ではメジャーに見られる天井川の下をくぐっているものである。グーグルマップなどで玉水駅南側の航空写真をご覧いただくと、ちょうど線路が川の下をくぐる面白い光景がご覧頂けるだろう。

 玉水の次の棚倉は、複線区間延伸に絡んで一線スルー化が決定している。そして、やはり一線スルーの上狛を通過すると、ついに木津川を渡って木津に到着する。私はここで降りた。学研都市線、関西本線、奈良線が集まる拠点の駅である。広い構内に、時々221系や103系、207系などが出入りしていた。

 

 先ほどからこの辺りの地理や路線概況について詳しく語っていたゆえ、ひょっとすると一部の読者の方には感づかれてしまっているかもしれないが、何を隠そう私はここ京都南部、山城地域の出身である。木津駅からは少し離れた京田辺市の生まれであるが、この辺りの地理は基本的にマスターしているつもりである。木津で下車したのも、この時入院中であった祖父のもとを訪れるためであった。この後祖母と合流して、タクシーで病院へ向かったのだが、この辺りのことはやはりかなりプライベートな部類のことであるため、詳しいことは伏せさせていただく。

 

 祖父の見舞いを終えて、木津に戻ってきたところから再開しよう。この日は四日市に宿を取っているため、関西本線を利用して三重に抜ける。まずは、17:05発の加茂行3420K大和路快速に乗る。221系の更新車で、特徴的な大窓を残しつつも、立ちスペースが確保されたり、車内の安全対策のため手すりなどが目立つ色に着色されていたりする。内装更新と安全性向上がメインの更新のため、制御装置などは従来と変化ないようである。

 加茂までの区間は単線で、山の中を抜けて行く。途中でトンネルもあるが、急に開けたところに出たら17:10着の加茂駅である。比較的まとまった街の中にあるようだ。

 

 加茂駅で電化区間は終了。ここから先はキハ120型が23両の編成で1時間おきに走るローカル区間となっている。反対側のホームにキハ1202連の亀山行248D普通列車が待機していた。大和路快速からの乗り換えを受けて、17:12に気動車が動き出す。車内は大和路快速からの乗り継ぎ客や地元の学生で混雑しており、私は編成の最後尾で夕日を眺めてぼんやりと過ごしていた。

 かつては特急や急行も行き交った区間ゆえ、途中駅は交換設備の有効長が長く取られていたり、駅舎が立派であったりと、当時の面影を色濃く残している。また、地元ではこの区間の複線電化と高速化の上で大阪や名古屋へ直通運転を行って欲しいとの要望も出ているようである。仮にこれを実現させた場合、特別料金のいらない快速とすれば、近鉄特急とも勝負できるのではないだろうか。新幹線とは客層が分かれるようにも思われるので、やってみるだけの価値はあるのかもしれない。

 

 17:50、忍者の里の伊賀上野に到着。伊賀鉄道線と接続している関係もあってか、乗客の入れ替わりも多かった。ここでちょうど空いたボックスに座り、軽食をつまむなどしてここから先の区間を楽しむ。草津線と接続する柘植までは山中の区間が多く、柘植から先は「加太越え」の急坂を下って行く。かつて重量級のSLが苦戦した坂道を、今は軽快なキハが軽々と上り下りしている。この区間を過ぎると周辺が開けてきて、18:32に亀山についた。

 

 ここからがJR東海の区間となる亀山駅は、拠点であり車庫を備えている関係で非常に広い。しかしそれに対して出入りする列車は、小回りのきく短編成が多く、ミスマッチを感じないでもない。

 この「国鉄」を色濃く残す亀山駅の駅前に出てみると、よろず屋が一軒開いており、ここで食料を調達した。その後駅に戻ると、313系が1番線に待機していた。日も落ちた19:13発の名古屋行1326M普通電車に25分乗って、目的地の四日市へ向かう。車窓はすでに暗く、疲れもあって寝てしまった。

 

 19:38着の四日市で下車、ここから宿に向かうのであるが、JRの駅は本来工業地帯への貨物列車のアクセスを考慮して作られているため、街の中心部から1kmほど離れてしまっている。今夜の宿も、中心部に近い近鉄四日市駅の近くにとっているため、重量級の機材を担いでの徒歩移動を強いられた。

 歩いていくと、JR駅周辺は暗かったのが、近鉄の駅が近づくにつれて街が明るくなり、人や車が増えていった。近鉄の駅をくぐり、目的地の「三交イン四日市駅前」に到着した。

 

 この宿は地元のバス会社である三重交通(過去に鉄道事業も行っていたようだ…!)の系列のビジネスホテルで、部屋に行ってみるとシングルルームのはずが妙に広いではないか。それでいて相場通りの値段なのだから、これは大当たりである。食事をすませて風呂に入ると、早速大きなベッドに寝転がって、窓のカーテンを開けてみた。と、目の前には近鉄四日市駅に入る線路が見えた。図らずもトレインビューである。室内もきれいで洒落ているし、こんな快適な部屋に泊まれるのなら彼女との旅行で使いたかった(お前に彼女がいるのか、という指摘からは全力で現実逃避させていただこう)。

 特にすることもないので、Twitterを開いてくだらないリプライのやり取りなどしていたら、23:00頃に寝てしまっていたようであった。

 

8日目 89

 朝8:30頃に起きて、食事をとってから、近鉄四日市駅に向かった。JR駅まで暑い中歩く気力はないのである。近鉄名古屋線は急行や準急などが頻発する区間であるが、眠気が残っていたので、ラッシュも終わった時間のこと、少し時間のかかる普通電車を選んで、空いている中で寝ようと企んだ。9:29発の近鉄名古屋行862M普通電車に乗り、ロングシートの車端の座席に座ると、そのまま意識が飛んだ。

 

 気がついたのは、すでに名古屋も近い近鉄八田駅。JR関西本線と並走する高架線の区間である。JRと抜きつ抜かれつを繰り返し、米野で地上に降りると、10:33に近鉄名古屋に滑り込んだ。

 名古屋で、まず乗ってきた電車の形式を確認してみる。近鉄電車といえば形式の複雑さで有名であるが、私が乗ったのは1010系という車両の、それも「1111」号車であったのが面白かった。見た目は、近鉄の一昔前の通勤車に多い「パンダフェイス」で、名古屋の他の線路にもこの顔のものが止まっていたが、車番で検索をかけると、それぞれ形式が細かく違っていることが判明し、何が起きているのかすらわからなくなる。「1214系」などと出てきたあたりで、私の脳はフリーズし、考えることをやめた。

 

 現場の社員でさえ覚えきれないであろう近鉄の複雑怪奇な形式群を見て機能低下に陥った脳味噌を叱咤激励しつつ、JRのホームに向かう。こちらの普電は211系と213系、311系、313系の4形式しかないので、なんと覚えやすいことか。オタク目線であれ、現場で運用する担当者の立場であれ、やはり形式数は極力少なくある方が良いのではないだろうか。

 

 名古屋を出ると、東海道線の長時間乗り継ぎとなるため、必要な食料と飲料を調達する。だが、浜松から先で便所のない211系編成に出くわした際のリスクを考えると、食べ過ぎ飲み過ぎには要注意となる。ここが東海道線を青春18きっぷで乗り継いで行く時のテクニックとなるのである。

 

 11:02発、豊橋行2516F快速は3135000番台8連による運用で、転換クロスの窓側に座ると、写真整理などをしながら軽食をつまむ。車窓はずっと市街地が続くが、名古屋から離れてゆくにつれて、徐々に駅間の建物が低層になってゆく。豊橋が近づくと、今度は逆に高いビルも目立つようになり、11:57に終点豊橋に到着した。

 豊橋からの乗り継ぎは311系の運用。両数がこれまでの半分の4連になるため、乗り換え客で非常に混雑していた。掛川行944M普通電車は、12:03に豊橋を出ると、昼の暑い中を飛ばして行く。駅間が長いようであった。私は35分乗って、浜松で下車。ここから始発の静岡行788M普電に乗って先を目指す。いよいよ211系が現れたが、313系との連結6連のため、12:50の浜松発車から14:00の静岡着までは便所の心配は不要となる。乗り込むと、持っていた弁当を食べる。どうも疲れがたまっていて、ここからの区間も寝てしまう。終点静岡で、周囲の乗客が降りる慌ただしさの中で目をさます有様であった。寝過ごさなかっただけ、マシだと言われればそうであるのだが。

 しかも、同じことは続くもので、次に乗った14:13発の熱海行1456M普電でも、見事に終点で目覚めるという芸をやってのけた。別にこのあたり、書くのが面倒で端折っているとか、そういったことではない。本当に「意識が飛んでいた」のである。

 

 熱海について、E231系が入ってきたところで、意識は現実に引き戻される。この時点で非日常は終了である。15:47発の東海道線、上野東京ライン経由の1894E普通高崎行には、旅の帰りと思われる人も多く乗っていた。私は最後尾の車両のボックスに座ると、残ったおつまみなどを食べて発車を待った。

 すぐに列車は出発し、夕方の東海道線を東京に向けて走って行く。真鶴から根府川にかけての海を眺めて、小田原に着くと少し乗車客があった。その後酒匂川、相模川を渡ると、いよいよ「現実」「日常」の世界へと引き戻されてゆく。藤沢や大船あたりではすでに列車は混雑しており、「東京」を強く感じるようになる。そして17:08、ついに列車は横浜駅に到着した。

 1週間ぶりに戻ってきた横浜、ここから京浜東北線に乗り換え、3つ先の鶴見に戻ってきた。貨物列車が入れ替えを行い、また当時ホームドア設置のために調査が行われていた、どこか埃っぽい工業地帯への入口の駅に、ついに帰ってきた。こうして、私の北陸見聞の旅は全ての行程を終えたのである。

 

総括

 北陸を旅して感じたのは、総合的に述べると「鉄道利用を促進するための、鉄道事業者、関係団体の根強い努力」であろう。新駅設置や本数増で利便性を高め、マイカー利用者を取り込むといった積極策で攻勢に出る事業者があれば、軌道交通の改良、LRT化を率先して行う自治体も存在するなど、北陸の鉄道は実に活発に動いていた。

 一方で、国からの在来線鉄道に対する支援の少なさ、時代錯誤的な法令の放置、未改善などによる悪影響も指摘しなくてはならないと感じ他のもまた事実である。例えば軌道法などは、「軌道交通は道路交通の補助を行うもの」というスタンスで制定されているため、あくまで道路の主役は自動車その他であり、路面電車は「邪魔になるな」というふうに制約を受ける立場に甘んじている。しかし、時代が変化するにつれて都市構造は変わり、高齢化が進む中では自動車中心社会は限界を迎える。自動車を運転できない高齢者の割合が高まる中で、公共交通機関はかつてないほどの重大な使命を帯びることになる。「運転できない人が生活するために、絶対に不可欠な存在」となってゆくのである。その現状に合わせて、いかに公共交通機関を発展させることができるか、ということが問われている。

 だが、そう言った状況を国や政治の場がどれだけ理解しているかは疑問符がつく。依然として高速道路や新幹線の整備には多額の資金が国庫から拠出されているが、本当にそれが適切であるのか、在来線鉄道を始めとするローカル公共交通への投資は十分と言えるのか、疑問点をあげればキリがない。

 私も、そんな現状を憂えている者の1人である。しかし、黙っていたところで何かが起きるわけではない。そこで私は、この旅行記を書くことで、読者の皆さまに昨今の交通問題について関心を持っていただきたいと考えている。1人でも多くの方が公共交通機関に関する諸問題に興味を持っていただき、今後の社会全体を巻き込んだ議論がより活発なものとなり、現状の改善に結びつくよう願って、締めくくりとしたい。

 

参考文献・資料

1.マイナビニュース 旅と乗りもの 連載鉄道トリビア131 20161225日閲覧)

  http://news.mynavi.jp/series/trivia/131/

2.トンネルと地下水その2(中央本線塩嶺トンネル)日本地下水学会 (20161225日閲覧)

  http://www.jagh.jp/content/shimin/images/column/column010.pdf

3.関西電力 宇奈月発電所見学コーナー 電気の宝庫「黒部川」 (20161228日閲覧)

  http://www.kepco.co.jp/corporate/profile/community/hokuriku/unazuki/houko.html

4.水力ドットコム 新柳河原発電所 (20161230日閲覧)

  http://www.suiryoku.com/gallery/toyama/yanagawa/yanagawa.html

5及び6.黒部峡谷鉄道 沿線案内 エリア案内 黒薙 (20161230日閲覧)

  http://www.kurotetu.co.jp/ensen/kuronagi/

7.国土交通省 北陸地方整備局 立山砂防事務所 常願寺川の災害と事務所の沿革

 (201713日閲覧)

  http://www.hrr.mlit.go.jp/tateyama/jigyo/index.html

8及び9.一般社団法人北陸地域づくり協会 北陸の視座vol.21 地域コミュニティと公共交通

     データクリップ 「次世代型の公共交通サービス導入によるまちづくり ―富山ライトレール      

     (LRT)の整備効果を検証する―」 (201714日閲覧)

  http://www2.hokurikutei.or.jp/lib/shiza/shiza08/vol21/topic2/data/

10Response 「富山地鉄市内電車、314日から北陸新幹線高架下に乗入れ」

  https://response.jp/article/2015/02/03/243315.html 201716日閲覧)

11.軌道法(大正十年四月十四日法律第七十六号) 軌道運転規則第46

  http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S29/S29F03901000022.html 201716日閲覧)

12.高岡市ホームページ 路面電車「万葉線」 (2017110日閲覧)

  https://www.city.takaoka.toyama.jp/kotsu/kurashi/kotsu/kokyo/manyosen/index.html

13.土木学会第60回年次学術講演会(平成179) p.327

   2004  7 月福井水害における越美北線橋梁被害の調査結果」(石野 和男,楳田 真也,玉井 信行)

  (2017129日閲覧)

  http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00035/2005/60-4/60-4-0164.pdf

14.福井市 「福井鉄道LRT整備計画」 p.4 2017131日閲覧)

  http://www.city.fukui.lg.jp/kurasi/koutu/public/echitetsurennkei11_d/fil/9.pdf

15及び16.福井市 「えちぜん鉄道LRT整備計画」 p.2 2017131日参照)

  http://www.city.fukui.lg.jp/kurasi/koutu/public/echitetsurennkei11_d/fil/8.pdf

 

鉄道再生の悲願を果たしたえちぜん鉄道。すべての鉄軌道そしてあらゆる交通機関が、今後大きく発展することを願う。

(えちぜん鉄道三国芦原線中角-鷲塚針原間 2016.08.07.

 

お読みいただきありがとうございました!

写真はすべて筆者が撮影した。


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