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国鉄民営化・JR 発足の政治的・社会事情に関する考察

平成27年度入学 法学部第1類 金トヤ

 

1. はじめに

  JR発足は、日本経済を牽引してきた強固な交通基盤の中核を成す鉄道体系が、その経営主体を公共セクターから民間セクターへと移行させるという、昭和期における恐らく最大の行政改革事業であった。国鉄を分割・民営化し、JRが発足するという一連の経過には、いかなる政治的、或いはそれと密接に関係する思想的背景が横たわっており、そしどのような状況が現実に生み出されたのか。これらの点につき、歴史的叙述に十分配慮しつつ、検討したい。その限りでは、本稿は新奇な説明を慎む方針である。故に通説的に述べられている見解をいわば復唱するように論を展開しているに過ぎず、面白みがないと感ぜられるかもしれないが、それは寧ろ筆者の積極的意図である。

 

2. ポイント

  本稿は概して以下のような事柄を趣旨として念頭に置きながら議論される。

1)国鉄民営化を担った政権の政策傾向の特徴と、世界的潮流との関連

2)かかる政権が成立した(と思われる)国内的・国際的素地としての(広義の)東西対立終焉

3)(2)より更に進めて、国内政治経済状況と密接に関連するところの旧国鉄の経営状態とそれによる改革の急迫性

4)我が国における社会保障及び租税の枠組みの有り様と、財政状況、公社整理との関連

5)民営化による労働組合への新たな処遇

 

3. 教科書的な説明

  JRの発足は、我が国の鉄道史に残る大イベントであったから、歴史の教科書にも必ず触れられている。まずは国鉄民営化とJRの発足について、基本的な解説につき読者と共有すべく、高等学校の日本史教科書・参考書の一節を掲載しておく。本稿で述べることの大枠はこの引用にある。であるから以降本稿は、ここに示された叙述を基礎としながら、更に深く掘り下げる形で筆を進める。

1)行政改革の時代とJR発足

    まず、JR発足はいかなる時代の流れに位置づけられるかについて確認したい。JR発足は、1987(昭和62)年41日。中曾根康弘内閣の末期に当たる。JR発足の記述は、『詳説日本史 改訂版』及び『詳説日本史研究 改訂版』においては「第13章 激動する世界と日本」の「高度成長の終焉と保守政権の動揺」にある。『もういちど読む山川戦後日本史』においては、「第4章 経済大国への道」中の「4 バブル経済と市民生活」の「臨調・行革路線」にある。それでは、順に本文各記述を確認する。まず、『詳説日本史改訂版』には以下のように述べられている。

 

     …福田首相が自ら自民党総裁選挙に敗れて大平正芳内閣に交代した。大平内閣は国会での「保革伯仲」と与党の内紛が続くなかで、第2次石油危機に対処し、財政再建をめざした。1980(昭和55)年、選挙運動のさなかに大平首相が急死したが、直後の衆参同日選挙で自民党は安定多数を回復し、鈴木善幸内閣が成立した。

     低成長経済が定着するなか、国民のあいだでは現状維持と個人の生活安定をのぞむ保守的な気分が強まっていた。保守政権が復調する一方、革新自治体は、放漫財政に加えて社共両党の離反もあってつぎつぎに姿を消した。とくに1978(昭和53)年から翌年にかけては、京都・東京・大阪の知事選で革新系候補があいついで敗北した。

     1982(昭和57)年に登場した中曾根康弘内閣は、日米韓関係の緊密化と防衛費の大幅な増額をはかる一方、新自由(新保守)主義の世界的風潮のなかで、「戦後政治の総決算」をとなえて行財政改革を推進し、老人医療や年金などの社会保障を後退させ、電電公社(現, NTT)・専売公社(現, JT)・国鉄(現, JR)の民営化を断行した。1986(昭和61)年の総選挙で自民党は大勝したが、中曾根内閣は財政再建のための大型間接税の導入を果たせず、翌年には退陣した。大型間接税は続く竹下登内閣のもとで消費税として実現し、1989(平成元)年度から実施された。                 

(石井ほか, 2014, pp. 378-379

 

国鉄民営化事業が主に中曾根内閣によって推進されてきたことが窺える。そしてその思想的背景として、「新自由(新保守)主義の世界的風潮」が端的に述べられている。文脈としては、一旦大平政権期頃に「保革伯仲」と呼ばれる時期が続くが、以後も続く低成長経済の中で、保革のイデオロギー対立が次第に薄れ、それが革新自治体の急減という事実にも表れているということが示されている。そうした国内外における保守主義の復調に伴って中曾根内閣という長期政権が実現し、故に所謂三公社五現業に含まれる諸事業の民営化という事業が可能となったと言えよう。次に、『詳説日本史 改訂版』の参考書である『詳説日本史研究 改訂版』は、中曾根内閣が実施した行政改革が、臨調路線に基づくものであることを付加し、脚注で以下のように述べている。

 

     1970年代後半には、不況対策のために赤字国債が大量に発行され、国債費は大きな財政負担となっていた。1981(昭和56)年、政府は財界人を中心に第2次臨時行政調査会(臨調)を発足させ、支出抑制や公共部門縮小による「増税なき財政再建」の方向を打ち出し、同年度から予算を切り詰めた超緊縮財政が実施された。                    (佐藤ほか, 2008, p. 510

 

よく知られた歴史的事実として、日本の高度経済成長は1973年の第1次石油危機を以て終焉を迎える。次いで第2次石油危機を迎え、以後は、年率にして概ね35%で経済成長が推移する安定成長時代が訪れる。ここで述べられている「不況」とはすなわち第1次石油危機以後の(相対的な)低成長を指す。その上で、それに対する拡張的な財政政策が財政赤字の増大を生んだことが示されている。日本における新自由主義的政策傾向は鈴木内閣下に発足した臨調によって既に進められていたことが分かる。したがって、鈴木内閣と中曾根内閣を中心に政治動向を観察することが、この事柄について検討する上で有用であろう。

    ただ、これらの教科書類では、国鉄民営化に関する直接的な記述はこの程度の限定的な情報しか得られなかった。これに対し、『もういちど読む山川戦後日本史』は、国鉄民営化に関しもう少し分量を割いている。

 

     1982(昭和57)年11月には、「戦後政治の総決算」をかかげる中曾根康弘が組閣した。中曾根内閣は、日米関係の緊密化と防衛費の大幅な増加をはかる一方、行財政改革を進めた。中曾根首相は、土光臨調が任期を終えると、1983(昭和58)年に引きつづき土光敏夫を会長とする臨時行政改革推進審議会(行革審)を設置し、行財政改革を推進した。行革審は、臨調後の情勢変化として、国際収支不均衡の大幅な進行、技術革新の急速な進展、経済のサービス化・ソフト化の3点をとりあげ、そのすべてについて市場原理の復活による経済の活性化、民間活力の育成、そのための規制緩和の必要性を強調した。1985(昭和60)年7月には行革審規制緩和部会は「規制緩和への推進方策」によって民活・規制緩和論を説いた。「規制緩和への推進方策」によれば、「経済活動に対して加えられているさまざまな公的規制の中には、結果的に、技術革新の導入を阻害したり、生産性の低い企業や産業を温存したり、経済活動の効率の不当な低下をもたらしている場合が少なくない」というのであった。

     これと同時に自由民主党は「民間活力導入方策についての第2次報告」を提出し、東京湾横断道路[1]、明石海峡大橋、首都圏連絡中央道路[2]の建設促進の3大プロジェクトをかかげ、これを民間活力の導入によって実現し、経済の活性化を達成するとしていた。専売公社、電電公社、国鉄の3公社の民営化も、この論理によって断行された。…国鉄は1987(昭和62)年に分割民営化され、北海道、東日本、東北、西日本、四国、九州の旅客鉄道会社と貨物鉄道会社、その他のJRグループに再編された。

(老川, 2016, pp. 160-161

 

中曾根内閣は、鈴木内閣において行財政改革について積極的に議論・提案してきた臨調を継続させ、新自由主義に基づく経済政策を断行したことが分かる。中曾根内閣がこれほどまでに公社民営化、規制緩和を推進することができたのには、田中角栄の後押しもあったと言われることをも考慮すると、やはり自民党内で彼がリーダー的地位を確立し、長期政権への布石を早期に敷くことができたからかもしれない。

 

2)国際情勢と我が国の世論・政策傾向

    しかしながら、先述の通り新自由主義は世界的な潮流であったはずだ。我が国における財政赤字だけでは我が国における新自由主義政策の背景を語ったことにはできても新自由主義という思想体系が世界的に興隆した背景までは語ることができない。そこで、世界史的な観点から新自由主義の興隆につき説明を加えることが求められるのであるが、この点については、『詳説世界史研究 改訂版』に詳しい。以下、当時(1970年代後半〜1980年代)の世界的潮流を総論的に述べた上で、我が国を含む諸先進国の動向につき世界史的観点からいかなる説明がなされるかにつき議論を進めたい。この観点は、世界の政治的・経済的情勢が我が国の世論・全社会的思潮、そして国鉄民営化を勿論のこと含む政策傾向と相互に関連し合っているということを確認する上で肝要である。

[1]総論

    総論的説明として、以下のような記述がある。

 

     …2次にわたる石油危機で産業構造の転換を迫られた欧米諸国は不況と失業に苦しみ、財政赤字は拡大した。第二次世界大戦後の資本主義国家は、国家による経済の管理をつうじて景気の安定と経済成長をはかり、完全雇用と所得の再配分を達成しようとしてきた。それは社会福祉国家への道であり、当然「大きな政府」が必要とされた。ところが、財政負担の増大は福祉国家の維持を困難にし、また高福祉は労働意欲低下の一因であるとの批判もなされるようになった。そこで、市場機構の役割を高く評価して自由競争による資本主義の効率性を重視し、「小さな政府」を唱える保守政権が欧米諸国や日本で70年代末から80年代にかけて相ついで登場した。これらの政権は経済社会政策ばかりでなく、外交政策においても、これまでの緊張緩和政策から対ソ強硬路線に転じた。

(木村ほか, 2008, p. 546

 

2次世界大戦からの復興という側面を多分に含んでいた、西ドイツ・日本において特に顕著に見られるところの急速な経済成長が2度の石油危機で終焉を迎えたことを契機に、産業構造の変化と相まったものとして「小さな政府」を唱える保守政権、すなわち新自由主義政権が登場したことが語られている。

 

[2]米国

    西側先進諸国の盟主たる米国は、どのような状況であったか。以下のように説明されている。

 

     1981年にアメリカ大統領に就任した共和党のレーガン Reagan19112004, 198189)は、ベトナム戦争の後遺症に悩むアメリカ国民に「強いアメリカ」を訴え、世界の指導力を回復しようとした。…経済政策では、企業減税による投資促進、規制緩和、社会福祉予算削減による政府歳出の抑制をおこない、民間経済の活力の回復と財政赤字の解消をはかった。…

(木村ほか, 2008, pp. 546-547

 

米国では歴史を俯瞰しても、鉄道に関して言えば日本やヨーロッパほどの整備の進展、存在感の増大は見られず、モータリゼーションに支えられた自動車交通体系が同国の経済を牽引してきたことは、よく知られた事実であろう。従って、我が国のように巨大な組織を持つ国有企業としての鉄道会社が民営化されたことが新自由主義的政策の象徴、と言うことはできないまでも、基本的な政策の方向性、つまり公共セクターの活動を抑制しつつ民間投資の活発化により経済成長を保持増進するという方向性においては、他の諸国と共通していると思われる。そして、レーガンは中曾根、後に挙げるサッチャーと併せて世界的な新自由主義の思潮を代表する人物と評価される。[3]

 

[3]英国

英国は、戦後手厚い社会保障制度による福祉国家を実現したが、経済成長が日本や西ドイツほど芳しくなく、「イギリス病」と呼ばれる不景気を経験した。70年代から80年代について以下のようにまとめられている。

 

     イギリスでは、1974年から労働党政権が続いていたが、10%を越えるインフレ、経済成長の低迷、実質賃金低下に対する公共部門の労働者のストライキに悩まされた。79年に登場した保守党のサッチャー政権 Thatcher1925〜 , 197990[4]は、国有企業の民営化、社会政策費の削減、所得税減税をおこなって経済の活性化をはかった。…

(木村ほか, 2008, p. 547

 

マーガレット・サッチャーは、新自由主義を信奉する政治家で、公共セクターの大幅な縮小に加え、アルゼンチンとのフォークランド紛争に臨むなどの対外的な強硬政策で「鉄の女」と呼ばれたことは有名である。かかるサッチャー政権の姿勢は、やはり対内的、対外的両面で米国のレーガン政権や日本の中曾根政権に共通したものが見受けられる。

 

[4]フランス

    フランスについては以下のように叙述される。

 

     フランスでは、…81年、社会党出身者として初めてミッテラン Mitterrand191696, 198195)が大統領に就任した。社会党と共産党の連立内閣は大企業の国有化・地方分権化をおこなったが、財政政策の対立から84年連立は解消した。1986年の国民議会選挙ではド=ゴール派(共和国連合)などの保守勢力が過半数を占めたため、保革共存政権(コアビタシオン)が成立し、社共連立政権下で国有化された企業の民営化が始められた。

(木村ほか, 2008, p. 547

 

フランスでも他国と同様の時期に国営企業の民営化が図られたことが読み取られる。

 

[5]西ドイツ

    当時は、まだ東西ドイツという2国家の時代である。ドイツについては、新自由主義に関しては以下の説明に留められている。

 

       西ドイツでは、…キリスト教民主同盟のコール首相 Kohl1930〜 , 198298)は社会福祉政策を縮小して保守回帰したが、東側諸国との融和外交は継続し、このことが9010月のドイツ再統一に好適な国際環境をつくりあげた。…

(木村ほか, 2008, p. 547

 

西ドイツは、東西ドイツの統一という最終目標の達成に関し当時から既に一定度見据えて手を打っていたようである。あくまで一般論に過ぎないものの、新自由主義の政策傾向として、対外的な強硬姿勢が挙げられる。しかし当時の西ドイツは、第三帝国時代の所為に対する贖罪として東欧諸国に対して一貫して融和外交を展開しており、他の西側先進諸国とは一線を画した針路をとっていたと評価できる。故に、西ドイツにおいては新自由主義的リーダーであるとか、新自由主義的政策であるとかいったものの典型は少なくとも一義的には登場しなかったと言える。[5]

 

[6]日本

日本に関する記述は、概ね日本史におけるそれと違わない。しかしながら、『詳説日本史 改訂版』にも『詳説日本史研究 改訂版』にも見られないが重要と思われる言葉が見当たった。

 

     …(日本は、)70年代後半からは安定成長への移行をかけ声に労使協調路線が定着し、国民の間に浸透した中流意識などから保守的傾向が強まった。82年に成立した中曽根康弘内閣(任198287)は、世界的な「新自由主義的」資本主義への転換傾向と同調して、財政再建と電電公社の民営化や国鉄の分割民営化などの行政改革をおこなった。…

(木村ほか, 2008, p. 548

 

労使協調路線という語が注目に値する。高度成長期は、労使対立と形容できる諸状況、より広くは、国内における東西イデオロギー対立と形容できる諸状況があったことは周知の事実である。[6]しかしながら、高度成長の終焉と共に、国民レベルでの労使対立、或いは東西対立も収束を迎えつつあったということは、見逃してはならないと考える。この点については、後述する国鉄労働組合の処遇に関連して極めて重要な意味をもつ。

 

4. 国鉄民営化に携わった内閣を辿る

1)総論

   国鉄民営化は、先より述べているように、我が国の経済・財政状況の文脈の中で理解することと有意義である。筆者は、高度経済成長が終焉し、財政赤字が膨らむ一方であることが危惧されるようになり、新たな財政体系、就中租税体系が本格的に政治の争点となってきた頃から内閣史を俯瞰すべきであると考えた。そこで、所謂大型間接税の導入を公約とした大平正芳内閣から取り上げることとする。

 

2)大平正芳内閣(1978-1980

   大蔵官僚出身の大平正芳は、国家財政について冷静な視点を有していた。先述のような財政赤字を乗り切るべく、税収の安定を最優先に図る決意をし、大型間接税の導入を明言した。大型間接税とは、一般消費税を意味し、これまでの国民に対する賦課としての累進性のある所得税など直接税によるものに加え、逆進性を有する賦課を決定したのである。しかしながら、既に財政赤字は周知の事実であり、早期に間接税を導入し社会保障給付としての還元を実現している他の先進国とは異なり導入には世論の厳しい反対があった。自民党内でも否定的な声が目立ち、更にこのことが争点となった79年の衆院選で自民党が大敗したこともあって、かかる間接税の導入は頓挫した。こうした事情から、増税による財政再建は国民の支持を得られないという理解が与党政治家の間で普及し、後述するような「増税なき財政再建」が主流となる。そしてこの流れが、「小さな政府」を志向する政治潮流を生み、国鉄改革へとつながったと理解しておけばよいと思われる。

 

3)鈴木善幸内閣(1980-1982

    [1]概説

    鈴木善幸内閣は、首相の急死により総辞職した大平正芳内閣の後継として成立した。大型間接税の導入を掲げて大敗した大平内閣の反省から、「増税なき財政再建」を掲げることとなる。鈴木は、回顧録で以下のように述べたとされる。

 

     私は最も困難な行財政改革を鈴木内閣の最重要課題とし、内閣の命運を賭けた。二度にわたる石油ショックは以来深刻な経済危機を乗り切るため歴代内閣が取ってきた積極的な財政金融政策のための赤字公債(借金)は年々増えて、累積額は70兆円に及び、財政はまさに破綻寸前の状態だった。大平内閣はこの財政危機を克服する対策の一つとして大型間接税の創設を選挙の公約として掲げて戦ったが、国民の反応は「ノー」であった。

     鈴木内閣は困難を覚悟のうえで「増税なき財政再建」を打ち出し、思い切った行財政改革の断行を決意した。「増税なき財政再建」は言うは易くして行うは難い。国民は等しく痛みを分かち合うことを覚悟しなければならないからだ。しかし、国家の将来のためを思うと避けて通れない課題だった。…

     …行財政改革のように国民が痛みを感じ犠牲を伴うことを推進するためには行財政改革がいかに必要なのか、避けて通れないということをまずもって徹底的に国民に理解、認識してもらう必要がある。

     そこで土光さんが会長になられて神に祈るような真摯な陣頭指揮に当たられた。その結果「行革は天の声である」と世論もマスコミも挙げてこれは絶対にやるべしとの空気になり、行革に反対するような意見はほとんど出てこなかった。反対すれば世論の袋だたきに遭うというぐらいにまで行革の機運は高揚したのである。もちろん様々な抵抗はあった。例えば、役人の給料を凍結したわけだから。ただ、ストライキをやったり表立った抵抗ができないという世の中全体の雰囲気を政治の力で作り上げた。それが政治ですよ。

     そして、敷かれたレールの上を国鉄改革が走り、電電公社の改革が走り、専売公社の改革も行われた。レールが出来たわけだから、その上を次から次へと成案を得次第、具体的な問題を政府の政策として実行に移してゆくことが出来た。 

(東根, 2004, pp. 89-91

 

一般消費税の導入に苦心し、結局それを実現できなかった大平内閣とは対照的に、「小さな政府」志向の行政改革については既定路線と言えるほどの空気だったということか。反対意見に殆ど遭うことなく、実行することができたようである。これにはいくつか理由が考えられる。一つには、前任の大平正芳の選挙運動期間中の急死で弔い合戦となり挙党体制を組んだ自民党が、当該選挙にも大勝し、後継の鈴木内閣が政権を運営し易かったという説明ができよう。他には、増税が伴わないという点で世論に安心感が生じたことなどが考えられる。

 

[2]臨時行政調査会

       前述のように行財政改革を任された臨時行政調査会は、土光敏夫を筆頭として発足した。臨調が示した行革方針のうち、特に国鉄民営化に関するものにつき以下に引用し、検討を加えることとする。

   (i)第1次答申

     答申では、所謂公社を「特殊法人」と呼び、国鉄もその一つとして挙げられている。以下、国鉄に関する記述を引用する。

 

(イ)日本国有鉄道については、当面、経営改善計画の早期かつ着実な実施を図ることとし、このため、毎年度、経営改善計画の実施状況を明らかにするとともに、次の措置を講ずる。

[1]国鉄のおかれた現状に労使とも厳しい認識を持つとともに、経営姿勢の是正及び労使慣行の改善を図る。

 なお、その一環として、職員研修の充実、無料乗車証制度等の見直しを行う。

[2]新規採用の徹底した抑制を図るとともに、業務運営全般の合理化による生産性の向上、特に貨物部門の徹底した業務縮小等の減量化等を行う。

[3]未利用地等遊休資産の処分等増収努力を徹底する。

[4]特定地方交通線対策を速やかに実施に移すとともに、特定地方交通線以外の地方交通線についても必要に応じ民営化等を図る。

(臨時行政調査会事務局, 1981, pp. 30-31

    

として、労使間の在り方の是正や人件費抑制、土地資産の積極的活用、地方交通線の整理による経営基盤の強化が挙げられている。ここでは、地方交通線の民営化こそ語られてはいるものの、会社自体の民営化までは語られておらず、あくまで日本国有鉄道としての経営改善が図られていることが分かる。

 

    (ii)第3次答申

     第3次答申では1章分を割いて公社の処遇についてまとめられており、国鉄に関しても、より具体的な方針が提示されている。まずは三公社全体に関する評価から俯瞰する。

    

1)公社制度改革の必要性

ア 三公社は設立以降今日まで、国鉄は全国的な客貨の輸送確保に、電電公社は電話の積滞解消と全国自動即時通話化に、専売公社は財政収入の確保に、技術水準の向上を含め、それぞれ少なからぬ貢献をしてきた。

        しかし現状をみると、破産状態の国鉄はもちろん、他の2公社についても、企業性が発揮されているとはいえず、その結果、果たすべき公共性さえ損なわれがちであり、公共性と企業性の調和を理念とした公社制度に大きな疑問が生じている。

(臨時行政調査会事務局, 1982, p. 95

 

    として、まずは公社そのものにメリットが見られなくなったことが端的に示されている。次に、問題点が具体的に示される。

 

イ 公社制度がもつ問題点を端的に示せば、

             1は、公社幹部の経営に対する姿勢についてである。国会及び政府による関与は、事業実施における責任の所在をあいまいにし、経営に対する安易感を生みがちである。労使関係についても、現行制度の下では、経営者に当事者能力が十分に付与されていないこともあり、給与を自主的に定めることができず、その結果、他の勤務条件では安易な妥協を重ねることとなっている。

                   2は、労働側においても、労働権の制約等により、在るべき労使関係をつくり上げる努力に欠けるところがある。決して倒産することのない公社制度の上に安住し、違法な闘争を行うなど、公社職員としての自覚、義務感の喪失さえ招いている。

                3は、公社に対する国民の過大な期待である。それは、しばしば「国の機関」に対する「当然の要求」として現れるが、公社の経営に負担をかけ、効率性を阻害する要因となっている。

ウ 三公社の規模は、それぞれ余りに巨大である。…

(臨時行政調査会事務局, 1982, pp. 95-96

 

とあり、経営側、労働側両面の問題、国民の公社に対する感情の問題、規模の問題が示されている。そして、解決策としての民営化が提案される。

 

エ このような問題点を解決するには、第1に、外部的制約と関与から解放し、第2に、経営の自主責任体制を確立し、第3に、労働の自覚を促し、第4に、労使双方を効率化と事業の新しい展開にまい進させる改革が必要である。

        そのためには、単なる現行制度の手直しではなく、公社制度そのものの抜本的改革を行い、民営ないしそれに近い経営影響に改める必要がある。その際、有効な競争原理が機能し得る仕組みを同時に設定すべきである。

        このようにして企業性、効率性を発揮させてこそ「公共性」は確保され、達成されると考える。    (臨時行政調査会事務局, 1982, p. 96

   

    市場経済の原理をメリットとして取り込むことにより、公社の諸問題を解消しようという意図が明示されている。次に、具体的に国鉄に関する改革の方針が述べられる。

1)日本国有鉄道

   ア 基本的考え方

(国鉄は、…昭和39年度に欠損を生じて以来、その経営は悪化の一途をたどり、昭和55年度にはついに1兆円を超える欠損となった。

           …今や国鉄の経営状況は危機的状況を通り越して破産状況にある。

()   このような経営の悪化をもたらした原因としては、[1]急激なモータリゼーションを始めとする輸送構造の変化に対して、国鉄は鉄道特性を発揮できる分野(都市間旅客輸送、大都市圏旅客輸送、大量定型貨物輸送)に特化すべきであったが、現実には、公共性の観点が強調され過ぎ、対応が著しく遅れてきたこと、[2]国会及び政府の過度の関与、地域住民の過大な要求、管理限界を超えた巨大な企業規模、国鉄自体の企業意識と責任感の喪失などの理由から企業性を発揮できず、いわゆる「親方日の丸」経営といわれる事態に陥ったこと、[3]労使関係が不安定で、…生産性の低下をもたらしたこと、[4]収入に比し以上に高い人件費比率、年齢構成のひずみからくる膨大な年金・退職金、累積債務に対する巨額な利子負担、等が挙げられる。

()(略)

()  …公社制度そのものを抜本的に改め、責任ある経営、効率的経営を行い得る仕組みを早急に導入するとともに、労使双方が国鉄の現状を深く認識し、政府と国民の支持の下に、一体となって再建に当たらなければならない。

()(略)

()  新しい仕組みについての当調査会の結論は、現在の国鉄を分割し、これを民営化することである。その理由は、次のとおりである。

                   [1]上記()の実現を図る上で最も適しているほか、幅広く事業の拡大を図ることによって、採算性の向上に寄与することができる。

                   [2]…現在の巨大組織では管理の限界を超えている。また、国鉄の管理体制に、ややもすれば地域ごとの交通需要、賃金水準、経済の実態から遊離し、全国画一的な運営に陥りがちである。分割によりそれが改善されるとともに、地元の責任と意欲を喚起することができる。

(…長期債務、国鉄共済年金制度等の諸問題を、新形態以降に際し解決しておく必要がある。

 (臨時行政調査会事務局, 1982, pp. 96-101

 

    として、新自由主義的な思想に基づき経営の効率化を最優先に民営化を提唱している、という文脈を読み取ることができる。そしてその背景事情に、高度成長期以降の急速なモータリゼーションの進展により、鉄道輸送を取り囲む環境も同様に急速に変化し、鉄道に求められるものもより鉄道の特性を発揮できるものに限られてきたことが示されている。次に、具体的な分割民営化の形態について、部会資料(「臨時行政調査会第4部会報告―三公社, 特殊法人の在り方について―(昭和57517日)」)に詳しい記載がある。まずは分割の方式について述べられる。

 

     5 経営形態の在り方

      以下により国鉄の事業を分割し、各分割体を、基本的には民営化する。

(1)   分割の方式

地域分割を基本とする。各分割地域内においても機能分離及び地方交通線分割を推進する。

       ア 地域分割

() 北海道、四国及び九州は独立させる。

() 本州は数ブロックに分割する。

具体的分割方法は以下の基準とし、…最適な分割方式を策定する。

[1] 分割体は独立の経営体にふさわしい業務の内容を有すること

[2] 地域経済の単位に対応したものであること

[3] 経営の適正な管理権限内の規模であること

[4] 今後の鉄道需要が都市間旅客輸送、大都市圏旅客輸送、大量定型貨物輸送に更に特化していくものと見込まれることから、これらの需要の各分割体への配分が適切であること

[5] ブロック内であっても輸送体系が完結している等分離しやすい特定の地域については、できるだけ独立させること

(臨時行政調査会事務局, 1982, p. 266

       

    本州を除いては、島ごとに独立の会社を設立することが既定路線となっているようだ。本州の分割単位としては、地域経済圏の有り様・鉄道需要・輸送体系等諸事情を総合考慮することが示されている。一見地域経済或いは行政の単位に即した合理的な分割単位に思われなくはないが、果してこの分割単位が将来を見据えた適切な判断であったのか、民間会社として経営上無理がないかという点につき予測が甘すぎたのではないかと疑問を容れる余地がある。巨額の債務を抱え、「破産状態」と形容されたはずの国鉄を分割民営化するに当たっては、まず第1次的にはどのように地域区分をすれば最も経営上適切であるのかという、各社の収支予測を反映した分割単位にすべきではなかったか。本年はJR発足30年ではあるが、2030年の長期的な経営見通しは十分に持つことができたはずである。民営化の本来の目的と実際に行った施策との間に齟齬があると評価せざるを得ない。

現状、JR各社は、全くと言って良いほど異なる経営環境にあり、それが鉄道輸送事業自体に様々な影響を及ぼしている。客単価・需要共に高水準にある東海道新幹線を有するJR東海に比し、過疎地域を中心に鉄道サービスの需給の均衡をあまりに失した状態にある路線を多く抱えるJR北海道やJR四国の如きが過酷な経営環境にあることは否めない。

     そうだとすると、国鉄を民営化するという大規模プロジェクトには、伴って別の意図ないし目的があったのではないかと思われて仕方がない。できる限り地域的な単位で会社を分割することにより、何らかの大きな、それも将来の経営予測よりも優先すべきメリットが、実際に民営化を主導する政府の側か、或いは民営化後の各社の特に経営陣の側にあったのではないかと想像できなくはない。証明は至って難しいが、関連する問題として労働組合に関する事柄について後述する際に併記する。

     尚、他事業に関する分割、分割の時期については以下の通りである。

 

       イ 各分割地域内で、併せ行うべき分離・分割

() 機能分離

自動車、船舶、工場、病院等についても極力分離等を図る。

() 地方交通線分割

特定地方交通線を含め地方交通線の私鉄への譲渡、第三セクター化、民営化等を図る。

       ウ 分割は、5年以内に速やかに実施する。

(臨時行政調査会事務局, 1982, p. 266

 

    さて、いかにして民営化を進めるかについては、大枠は以下のように説明されている。

 

(2) 民営化の方式

当初、国鉄が現物出資する特殊会社(以下「分割会社」という。)とし、地方公共団体及び民間の出資をできるだけ受ける。将来、分割会社の採算性の程度に応じ、国鉄は逐次持株を公開し、民営化を図る。

(臨時行政調査会事務局, 1982, p. 267

 

    として、持株の漸次の公開が企図されているが、持株の公開については各社の経営状況により進展に大きな開きがある。[7]

     その他の民営化の態様については、以下の記述を参照されたい。

 

(3) 要員の合理化の推進

分割会社に移行後も再建監理委員会の再建計画の定めるところにより、

引き続き新規採用を抑制し、要員の合理化等を行う。

(4) 政府による規制

持株会社へ移行後の政府規制は私鉄並みとする。

(5) 国の助成

分割の当初、助成が必要な場合は、再建監理委員会が分割会社ごとに定

める再建計画に基づいて行うものとし、かつ、終期を付す。

(6) 労働関係

ア 特殊会社に移行するまでの間は、現行法制による。

イ 持株会社に移行した後は労働三法を適用する。[8]

(7) 関連事業

関連事業の範囲はできるだけ広範に認め、採算性の向上とともに地域開発 に資する。… 

(臨時行政調査会事務局, 1982, p. 267)

 

   (iii)第5次(最終)答申

        第5次(最終)答申では、これまでの議論の取りまとめとして、詳細な記述は省いて大まかな方針についてみ言及がなされている。考究の実質としては参考程度にしかならないとはいえ、臨調としてどのような方向性で議論が決着したかにつき十分な資料を与えてくれる。

  

     ア 国鉄については、その事業再建は国家的急務であるが、今や単なる現行公社制度の手直しとか、個別の合理化計画のみでは実現できるものではないので、現在の国鉄を5年以内に速やかに全国7ブロック程度に分割し、これを民営化すべきことを提言した。

       また、新形態移行に際して解決すべき諸問題として、長期債務の処理、国鉄共済年金の類似共済年金との統合等を指摘し、新形態移行までの間に緊急にとるべき措置として、新規採用の原則停止、設備投資の抑制等11項目についても提言した。

       なお、以上のような国鉄改革を推進するため、「国鉄再建監理委員会」の設置等強力な実行推進体制の整備を求めたところである。 

(臨時行政調査会事務局, 1983, pp.72-73

 

    第5次答申では、国鉄を「7ブロック程度に分割」としか示されておらず、分割の詳細については依然結論が出されていないか、或いはまだ議論されていなかったことが分かる。北海道、東日本、東海、西日本、四国、九州の6社に貨物を加えた6社を意味するのか、それとも貨物を含めずに、現状とは全く別の区分が検討されていたのかまではここからは読み取ることができない。また、民営化を待つだけではなく、可及的速やかに「緊急にとるべき措置」を講ずることが述べられている。

 

  [3]行政管理長官中曾根康弘

    中曾根は、鈴木内閣において行政管理長官を務めていた。臨調の基本答申に関して、以下のようなコメントをしている。

   

     (昭和56年)七月三十日に基本答申をいただきまして、政府、与党は早速その推進に着手致しました。その辺りの経緯を御報告致しますと、この六日迄に自民党内の調整を終えまして、十日の政府・自民党行政改革推進本部の場に全閣僚、党四役等党首脳部が一堂に会して政府・与党が一体となってこの答申の実現を推進することを確認し、さらに同日の閣議においては、今後の対処方針と政府声明を正式に閣議決定した次第でございます。…昨十二日には、各省庁の事務次官、三公社の総裁に特別にご参集願いまして、総理[9]から大号令をかけていただくと同時に、私からも各省庁等の既存の利害に固執することなく、行革の完遂という大局的見地から各行政部を統括するよう要請したところでございます。…

(中曾根, 1982, p. 5

 

行政改革が鈴木内閣の最重要課題であったこと、中曾根がこの諸事業につき重要な役割を担っていたことが窺える。次に国鉄に関してコメントされる。

 

     そこで先ず当面実施すべき事項と致しましては、国鉄再建監理委員会の設置が最初に出てくる問題でございます。先程申しました政府・党が一体となった行革推進本部に常任委員会が設置されておりまして、私が座長で政府からは官房長官、経企庁長官、大蔵大臣、自治大臣、党からは政調会長、行財政調査会長が出席しておりますが、今後はこの常任委員会を中心に推進を図っていくこととされております。国鉄の再建監理委員会につきましても、八月中にはこの常任委員会で設置案の大綱を決めるとともに、内閣に準備室を設置しましてこの大綱に基づいて法案作成作業を行う予定であり、この準備室はいずれ監理委員会が設置された折には、その事務局に移行させるという考えでおります。

     また九月には国鉄再建に関して閣僚会議を設置しまして、内閣としての体制を整えて参る予定であります。

(中曾根, 1982, p. 5

 

ここでは民営化に先立って国鉄再建監理委員会による国鉄改革が急務であると述べるにとどまっている。続いて国鉄改革の具体的課題について述べられる。

 

     国鉄改革の問題は、一つは労使問題、もう一つは累積債務処理の問題、そしてもう一つ重要なのは年金問題の処理であります。国鉄ではこのままいけば年金の単年度収支が昭和六十年度には約一千億円不足し、六十二年度には約三千三百億円不足し、積立金もなくなって、国鉄のOBに年金が払えない状態になります。したがって年金問題についても当面実施すべき課題として早急に取り組んで参らねばならないと考えております。

     そこで九月中にも年金問題の担当大臣をということで、現在は厚生大臣を考えておりますが、国務大臣として指名し、第一段階としては公的年金、つまり三公社と国家公務員共済の統合を図る。そしてこれを実現した上で、第二段階として国民年金や厚生年金をも含めた年金制度一般の問題を検討していく、というやり方がいいのではないかと考えております。

(中曾根, 1982, pp. 5-6

 

国鉄の労働者は国家公務員に含まれる。国鉄があまりに巨大な組織であったために、高齢化の進展もあってOBが増加の一途を辿るにつれ、給付が困難になってきたのであろう。最後に行革に対する中曾根の意気込みが語られる。

 

     …臨時国会につきましても、行革を推進する立場からは出来るだけ早期に開いていただいて、国鉄再建監理委員会の設置に関する法案が成案を得次第これを提出して、今年度中には、国鉄の民営、分割をどのように進めるか、債務をどのように処理するかといった問題の具体的な検討に着手したいと考えております。

     従来この種の法案は通常国会に提出するのが通例であると言われておりますが、臨時行政調査会設置法案の際も通常国会でとの声もありましたが、私は敢えて臨時国会を開いていただき成立させたとの経緯もありました。行革はそれぐらい急を要する大事である、との認識に立って、早ければ早い程行革は進む訳ですから、ともかく督励して促進していくというやり方で貫徹しなければならないと考えております。

(中曾根, 1982, p. 6

  

   このように、中曾根は鈴木内閣時代から、国鉄問題の処理について中心的な役割を担っていたし、閣僚、事務次官、公社総裁等関係者の橋渡し的役割をも担っていた。ここでの経験が、総理大臣として国鉄の民営化を主導するに当たっても活きたものと推察される。

 

4)中曾根康弘内閣(1982-1987

   先述の通り、鈴木内閣下の臨調がとりまとめた提言をもとに、中曽根康弘内閣が行革の具体策を実行に移したと評価できよう。中曾根内閣の基本的な姿勢やそれを巡る様々な状況については、「3. 教科書的な説明」での記述に留めることとし、ここでは国鉄民営化・JR発足までの一連の流れについて参考程度に記しておく。

 

   1982(昭和57)年 鈴木内閣、国鉄民営化閣議決定

1次中曾根康弘内閣発足

  1983(昭和58)年 田中元首相に実刑判決、第37回衆院議員総選挙で自民党議席減

            第2次中曾根康弘内閣発足、新自由クラブと連立

  1984(昭和59)年 自民党党大会で「戦後政治の総決算」表明

            日本専売公社民営化法成立

            自民党総裁選で無投票再選、第1次改造内閣発足

日本電信電話公社民営化法成立

  1986(昭和61)年 衆参同日選挙、三公社五現業の民営化を掲げた自民党が圧勝

国鉄改革関連8法(日本国有鉄道改革法等)成立

  1987(昭和62)年 JR発足

 

5. 国鉄民営化と労働組合

1)総論

   「日本一の従業員を抱える企業体」(大谷, 1997, p. 68)であった国鉄は、常に人員過剰の状況にあり、人員整理の必要に迫られてきたが、これに反対する国鉄労働組合側との間で激しい軋轢があった。こうした争いの他にも、他企業においても見受けられるような様々な労使間の争いについて、労働側の中核を担ったのが国鉄労働組合という巨大労働組合であった。国鉄労働組合は、国鉄時代においては公務員であるという身分の性質上、労働基本権について立法上も司法上も労働運動の制約を課されてきた。そして80年代に入り国鉄が民営化される運びとなって労働基本権が一応は広範に認められることとなったが、国鉄という巨大企業体の分割により、労働組合も結束が緩まざるを得ない状況に陥ったこと、労働運動に積極的な従業員が様々な面で他の従業員とは異なる待遇を受けることが寧ろ容易ならしめられる結果に至ったことから鑑みるに、労働運動という名の「東西対立」が、労働側の萎縮という形で終焉を迎えたと評価しても過言ではないと感ぜられる。

そこで本章では、国鉄の労働者、或いは労働組合が、民営化によっていかなる状況に立たされたのかにつき検討したい。このジャンルの事柄については、真実性の評価が極めて難しく、叙述が結局実態に即さないものとなりかねないが、その点については寧ろ受忍して、地に足のついた論展開を図りたい。

 

2)公務員の労働基本権

   公務員の労働基本権は、第一次的には、法的に制約される。国鉄は所謂三公社五現業に含まれ、この類型に属する公務員は、警察職員等は固より、一般公務員よりも労働基本権の制約は緩いが、それでもなお一般の民間企業と比べれば労働運動の自由は制約される。この点について最高裁判決の変遷を踏まえ、公務員の労働基本権の制約について基本的な論点を踏まえておきたい。

   [1]全逓東京中郵事件(最大判昭和44. 4. 2

        全逓東京中郵事件では、公共企業体の職員の労働基本権を広範に認める判決が出された。すなわち、三公社五現業の職員であっても、許される争議行為が存在することが示された。

 

    【事案】「全逓信労働組合の役員であったY8名は、…東京中央郵便局の従業員に対し、勤務時間内喰い込み職場大会に参加するよう説得した上、…38名の者に数時間職場を離脱させた。この行為が、郵便法791項の郵便物不取扱いの罪に当たるとして起訴された。第1審…は、正当な争議行為は労組法12項の適用があるとし、本件の郵便物不取扱いは正当な争議行為に当たり刑事免責を受ける…とした。これに対し第2審…は、公労法…17条で争議行為が禁止されている以上、その争議行為については正当性如何を論ずる余地はなく、刑事免責の適用はないとして、第1審判決を破棄して差し戻した。…」

(戸松・初宿, 2014, pp. 434-435

    【判旨】「労働基本権は、…公共企業体の職員はもとよりのこと、国家公務員や地方公務員も、…原則的にはその保障を受け」る。「ただ、公務員またはこれに準ずる者については、後に述べるように、その担当する職務の内容に応じて、私企業における労働者と異なる制約を内包しているにとどまると解すべきである。」(中略)「本件の郵便業務についていえば、その業務が独占的なものであり、かつ、国民生活全体との関連性がきわめて強いから、業務の停廃は…社会公共に及ぼす影響がきわめて大きいことは他言を要しない。それ故に、その業務に従事する郵政職員に対してその争議行為を禁止する規定を設け、その禁止に違反した者に対して不利益を課することにしても、…違憲無効ということはできない。」と一般論を述べたものの、労働基本権制約の基準を掲げた上で公労法171項を合憲とし、本件行為を正当な争議行為と認定、被告人を無罪とした。

 

     [2]全農林警職法事件(最大判昭和48. 4. 25

     しかし、全農林警職法事件では、公務員の労働基本権の広範な制約が是認されることとなった。現在判例としての拘束力を持つのはこちらの判例である。

    【事案】「Yら…全農林労組は、1958(昭和33)年の警察官職務執行法の改正に反対する統一行動の一環として、…職場大会への参加を慫慂した。Yらは、この行為が国公法985項…の禁止する違法な争議のあおり行為に該当するとして、同法110117号違反で起訴された。」   

(戸松・初宿, 2014, pp. 441-442

    【判旨】「公務員の地位の特殊性と職務の公共性にかんがみるときは、これを根拠として公務員の労働基本権に対し必要やむをえない限度の制限を加えることは、十分合理的な理由があるというべきである。」全面的に国家公務員の争議行為を禁止する根拠として、

      i)財政民主主義論

      「公務員の…勤務条件…の決定は民主国家のルールに従い、立法府において論議のうえなされるべきもの」である。「公務員の勤務条件の決定に関し、政府が国会から適法な委任を受けていない事項について、公務員が政府に対し争議行為を行なうことは、的外れであって正常なものとはいいがたく、制度上の制約にもかかわらず公務員による争議行為が行なわれるならば、使用者としての政府によっては解決できない立法問題に逢着せざるをえないこととなり、ひいては民主的に行なわれるべき公務員の勤務条件決定の手続過程を歪曲することともなって、憲法の基本原則である議会制民主主義…に背馳し、国会の議決権を侵す虞れすらなしとしない」。

    (ii)市場抑制力の問題

      「私企業の場合は、使用者は「作業所閉鎖(ロックアウト)をもって争議行為に対抗」でき、労働者の過大な要求を容れることは、……企業そのものの存立を危殆ならしめ、ひいては労働者自身の失業を招くという重大な結果をもたらすことともなる」ため、「労働者の要求はおのずからその面の制約を免れず」、「争議行為に対しても、いわゆる市場の抑制力が働く」。他方、「公務員の場合には、そのような市場の機能が作用する余地がないため、公務員の争議行為は場合によっては一方的に強力な圧力となり、この面からも公務員の勤務条件決定の手続きをゆがめることとなる」。」(大河内, 2013, p. 312

    (iii)代償措置

      法は、公務員の労働基本権の「制約に対する代償措置として身分、任免、服務、給与その他に関する勤務条件についての周到詳密な規定を設け、さらに中央人事行政機関として準司法機関的性格をもつ人事院を設けている」。

    の3つを挙げた。

 

上に挙げた判例は直接には国鉄職員の争議行為について判示されたものではない。しかし、特に戦後の国鉄労働争議に関する諸問題は、結局上に引用したような、公務員に争議行為を認めることによって生ずると考えられた弊害が、どれほど争議行為制約の根拠として妥当するのかという問題に帰着するものと考えられる。それでは、公務員の労働基本権をどの程度認めるのかについて以上のような議論の展開があったことを踏まえた上で、国鉄労働組合の労働運動に関してどのような問題、事案が生じたかにつき、次項で紹介する。

 

3)国鉄労働組合(国労)

戦後の国鉄の労使関係については、日本国有鉄道法と公共企業体労働関係法が大きく関わる。前者により、国鉄の経営は殆ど自主性を失い、後者によって国鉄労働者の争議権が否定された。1950年代には労使関係の大まかな枠組みが完成する。すなわち、「公労法体制によって制約されていた国労の「実力行使」は“違法行為”として、国労のリーダーが国鉄当局から解雇などの処分に付され」るという構図が出来上がった。(光岡ほか, 1993, p. 2

60年代には、国鉄労働組合は政治的な対立におけるアクターともなる。この頃に国労は戦闘的集団としての印象を与えることとなった。具体的には、以下のように記述されている。

 

ところで、公労法体制下における国鉄労使関係の特徴として注目すべきは、各々の時期でその具体的内容は違っているが、国労がほぼ一貫して総評内における有力な左派組合として、また公労協傘下の中心的組合として労働運動をリードする位置にあったということである。実際、国労は、60年安保闘争をはじめとして積極的に政治的課題を担った組織であったばかりか、公労協の中心的組合として実力行使を展開してきた。そしてまた、国労の戦闘性が公労法体制のはらむ問題性をより鮮明にしたといってよい。

(光岡ほか, 1993, p. 3

 

さて、視点を80年代に据えてみる。中曾根内閣期の国労を巡る情勢については、以下のようにある。

 

…中曽根内閣は、戦後政治の総決算を標榜し、国鉄改革を行政改革の中心的課題として位置づけ、攻撃の鉾先を国鉄労働者と国労に向けてきたのである。

この時期以降、マスコミを動員し、現実を誇張した国鉄職場の実態が、周知のように“ヤミ・カラ・ポカ”キャンペーン[10]として大々的に宣伝されるようになった。また、国鉄における職場規律の弛緩を生み出す「諸悪の根源は現業制度にあり」とする自民党の攻撃やこれを支援する立場からの宣伝も執拗に行われていった。

(光岡ほか, 1993, p. 9

 

このように国労に対して風当りが強まるにつれて、現場協議制が廃止された他、現場管理者による組合員の活動への不当な干渉・妨害、人事上の差別などが生じたとある。

更に逆風は強まってゆく。86年には、国労組合員を「人材活用センター」に異動させ、鉄道業務との隔離がなされ、組合員の大量脱退が招かれた。

とはいえ、分割・民営化後は、先述で少し触れたが、旧国鉄労働者は民間企業の労働者として、広範に労働基本権が認められ、組合としては活動がし易くなるはずである。しかしながら、民間企業ならではの性質が、事情を複雑にするのである。

 

…一般論としては、公企体としての国鉄が民間企業として当事者能力を確立し、公労法体制によって制約されていた労働組合機能が回復され、この労働組合機能の発揮を与件として、労使関係の転換がもたらされると想定することができる。

だが、80年代の日本の状況では、以上に想定されたような労使関係を許容する余地は乏しかった。というのも、民間経営では、すでに60年代の末葉から能力主義管理によって競争的職場秩序がつくりあげられたばかりでなく、それに伴って企業別組合はその規制力を喪失し、経営側に圧倒的優位の労使関係が完成していたからである。それゆえにまた、民間企業で形成された能力主義競争のなかで、日常の働きぶりに関する「常識」を身につけてきた労働者にとっては、労働組合に依拠し集団的規制によって労働条件を確保してきた国鉄労働者の営みに、労働者としての共感と支持を見出すことは難しい。政府・自民党の国労攻撃が、国鉄職員の職場規律への悪意に満ちた攻撃からはじまり、国民世論の組織化が企てられたことは、この問題と深く結びついていた。…

…そして、JR体制下においては、民間大企業に支配的な労使関係秩序を有力なモデルとして、JR労使関係が編成されていくこととなった。 

(光岡ほか, 1993, p. 10-11

 

このように、民間企業においては従業員間の競争の方が優越してしまい、労働基本権が保障されたとしても労使対立が機能しないという事情があった。それに加え、先述の通り80年代は新自由主義の潮流のもと、国民の間にも保守的な空気が流れていたことをも加味すると、民営化することによって寧ろ労働運動が萎縮し国労にとって逆風となることは容易に想像できる。そういう意味でも、国内における労使対立という意味での東西対立は、私企業においては終焉を迎えつつあったということ、そして国鉄に関しては、民営化という節目を迎えることによって終焉を迎えたと評価して差支えないだろう。

 

4)民営化の思惑

   そうだとすると、国鉄民営化は確かに民間企業として立ち行かせることによる効率性の向上という側面もあったが、60年代以降時として政治運動にも関わりを見せたと言われる労働組合である国労にいわば止めをさすという側面も有していたのではないか、という憶測ができる。この点に関しては非常に証明が難しく、価値中立的に事実のみを記載した文献など殆どない。そこでその点に関しては割り切り、労使関係という観点から国鉄民営化はどのような評価がなされているのかという点について諸記述を示し、筆者としてのできるだけオブジェクティヴな姿勢での見解を述べるに留めることとする。

   まず、民営化による国労解体の意図が見られる事例として、JRを発足させるに当たって、国鉄職員を一旦全員退職とし、民間企業であるJRの社員として採用するという過程を踏んだことである。これに関して次のような記述がある。

 

    国鉄を解体しJRを設立させたときに国鉄職員を一度退職させ、新たにJR社員として採用するという操作を通じて国労や全勤労の組合員を意図的かつ集中的にJRから排除するという採用差別は、その不当労働行為を隠ぺいするためであった。この点については、すでに数多くの地方労働委員会の救済命令から明らかである。…

    北海道や九州ではJRへの不採用者がとくに多く、したがって2度目の解雇者も多数にのぼっている。…道外のJRへの広域採用者は3年間に1390人であった。JR以外の民間企業や公的部門に心ならずも就職した職員も多数いた。… 

(山本, 1993, p. 92

 

こうした採用差別に関しては、佐藤(1990)が詳しく述べている。以下、記載の一部を紹介しておく。

 

    …国鉄分割民営化諸法案…によれば、さきに述べたように鉄道事業はそのまま続くにもかかわらず、労働関係がそのまま新会社に引き継がれることは否定された。国鉄改革法十九条、二三条等で、まず運輸大臣の定める基本計画で各社の人員枠が決められる。次いで新会社設立委員が労働条件および採用の基準を示して、国鉄職員に、国鉄を通じて職員の募集を行う。そして国鉄が新会社の職員となるべき者の名簿を作って設立委員に提出する。設立委員はその名簿のなかから採用者を決めて通知する。採用通知を受けなかった者は、清算事業団の職員となり、三年を限って再就職促進業務の対象者にされるという仕組みにされた。法案に対する反対運動の高まりのなか、参議院段階で、所属労働組合等による差別等が行われることのないよう特段の留意をすること(九(一))などを含む附帯決議がつけられた…。しかしこのような仕組みのなかで国鉄は国労や全動労の組合員を排除する露骨な差別名簿を作り、そして設立委員はそれをそのまま是認して採用差別を行っていく。そしてこの点でのJR側の主張は、その職員採用は改革法二三条の手続きに従い、国鉄提出の名簿によったもの(中略)で、かりに国鉄に不当労働行為があったとしても、JRには責任がないということであった。… 

(佐藤, 1990, pp. 27-31

 

このように、国鉄からJRに一旦会社がいわばリセットされるというプロセスを経ることで、職員もそのプロセスに沿って身を処することを迫られた。そこで採用に漏れた者を清算事業団が受け入れるという仕組みがあったようである。実際もこの通りであったとすれば、確かに国労組合員が散り散りになるのは誰が見ても明白である。国労を解体し機能させないという積極的な意図があったかについてはここでは断言を避けるが、国労に対する猛攻撃と捉えられても全く不思議がない、とは言えると思われる。

   しかし、この国労組合員の事実上の解雇[11]について、肯定的な見解もある。以下を一読されたい。

 

    この一連の国労組合員解雇事件は、一部新聞などが報じているように「かわいそうな国労組合員いじめ」とは単純に受け取れない要素がある。解雇は確かに個人にとって深刻な問題だが、この問題を感情面だけでとらえると、問題の本質を見失いがちになる。…

    …彼ら(筆者註:被解雇者のこと)の多くは、国鉄時代に所属した北海道と九州にとどまり続けることにこだわった。しかし、JR北海道と九州は収入に比べて人員が多い。JR北海道の平成七年度決算は四〇六億円の営業損失であり、経営安定基金からの補_を加えてもなお十四億円の赤字である。従って、過剰人員の整理は必要悪であった。 

(大谷, 1997, p. 70-71

 

  国鉄時代にはかなりの人員過剰があった地域において、地元再就職にこだわった国労組合員をも採用する余裕がなかったという説明である。確かに今後民間企業としての歩みを始めるJRであるから、人員についても合理的な在り方を志向するのは当然であり、その限りでは北海道や九州で人員過剰から事実上の被解雇者が生じるのは仕方がないとは言えなくはない。しかしながら、それならば分割単位を決める段階で、何らかの工夫を以て人員の過不足を最小限に抑えることができたと思われなくもない。そうだとすると、敢えて3島会社を独立させたことが、こうした解雇プロセスを助長させるためであったという憶測ができなくはないということになる。ただそこまで言い切るのは拙速に過ぎようし、当初は意図していなかったが結果的にこのような解雇プロセスを生んでしまっただけかもしれない。いずれにせよ、3島で独立してJR会社を発足させたことの少なくとも副次的な産物として、かかる問題が生じた、とは評価できよう。

   以上の他にも、民営化に際して様々な形で労働組合に対する逆風と捉えられる諸施策がとられたようである。しかしこれ以上紹介しても枚挙に遑がなく、真実性についても疑を容れざるを得ない点に何度も直面するであろうから、以上の記述で留めることとする。

   さてここからは私見を述べることとする。国鉄民営化という過程は、労働組合、つまりプロレタリアート側にとってかなりの打撃となるものであったようである。このことそれ自体をどのように評価すべきかについては直ぐには断言できないが、唯一私が個人として主張したいことは、こうした流れが、国鉄民営化に携わった諸機関、諸権力を観察・評価するだけでは足りず、その背景にある社会の状況、政治的潮流をも巻き込んだ、全社会的或いは全世界的ダイナミズムの文脈で語ることが望まれるのではないか、ということである。ここまで強く国労が圧力をかけられるに至ったのは、恐らく国鉄民営化を推進した中曾根内閣(ないし直前の鈴木内閣)が比較的安定的に政権を運営できたということが関わって居るであろうし、その安定的な保守政権を支えた世論の動向が重要な背景事情として無視に値しないものであるはずだ。高度成長後、安定成長期に入ったことで我が国は、安保闘争や学園紛争を想起させるところの労使間、保革間の激しい対立というイデオロギー構造が変化し、中流意識を持った大多数の国民が保守的な政治空気とでも呼ぶべきものを共有するようになったことが、一連の国鉄民営化とそれに付随する様々な処遇を後押しすることになったと叙述すべきであろう。

   加えて、外生的な背景事情として、世界的な新自由主義の潮流があったことも、中曾根を中心とする保守政治家のアグレッシブな姿勢を支えたのではないか。時代思潮として「小さな政府」が志向される中では、彼も自身の政策を遂行し易かったのであろうと推察されるのである。そうした新自由主義の潮流は、先進諸国の経済事情の変化、世界的な東西対立の態様の変化とも密接に関連している。こうしたダイナミズムが、我が国における政策決定にも少なからず影響を及ぼしたはずである。

   まとめると、国内外で第2次大戦直後から顕在していた広義の東西対立が、主として経済情勢の変化により相対化或いは変質し、その終焉が見え隠れする中で、新自由主義という一大思潮が台頭し、我が国においては国鉄の民営化と労働組合に対する強力な圧力につながったと説明できよう。

 

7. おわりに

  本稿では、国鉄民営化・JR発足という我が国の鉄道史上最重要とも言うべき事象を、その背景にある政治的な動き、そしてその更に背景にある抽象的ではあるがイデオロギーの動きと関連付けて叙述することを試みた。単に民営化という具象を具象の限りで整理する分にはそれほどの困難を生じないであろうが、抽象的な説明との関連付けとなると一筋縄ではいかぬと感覚した。縷々として冗長に述べた部分もあり、全体としてすっきりしない文章となったことが否めないし、文献による裏付けに欠け全くイマジネーション以外の何物でもないという誹りを免れかねない記述の存在も否定できないが、鉄道を調査研究するという活動に新たな視点を拓くことができたのではないかと思う。そして本稿の叙述は全体として、我が国の鉄道が、個人ではコントロールできないような政治的・社会的な動きと相互に関連しながら歴史を刻んできたということも謳っていると筆者ながら感ぜられた。このことは結局のところ我が国においては鉄道が非常に重要な存在であり続けていることの何よりの証拠であるようにも思われる。

かつてないほどの長編となり読者に不快を与えかねないことを御詫びすると共に、斯くも異色なる文章を会誌に掲載することに同意を付してくれた鉄道研究会員各位に深く御礼申し上げ、筆を置くこととする。


 

8. 文献目録

石井進, 笹山晴生, 五味文彦, 高埜利彦ほか. (2014). 『詳説日本史 改訂版』. 山川出版社.

大河内美紀. (2013). 「国家公務員の労働基本権―全農林警職法事件」. 『別冊ジュリスト218号 憲法判例百選II〔第6版〕』, pp. 312-213.

大谷健. (1997). JR10年の検証 国鉄民営化は成功したのか』. 朝日新聞社.

木村康彦, 吉田寅, 木村靖二,. (2008). 『詳説世界史研究 改訂版』. 山川出版社.

佐藤昭夫. (1990). 『国家的不当労働行為論―国鉄民営化批判の法理』. 早稲田大学出版部.

佐藤信, 高埜利彦, 鳥海靖, 五味文彦,. (2008). 『詳説日本史研究 改訂版』. 山川出版社.

独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構. (201748日閲覧). JR株式の処分」. 参照先: 「鉄道・運輸機構」: http://www.jrtt.go.jp/02business/Settlement/settle-kabu.html

戸松秀典, 初宿正典. (2014). 『憲法判例〔第7版〕』. 有斐閣.

中曾根康弘. (1982). 『行革長期路線とその基本観念について―臨調基本答申を受けて―』. 中曾根康弘.

東根千万億. (2004). 『等しからざるを憂える。元首相鈴木善幸回顧録』. 盛岡: 岩手日報社.

光岡博美, 早川征一郎, 高橋祐吉,. (1993). 「序章 国鉄労使関係からJR労使関係へ」. : 高木督夫, 早川征一郎, 『国鉄労働組合―歴史、現状と課題』 (pp. 1-13). 日本評論社.

山本補将. (1993). 「第3章 国鉄労働組合の組織と機能 2. 闘争団の闘いと国鉄労働組合」. : 高木督夫, 早川征一郎, 『国鉄労働組合―歴史、現状と課題』 (pp. 90-114). 日本評論社.

臨時行政調査会事務局. (1981). 『臨調 緊急提言』. 東京: 行政管理研究センター.

臨時行政調査会事務局. (1983). 『臨調 最終提言』. 東京: 行政管理研究センター.


[1] 現在の東京湾アクアラインのこと。

[2] 現在一般に呼ばれるところの圏央道のこと。

[3] レーガンと中曾根の親密さは両国民にも広く知られた。「ロン・ヤス会談」と呼ばれた日米首脳会談は有名である。そのことから、国鉄民営化を推進した中曾根の思想的基盤が、レーガンのそれと少なくとも概ね軌を一にし、かかる思想から導き出される政策方針についても何らかの明示的共有がなされていたということは容易に想像され得る。こうしたことを考えても、日本の国鉄民営化が国内的な出来事として片づけるにはあまりに勿体ないと言えなくないのではないか。

[4] マーガレット・サッチャー元首相は201348日に死去した。この引用文献の発行当時は存命であった。

[5] 尚、ドイツにおいては東西統一後も、統一前の国鉄が併存する状況が暫く続き、後に合併、一応の民営化がなされた。株式の公開にまでは至っていない。

[6] 国内における東西対立の典型として、学園紛争が挙げられる。尚、語の使い方として、地理的な東西の対立という意味ではなく、自由主義市場経済を基礎とする体制を志向するイデオロギーと、社会(民主)主義経済を基礎とする体制を志向するイデオロギーとの対立という意味で、国際社会における米ソ対立とパラレルに観念できるという趣旨で広義に「東西対立」と言うことができる、と述べているに過ぎない。(前頁註6続き)労使間の対立については、差し当たり雇用する側である資本家が支持するイデオロギーと被雇用者側であるプロレタリアートが支持するイデオロギーとの対立する構造が、ここでいう東西対立構造と概ね一致すると考えられる。

[7] 現在のJR各社の株式公開比率については、鉄道・運輸機構ウェブサイトhttp://www.jrtt.go.jp/02business/Settlement/settle-kabu.html に記載がある。社によってかなり開きが見られることが分かる。

[8] 労働法規の適用等も含め、労使関連の問題については、後述する。

[9] 鈴木善幸総理(当時)のこと。

[10] 国鉄の職場規律が喪失されている状態を主張するキャンペーン。こうした勤務態度の悪化については臨調答申にも示されているほか、肯定する文献もある。(大谷, 1997, p. 76 参照)

[11] 参考までに、一般論として、民間企業が、自社に求職者を採用するかしないかについては、原則当該企業の自由に委ねられると憲法上も考えられている。この点については、三菱樹脂事件(最大判昭和48. 12.12民集27111536頁)を参照されたい。なお、この判例は主として企業の解雇権に関するものである。


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