国鉄と事故
平成27年度入学 碧ウミ
1. 概要
鉄道の歴史は事故の発生と表裏一体をなしており、国鉄もその例外ではなかった。普段から何気なく鉄道を利用している現代の私たちにとっては想像しがたいことかもしれないが、便利で快適な移動手段としてあるべきはずの鉄道がふとしたことからそのシステムを逸脱し、期せずして100名もの乗客を一瞬のうちに手にかけてしまう事態が過去には幾度となく起こっていたし、近年数を減らしつつあるとはいえそれらは今もなお決して撲滅されるまでには至っていない。しかしここで鉄道の歴史を見返してみると、発生してしまった案件のそれぞれを直視し、そこから得られた教訓によって可能な限り自己の姿勢を正してゆく、事故に対しての積極性ないしは前進性の歴史を見出すことはできないだろうか。民営化を乗り越えて現在のJRひいては鉄道全体の技術を支える安全への取り組みが、壮絶ともいえる国鉄時代の数々の過ちからどのように編み出されてきたのか、また今後の事故からも編み出されていくのであろうか、本稿がその一端を概観する手がかりとなることができれば幸いである。ここでは日本国有鉄道が国の事業体として1949年(昭和24年)に発足して1987年(昭和62年)に分割民営化されるまでの間に発生した大規模な鉄道事故として桜木町事故・三河島事故・鶴見事故[1]・北陸トンネル火災事故を取り上げ、各々の概要を説明したうえで、最後に総説としてそれら事故と向き合うことに関するいくつかの観点を断片的ながら紹介する。
2. 桜木町事故
(1)概要
・発生日時 1951年(昭和26年)4月24日 13時ごろ
・場所 京浜東北線桜木町駅構内
・列車 下り第1271B列車(5両編成)
・被害者数 106名死亡、92名負傷
(2)経緯
根岸線が未開業であった当時の京浜東北線は桜木町駅が終着駅となっていた。ここでは下り側ホームを1番線、上り側ホームを2番線として、大半の旅客電車は駅手前の渡り線を通って2番線に入線しそのまま折り返すこととなっていた。
図1. 1951年の桜木町駅付近
事故当日の13時38分ごろ、桜木町駅手前の渡り線より横浜寄りの上り線上で吊架線の碍子を交換する作業を行っていた作業員2人組のうちの1人が、吊架線と包縛線を締め付けているワイヤークリップのナットを緩めようとした際、ナットを挟んだスパナの尾部を誤ってビーム[2]に接触させたため短絡がおこり火花が発生した。これに驚いて飛び降りたもう1人の作業員が包縛線と碍子枠が接触、さらにビーム上に置かれていた別のスパナが弾みで吊架線や碍子枠などに接触して落下、ここで発生した短絡火花により碍子付近で上り吊架線が溶断した。切れた吊架線は地上にまで垂れ下がり、それに吊られていたトロリー線も約30 cm降下した。
これを見た現場の電力工手長は上り線への列車進入停止と事故の復旧手配が必要と考え、「信号扱所に連絡に行ってくるから後を頼むぞ」と伝えて約205 m離れた桜木町駅信号扱所へ走った。その際、列車番をしていた電力工手副長らには信号旗を振って列車防護をするなどの具体的な内容は指示していなかった。
13時40分ごろ、電力工手長は信号扱所の信号掛に対し、断線箇所と明確に述べず「やっちゃった」「架線を断線させたので上りはいけない」と報告し、保土谷配電分区に連絡の上復旧資材などの手配を要請した。ところが、信号掛から下り電車の到着扱いついて「下りはどうか」と聞かれたのに対しては下り線の状況を問われていると解して「下りは差支えない」と返答したため、信号掛は上り電車を出発させてはならないが、渡り線を通して下り電車を上り側の2番線へ到着させるのには問題ないものと誤解した。一方、電力工手副長は電力工手長が上り線に電車が入らないよう手配したと思い込んで手旗などによる防護措置はとらず、他の作業員とともに断線した吊架線の復旧作業にあたった。
下り第1271B列車は定刻を9分過ぎて13時40分に横浜駅を出発した。同列車運転士は桜木町駅手前の場内信号機を約35 km/hまで減速して通過しようとした際、隣の上り架線がたるんでいることを発見したが、作業員たちが電車を止めようとはしていなかったこと、場内信号機が2番線ホームまでの進入を認めていたことなどから、工事のためにたるんでいるのだろうと判断して運転を続行した。
13時33〜34分ごろ、当該電車が渡り線に進入した際先頭車のパンタグラフの右端が垂れていた上り線の吊架線とトロリー線の間に入り込み、両者を結んでいたハンガーを数本切断しながら衝撃によって後方に強く押されて横倒しになった。このためパンタグラフの第三取付碍子が破損し、トロリー線と車体とが短絡して電気火花が発生した。短絡箇所に電源を供給していた2系統のうち1系統からは電話連絡によって回路を遮断させるまで約4分間送電が続き、その間絶えず発生した電気火花によって車両の天井部に着火した。
当該運転士は列車を急停車させパンタグラフを降下させる措置を取った結果、先頭車以外のパンタグラフは降下した。運転室から後ろを振り向くと1両目客室の天井が火を吹いていたため、乗客を外に逃がすため乗降扉を開く操作を試みたが、電源がないため扉は開かずパンタグラフの再上昇もできなくなっていた。運転士と車掌は座席下の非常コックを操作して扉を開けるため1両目に入ろうとしたが火勢が強く入ることができなかった。2両目は貫通扉から中に入って非常コックを操作することができた。また1両目のモハ63型電車の窓は中段が固定された3段式で上下段の幅がそれぞれ29 cmしかなく、ここから乗客が脱出するのは困難だった。さらに当時の車両では非常コックの位置が明示されておらず、乗客が車内からコックを操作することはなかった。当該運転士と偶然同乗していた電車掛は、車両の床下にある元締切コック(Dコック)を外から操作すれば扉を手動で開けられることを知っていたが、そのことに思い至らず車内の非常コックを操作することだけを考えていた。車掌はDコックの存在自体を知らなかった。
写真1. 燃え上がる63型電車
戦時体制下の輸送力増強を目的として設計された当該車両は火災対策に脆弱であり、天井はペンキ塗りのベニヤ板、屋根と内部の多くが木製で造られていた。これに加えて5〜6 mの向かい風と車両妻側で開けられていた通風口が火の回りを早め、6〜7分で床を除いた1両目の木造部分をほぼ全焼、2両目は天井すべてと1両目に近い側の引き戸付近の客室まで延焼した。1両目乗客のほとんどが車内に閉じ込められたまま死亡した。
14時10分ごろ、鎮火された。
(3)対策
車両側の対策として、国鉄は1951年から1954年にかけて63型及び同一構造の車両計800両に対して以下のような対策を実施し、制御電動車をモハ73型、中間電動車をモハ72型と改番した。
・車内中央扉付近の床上約1.5 mの位置に、車両内のすべての扉を開けられるガラス蓋付非常コックを新設。座席下にある非常コックについてはその位置と使用方法を明記。
・3段窓の中段を可動とし、下段とともに上段まで上げられるようにした。
・車両外側床下の片側にあったDコックを両側に増設。
・乗降扉の外側下方に引き手を設置。
・各車両の貫通扉と編成中間にあった制御電動車の運転台を撤去して車両間の行き来を可能とした。
・絶縁処理した木台を屋根に設置し、そこから碍子を通してパンタグラフを固定することで二重絶縁化した。またパンタグラフが倒れても接地しないよう付近の屋根に覆いをつけた。
・天井を鋼板に取り替え難燃性の塗料で塗装。
また地上設備では架線垂下などの故障時に確実に送電を止められるよう、短絡火花などで高周波の電流が通った際に作動する「故障選択遮断機」を設置した。
職員に対しては安全綱領と職別運転取扱心得を制定し、危険な場合に確実に列車を止めることなどを規定した。同時に、架線作業をできるだけ列車を運転しない夜間に行い、やむを得ず昼間に作業する場合でも通電を停止した状態で実施すること、簡易な作業を列車を通しながら行う際には作業場所の両端に見張員を配置することとされた。
3. 三河島事故
(1)概要
・発生日時 1962年(昭和37年)5月3日 21時ごろ
・場所 常磐線三河島駅構内
・車両 下り貨物第287列車(45両編成)
下り第2117H列車(6両編成)
上り第2000H列車(9両編成)
・被害者数 160名死亡、約300名重軽傷
(2)経緯
事故当日の21時32分、D51 364牽引の平(現・いわき)行きの下り貨物第287列車が田端操車場を出発した。数分後、三河島駅の東端で常磐貨物支線下り1番線から渡り線を経由して常磐下り本線に入る予定だったが、同日早朝に東北地方で発生した地震や東北本線古河駅で発生した脱線事故の影響で先行の上野発松戸行きが遅れていたため、三河島駅の岩沼方信号扱所は貨物列車を臨時停車させるため貨物支線下り1番線出発信号機2RBを「赤」(停止)とし、同箇所のポイントを安全側線側へ開通させた。安全側線の先には長さ約42 m、終端部分から先に長さ約35 m、裾巾約4 m、高さ約0.33 mの砂利盛りが設けられており、万一の場合に信号を無視した列車をここに乗り上げさせて他列車との衝突を回避することができるようになっていた。
図2. 現場見取図
当該貨物列車の機関助士は下り1番線出発信号機2RBが「赤」であることを目視して「駄目だ」と言ったが、機関士はその言葉をよく聞き取れず、信号機を「青」(進行)だと誤認して運転を続行した。通常の規定では、機関士は同信号機手前約308 mの信号歓呼位置で信号機の現示状態を確認して機関助士とともに喚呼応答し、手前約100 m付近でも信号機を再確認して汽笛を1回鳴らすことになっていたが、いずれの時点でもこれらの手順が正しくなされないまま運転は続行された。機関士が信号を誤認した原因としては、[1]下り列車の遅れを知らされておらず時刻からして信号は「青」になっているはずだと予想していた、[2]多くの貨車を牽引しており起動が困難なことから勾配途中での停車を躊躇った、[3]機関士席からは自線の出発信号機2RBが架線の支柱などで見え隠れしていたのに対し、その右側にあって「青」を表示していた常磐下り本線側の出発信号機2RAがよく見えており、これを誤認した、などが考えられている。機関助士も喚呼応答をしないまま、列車が再加速していることから信号が「青」に変わったのだと思い込み、機関車の圧力を上げるための焚火作業に取りかかった。
21時37分ごろ、当該貨物列車は停止現示の出発信号機2RBを通過して下り本線につながるポイントに差しかかったが、ポイントは安全側線側に開いておりそのまま25〜27 km/hの速さで安全側線へ突入、砂利を盛った車止めを突破した。機関士は非常制動をかけたが間に合わず、先頭の蒸気機関車が脱線し下り本線上に傾いた。
下り貨物列車の横を並走する形で約60 km/hで進行していた下り電車の運転士は、脱線のポイント破壊により下り本線出発信号機2RAが「赤」に変わったのを見て非常制動をかけたが、下り本線上に脱線した機関車の右側面に1両目の左側前部が接触し、1・2両目が脱線して上り本線側に右傾して停車した。下り電車の車掌は後続する下り電車の追突防止のため最後部の前照灯を点灯し、三河島駅に事故を知らせるため汽笛を3回鳴らした。その後、下り貨物列車が停止していて安全だと判断した左側の扉を開いた。さらに同車掌は、機関車のすぐ後ろに揮発油を積載したタンク車が連結されていることに気が付き、また「爆発するぞ」という声がしたため、乗客の避難を優先して上り線のある右側の扉も開いた。脱線で信号回路が短絡して信号機が自動的に赤になっており、上り列車が進入してくることはないだろうと考えたためである。
車外に脱出した下り電車の乗客は、線路が高さ約6〜7 mの築堤上にあったため南千住駅や三河島駅に向かって歩き出した。近隣住民が用意した梯子で築堤の下に避難した乗客もあった。貨物列車と電車の乗務員計4人はこれら乗客の救出や誘導に専念しており、信号炎管や合図灯を使用したり信号扱所に連絡したりして上り電車を止める措置は取っていなかった。
21時40分ごろ、三河島駅岩沼方信号扱所の信号掛は下り列車が来ないことを不審に思った隣の隅田川駅三ノ輪信号扱所の運転掛からの電話を受け、事故を報告した。その際運転掛が「(上り第2000H)電車のあと1487(貨物列車)を出す」と言ったため信号掛は「ちょっと待て」と曖昧に答えて電話を切った。しかし運転掛はこれを上り列車の停止要請とは受け取らず、上り第2000H電車を出発させた。
21時42分ごろ、三河島駅助役から事故の報告を受けた常磐線列車司令員は上り線に支障の恐れがあると気付いて「上り線通知運転」の一斉指令を発した。これは駅間に列車が閉塞待ちのため長時間停止することを避けるため、閉塞方式を変更しないで駅長相互の通知連絡によって駅間ごと1旅客列車に限って運転させるものである。しかしこの時点で上り第2000H列車は墨田川駅を出発し、三河島駅へ向かっていた。
事故現場を確認した三河島駅の信号掛は南千住駅に上り電車の出発を見合わせるよう電話したがすでに上り電車は出発したあとで、続いてすぐ600 m上り側の三ノ輪信号扱所に信号を「赤」にするよう要請しても当該上り電車は同信号扱所を通過中であった。
写真2. 現場空撮写真
21時43分過ぎ、三河島駅に2分延着の予定で75 km/hほどで進行してきた取手発上野行きの上り第2000H電車が下り2列車の事故現場に突っ込み、上り線上にいた乗客を次々にはねるとともに上り線上に脱線していた下り電車の前部に衝突。上り電車と下り電車は1両目がそれぞれ大破、上り電車の2両目と3両目は築堤下の民家と倉庫に突っ込んだ。
(3)対策
国鉄は1966年4月までに全線で自動列車停止装置(ATS)を導入した。これはそれまでの車内警報装置の仕組みを踏襲しており、運転士が警報を解除しない場合に自動で列車を停止させる機能を追加した形のものであった。また車内運転室の屋上に「車両用信号炎管」を設置、運転士が室内のひもを引いて点火して対向列車に危険を知らせるようにした。さらに緊急時に無線によって周辺の列車に非常信号電波を発信する「列車防護無線装置」を開発し、常磐線に設置した。
また1963年6月には人間工学・心理学・生理学・精神医学などの知見を用いて事故防止や職員の適性検査などの研究開発を進める「鉄道労働科学研究所」を設立した。この研究所は国鉄民営化に伴って1988年に廃止され、現在は鉄道総合技術研究所に統合されている。
「運転取扱心得」には「運転事故の発生のおそれのあるとき、または運転事故が発生して併発事故を発生するおそれのあるときは、躊躇することなく、関係列車または車両を停止させる手配をとらなければならない」という規定が追加された。
4. 鶴見事故
(1)概要
・発生日時 1963年(昭和38年)11月9日 21時ごろ
・場所 東海道本線鶴見駅・新子安駅間
・車両 下り貨物第2365列車(品鶴線・45両編成)
上り第2000S列車(横須賀線・12両編成)
下り第2113S列車(横須賀線・12両編成)
・被害者数 161名死亡(うち乗客160名・乗員1名)、120名重軽傷(うち乗客119名・乗員1名)
(2)経緯
事故当日の21時51分、東海道本線鶴見駅・新子安駅間の下り貨物線(品鶴線)を走行中の下り貨物第2365列車の前から43両目のワラ1型貨車(2軸4輪車、ビール麦を積載)が、滝坂踏切付近の半径450 m・カント[3]70 mmの曲線入口あたりで蛇行動が大きくなり、曲線の終了地点付近で進行方向左側のレールに乗り上がって16.3 m走行して脱線、続いて空車だった44・45両目の貨車も脱線した。脱線した貨車はそのまま引きずられて乗り上がり地点から80 m先の架線柱に衝突して列車から分離、3 m離れた隣の東海道本線上り線上に倒れかかった。このとき貨物列車の運転士は非常用の発煙筒を使用したが短時間で消えてしまったとされている。
図3. 現場見取図
東海道本線下り線を92 km/hで進行していた横須賀線下り第2113S列車の運転士は架線の異常な揺れを感じて非常ブレーキをかけた。ほぼ同時に東海道本線上り線を進行してきた横須賀線上り第2000S列車の1両目が脱線していた貨車に接触し、進行方向右側の東海道本線下り本線側に脱線、減速しながら進入してきた下り電車の4両目の側面中央に突っ込んだ後、後続車両に押されて横向きになりながら下り電車の4・5両目車体を破壊した。上り電車の2・3両目は進行方向左側の貨物線側に脱線した。
これにより東海道本線(横須賀線含む)と京浜東北線が不通となり、鉄道・警察・消防・自衛隊・米軍・民間人らおよそ2700名が救出と復旧にあたり、京浜東北線は翌日朝5時30分に、東海道本線は同日16時07分に運転を再開した。
(3)対策
鉄道車両の蛇行動は踏面(車輪がレールと接する面)に内側(フランジ側)から外側に向かって車輪直径が小さくなるように勾配を設けてあることに起因する。例えば車軸が左側のレールに寄った場合には左側の車輪の回転半径が大きくなるため車軸が右向きになり、同時に重力も加わって右側に戻るように動き、車軸が右側に寄ると反対方向の現象が起こる。蛇行動の波長は車輪と車軸の形状によって決まるものであり、波長が一定の場合走行速度によってその周期が定まる。ある走行速度での蛇行動周期が車両固有の周期と共振するとき、蛇行動が増幅されて脱線する危険が高まるとされている。最初に脱線したワラ1型貨車の蛇行動が大きくなった原因としては、特定の速度でこの共振現象が発生したことに加え、レールの狂いや積荷の偏り、後方に連結した2両が空車という列車編成などの要因が振幅を大きくしたことなどが考えられた。
1968年4月10日、「東海道本線鶴見列車事故技術調査委員会」はそれまで不明とされてきた2軸貨車の類似脱線事故の調査研究、模型実験、東海道本線や塩釜線などの営業線を利用した実車走行試験などをもとに、「貨車の脱線の原因は車両の異常、線路の欠陥、積荷の偏りなど積載状況、運転速度・加減速など運転状態、列車編成等に単独で脱線を起こさせるような原因はなく、事故現場のカーブでこれらの要因が偶然かつ複雑に重なり合い、車両の横揺れが異常な変化を起こしたことによる競合脱線」であるとする報告書を国鉄総裁に提出したが、競合脱線に至る仕組みを完全に明らかにすることは叶わなかった。
1968年5月20日、国鉄は競合脱線について未解明の点を研究し的確な対策を打つことを目的として「脱線事故技術調査委員会」を設置し、北海道の根室本線新得・新内間の狩勝峠旧線を利用して貨物の積載状態、空貨車と積載貨車の編成具合、運転速度や加減速度など様々な条件で走行試験を行った。1972年2月、委員会は実験線での研究や模型試験、シミュレーション結果などをもとに以下の事故防止対策を提案、1975年までに施工された。
・車輪の踏面断面中央部の勾配を水平にして蛇行動が起きにくくすること
・車輪のフランジ角度を60 °から65 °に、フランジ高さを26 mmから30 mmに変更し、脱線を起きにくくすること
・前後の車軸間隔を広げること
・輸送量や列車本数の多い複線の主要線区で、線路形状・カーブ・運転状況を考慮した要注意カーブに脱線防止ガードを設置すること
・偏積貨車を発見するため、主要ヤードに貨車重量偏積測定装置を設置すること
・併発事故を防ぐため事故現場から1 km以内の列車を直ちに停止させる列車無線を開発すること
・事故が隣接線に及んだ際に列車を止める限界支障報知装置を開発すること
・油によって車輪とレールの摩擦を減少させる塗油器を貨車とレールに設置すること
5. 北陸トンネル火災事故
(1)概要
・発生日時 1972年(昭和47年)11月6日 1時ごろ
・場所 北陸本線敦賀駅・南今庄駅間(北陸トンネル内)
・車両 下り第501列車(15両編成)
・被害者数 30名死亡、714名負傷
(2)経緯
事故当日の1時4分30秒、大阪発青森行きの下り急行「きたぐに」第501列車が定刻から2分遅れて敦賀駅を発車したこの時点での乗客数は定員804名に対して761名であった。11両目の食堂は営業を終了しており、食堂従業員は食堂車で仮眠をとっていた。このとき、乗務指導掛が食堂車後部にある喫煙室を通った際には異常はみられなかった。
図4. 北陸トンネル見取図
1時7分ごろ、敦賀駅・南今庄駅間の北陸トンネル(全長13.870 km)に約60 km/hで進入した。1時8〜9分ごろ、12両目普通車の前部デッキにいた乗客3人が焦げくさい異臭に気付いて喫煙室の引き戸を開けたところ、室内に白煙が充満しコの字型長椅子の中央下部の蹴込板の小孔から長さ20〜30 cmの炎が数条吹き上げているのを発見、このうち1人が専務車掌と乗務指導掛に伝えた。
出火の原因は長椅子の下の電気暖房器の配線が不安定な固定状態と走行中の揺れによって緩み、接続不良による漏電がもとで床木材が炭化・発火したものと考えられている。
乗務指導掛は喫煙室内に消火器を2,3回放射したが濃煙で火源も確認できず消火を断念、専務車掌は車掌弁を操作して非常ブレーキを作動させるとともに機関士らに列車を停めるよう無線で通報。1時13分過ぎごろ、列車は先頭がトンネル敦賀側入り口から5.325 kmの地点で停止した。引き続き食堂車従業員や専務車掌がバケツリレーの水かけや消火器による消火を試みたが煙の勢いは衰えなかった。1時17分ごろ、専務車掌は火源が台車下にあるのではないかと考え台車下付近を車外から確認したが煙や炎は見られなかった。
1時20分過ぎごろ、喫煙室の火災を確認しに来ていた機関士は専務車掌から消火の見通しが立たないことを聞き鎮火は困難であると判断、食堂車の前後の車両を切り離して前方の10両目までをトンネル外に走行脱出させようと考えて専務車掌に「切離しする」と告げた。専務車掌もこれに同意し、1時21分過ぎから食堂車と後続する12両目普通車との間の連結部の切離し作業を開始した。このとき、電気暖房器への通電が切られていたことや消火作業の効果によって火災の進行は比較的緩やかであった。
(↑南今庄・青森方面) |
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先頭から |
号車 |
車番 |
設備 |
乗員等 |
機関車 |
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EF70 62 |
機関車 |
機関士2名、機関助士1名 |
1両目 |
13号車 |
オハネフ12 2047 |
B寝台車 |
乗務掛1名 |
2両目 |
12号車 |
スハネ16 2619 |
B寝台車 |
公安職員1名 |
3両目 |
11号車 |
オロネ10 2048 |
A寝台車 |
乗務掛1名 |
4両目 |
10号車 |
スハネ16 2218 |
B寝台車 |
公安職員1名 |
5両目 |
9号車 |
スハネ16 2086 |
B寝台車 |
乗務掛1名 |
6両目 |
8号車 |
スハフ42 2251 |
普通車自由席 |
|
7両目 |
7号車 |
ナハ11 2015 |
普通車自由席 |
|
8両目 |
6号車 |
ナハ47 2021 |
普通車自由席 |
|
9両目 |
5号車 |
ナハ10 2019 |
普通車自由席 |
|
10両目 |
4号車 |
ナハ10 2106 |
普通車自由席 |
|
11両目 |
3号車 |
オシ17 2018 |
食堂車 |
日本食堂8名 |
12両目 |
2号車 |
スハ43 2487 |
普通車指定席 |
|
13両目 |
1号車 |
スロ62 2073 |
グリーン車 |
専務車掌1名、乗務掛1名 |
14両目 |
|
オエ10 2051 |
郵便車 |
鉄道郵便局9名 |
15両目 |
|
マニ37 2151 |
荷物車 |
荷扱専務1名、荷扱掛2名 |
(敦賀・大阪方面↓) |
表1. 急行「きたぐに」編成表
乗員等の位置は事故発生前の時点のもの。
1時28分ごろ、機関助士は敦賀口から約5.385 km地点の大型待避所内の端子に携帯電話機を接続し、今庄駅(敦賀駅も傍受)に食堂車から出火のため切離し作業中であることを通報し救援を要請した。
1時31分ごろ、専務車掌は上り列車の進入を防ぐため上り線に軌道短絡器を設置し、これにより現場から約2 km離れた上り線木の芽場内信号機の現示が「赤」(停止)となった。ここに1時33分、上り急行「立山3号」第506M列車が差しかかり、信号機を確認して停止した。
1時34分ごろ、機関士は切離しの完了を確認した。経験者が2人しかいなかったことや現場が11.5 ‰の上り勾配であったこと、トンネル内の保守作業用照明が消灯していたことなどから作業には10数分を要し、そのころには食堂車からの煙がトンネル内にも流れ始めていた。
1時39〜40分ごろ、機関士が携帯電話を接続したままの大型待避所の手前まで前部列車を70数m前進して停止させた。専務車掌は、動き出した前部列車はそのままトンネル外まで走行していくものと考え、残留車両の乗客の避難・誘導にあたることとしたが、一方の機関士は食堂車とその前方にある10両目の切離しを行おうとして誤って9両目と10両目の連結部を切離し始めた。火災は喫煙室内全体に充満してフラッシュオーバーの状態に達しており大量の煙が車外に流出し始めていたため、機関士は作業を中断し残った連結機器は列車の走行によって引きちぎろうと考えた。
1時52分ごろ、機関車に戻った機関士が指導機関士に列車を数m引き出すよう依頼したとき、激しい衝撃音とともに通電が停止した。これは食堂車の炎上によって吊架線とトンネル壁面との間、あるいは火災の熱で溶け落ちた塩化ビニール製漏水防止樋と吊架線との間に放電短絡が発生し、敦賀変電所内の自動遮断機が作動したためである。これに対して指導機関士が携帯電話で送電再開を要請したが、国鉄金沢鉄道管理局電力指令室は現場の状況を確認できないままでは感電事故などの恐れがあるとして送電を拒否した。
このため乗務員らは前部列車10両目までの乗客663名を避難誘導し、約8.5 km先の今庄口へ徒歩移動を開始した。そのうち140人はそのままトンネルを脱出し、225人が「きたぐに」の先頭機関車から約1.48 km前方まで徐行してきた「立山3号」に救助された。ここから事故現場との間には交・交セクションが存在しており、「立山3号」には別系統から給電が続けられていたのである。残りの乗客298名のうち269名は、明け方近く以降に今庄口や敦賀口から到着した救援列車によって救助された。
写真3. 救出される乗客。左は食堂車。
一方、専務車掌らは12両目以降の後部車両の乗客98名を約5.3 km後方の敦賀口へ更けて避難誘導を開始し、乗客28名が脱出した。しかし残る乗客70名は濃煙のため徒歩脱出を断念して残留車両内に退避し、3時過ぎごろ敦賀口から約4.74 kmの地点に到達した救援列車によって救出された。またトンネル内の照明も3時ごろまでにすべて点灯された。
この間にフラッシュオーバーの炎は食堂車のガラス窓から噴出して当該車両はほぼ全焼、大量の煙が現場一帯に充満した。逃げ遅れた乗客の多くは現場の前後5〜600 mにわたってばらばらに倒れているのが見つかり、順次救出されて病院に搬送あるいは死亡が確認された。
この火災で前方の1両目から10両目にいた乗客29名と指導機関士の計30名が死亡した。避難の途中で食堂車の炎上によって発生した一酸化炭素等の有毒ガスによって意識を失い、煤煙吸引によって気道の窒息症状を引き起こしたことによる。当該車両は合板やプラスチック製の内装によって軽量化が図られており、そこから大量の有毒ガスが発生していた。また男性の1人は昏睡状態に陥ってトンネル内の下水暗渠から水中に落下して溺死、11月13日になって発見された。
当該車両は事故当日の13時ごろに敦賀駅と今庄駅に分かれて収容され、現場検証ののち22時45分から上下線の運転を再開した。
(3)対策
火元となった食堂車のオシ17型で当時運用されていた6両は事故翌日からすべて使用停止とされた。本件車両とは別形式であるが、5年前の1967年11月15日には下り急行「安芸」の食堂車マシ38 2号が石炭レンジの残り火不始末のため出火、東海道本線三河三谷駅で全焼して食堂従業員2名が犠牲となる事故が発生していた。これを踏まえ、1973年度から以下の対策を施した車両が投入された。
・内装材をアルミ化粧板に交換
・貫通扉の窓ガラスを網入りガラスに交換、貫通幌を難燃材料化して隣接車両への延焼を防止
・寝台車とそれに連結する食堂車の難燃化
・消火器の設置ないしは増設
・寝台車に煙感知器、メガホン、非常用強力懐中電灯を設置
・ディーゼルエンジンを搭載した寝台車に自動消火装置を設置
・車内放送設備の整備と車内の非常ボタン等の使用制限を明示するステッカー(トンネル内では列車を自動停止させないためボタンを操作しない旨)を貼付
国鉄はそれまで電化路線のトンネル内で火災は発生しないという前提から特別な換気設備や消火設備、避難設備を設置しておらず、トンネル掘削の際に仮設された2本の斜坑(敦賀口から約2.5 kmの樫曲斜坑と同4.7 kmの葉原斜坑)と1本の縦坑(同9.8 kmの板取縦坑)は出入り口に鉄格子がはめられ施錠されていた。このうち葉原斜坑は事故現場の最も近くに位置しており、ここを利用して乗客の脱出や救急隊の活動が行われていれば被害を抑えられたのではないかという批判もある。また北陸トンネルの防災体制については事故前の1967年、地元の敦賀市消防本部が金沢鉄道管理局に対して、[1]指揮命令系統の確立、[2]列車の緊急停止方法の勧告、[3]火災・酸素欠乏に備えたマスクの常備、[4]初期消火のための消火栓や小型動力ポンプの設置、[5]緊急時の外部への連絡方法の確保を求める改善勧告を出したが無視され、十分な対策が取られなかったことが11月9日の参議院運輸委員会で明らかとなっている。これらを受けて国鉄は延長5 km以上のトンネル(在来線13箇所・新幹線7箇所)に対して以下の緊急対策を行った。
・無線通話円滑化のためのアンテナを設置
・照明設備の改良(一斉点灯装置設置)
・消火器の整備(30 m間隔で2本ずつ、など)
・両出口に最も近い駅に防毒マスクを配備
・トンネル付近にディーゼル機関車またはモーターカーを配置
・トンネル内歩行路の整備
さらに本事故では、火災発生時ただちにトンネル内に列車を停止させたことが避難と消火を困難にして被害を拡大させたのではないかとの議論が起こった。当時の国鉄では過去の教訓のもと、走行中の列車に異常があれば必ずすぐに停止させ危険がなくなるまで動かさないことが最大の安全につながるという運転規程があり、本事故現場で対応に当たった乗務員もこの規程に従っていた。北陸トンネルでは3年前の1969年にも走行中の寝台特急「日本海」で列車火災が発生しており、このときは乗務員の判断によって列車がトンネルを脱するまで運転を継続して迅速に消火することができていたが、これを規程違反とした国鉄は当該乗務員を処分したのみで規則が改められることはなかった。
同年12月から「鉄道火災対策技術委員会」によって大船工場で軽量鋼製客車の火災実験、狩勝実験線の非隧道区間で走行時火災実験、宮古線(現・三陸鉄道北リアス線)の猿峠トンネル(全長2.9 km)で隧道内走行火災実験が行われ、その結果から[1]着火車両の貫通戸・側窓・通風器・側扉を閉じることで火災の拡大を抑えることができる[2]着火車両より前の車両はほとんど影響を受けない[3]着火車両の後部貫通扉を締め切ることで後続する2両目以下は非常に安全になる[4]床が鋼製であれば床下部は火災の影響を受けず走行装置にも異常はないことが確認された。これにより1975年、国鉄は「長大トンネルにおける列車火災時のマニュアル作成要領」を策定して「運転地点、火災の発生部位、火勢等にかかわらず、そのまま運転を継続して極力トンネル外に脱出して停止させる」とし、これに準じて「運転取扱基準規程」が改正された。
6. 事故と向き合う
まず、以上に紹介したような大規模な事故が当時の社会に驚きをもって迎えられたことは言うまでもない。1951年の桜木町事故では2年前の三大ミステリー事件[4]と関連して、三河島事故では同日未明に東北本線古河駅で発生した重軽傷40名の列車追突事故が居眠り運転によるものであったと報じられたことと重なり、国鉄の体制はマスメディアを中心に社会的な批判の対象となった。同時に国鉄内部においても対立が深まっていた労使闘争の場で事故が取り沙汰されることがあった。1973年に国鉄労働組合によって発行された『安全に関する報告書』では、三河島以来の一連の事故を「われわれの要求に耳をかさず、独占資本の要求する目先き(原文まま)の利益だけを追った国鉄当局の責任である」として安全を蔑ろにした「合理化」に反対し、24項目からなる「輸送の安全を守るための要求」を取りまとめる一方でそのためには「労働者の権利、即ちストライキ権の回復なくして成功できるものではない」とも主張している。1987年の民営化以降はJR系の会社や複数の労働組合が参加した「(鉄道)安全シンポジウム」が開催されるようになり、責任追及でなく原因究明を重視する姿勢や労使を超えた安全への取り組みが目指されている。
災害情報センターの辻明彦は、過去の例から再発防止の策が幾重にも施されつつも繰り返されている事故の系譜について、以下のようにいくつかの特徴を挙げることができると述べている。
・再発防止策の処置が及ばず置き去りとなった範囲で起きた事故
・再発防止策の水準が中途半端だったため効果が発揮されないまま起きた事故
・再発防止策が裏目に出て別の危険を誘発させたために起きた事故
・危険を予知できていながら対策を打たずに起きた事故
・対策を講じることが決まっていたものの施行が間に合わず起きた事故
・装置とそれを操作する人間との協調不足により起きた事故
・原因の推定が困難だった事故
・焦りが招いた事故
・複数当事者間の相互信頼が引き起こした事故
さらに、畑村・中尾・飯野は失敗事例を体系的に整理した形で「失敗知識データベース」を構築し、インターネット上での一般公開も開始した。これは失敗発生のシナリオを「原因」「行動」「結果」の3次元に分け、それぞれの段階に関連する様々な要素を結び付けているものであり、網羅的な情報の蓄積よりも状況ごとに類似した事例の容易な検索と提供が念頭に置かれている。
7. 参考文献
きはゆに資料室「鶴見三重衝突事故」(インターネット・アーカイブより)
https://web.archive.org/web/20161102112201/http://homepage3.nifty.com/kiha/SP/anzen-5.html
(2017年4月23日閲覧)
国鉄労働組合『安全に関する報告書』(1973年)
災害情報センター・日外アソシエーツ共編『鉄道・航空機事故全史』(日外アソシエーツ・2007年)
佐々木冨泰、網谷りょういち著『続・事故の鉄道史』(日本経済評論社・1995年)
失敗知識データベース「北陸トンネルでの列車火災」
http://www.sozogaku.com/fkd/cf/CA0000605.html
(2017年4月23日閲覧)
全日本鉄道労働組合総合連合会・東日本旅客鉄道労働組合『創ろう鉄道時代─原因究明の視点を探る 鉄道安全シンポジウム』(1993年)
畑村洋太郎、中尾政之、飯野謙次著「失敗知識データベース構築の試み」『情報処理』第44巻7号pp. 733-739(2003年)
NHK戦後史証言アーカイブス「三河島列車事故」
http://cgi2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/news/movie.cgi?das_id=D0012301069_00000
(2017年4月23日閲覧)
*図1・図4・写真1・写真3は『続・事故の鉄道史』から、図2・写真2は『鉄道・航空機事故全史』から、図3は「鶴見三重衝突事故」から、それぞれ引用した。
[1] これら3つの事故は死者数が100名を超えたものとして、連絡船航路で発生した洞爺丸事故・紫雲丸事故とあわせて国鉄戦後五大事故と称されることもある。
[2] 架線柱に取り付けられた、碍子を経由して架線を支持する金属製の骨組み。
[3] 曲線で車両にかかる遠心力を相殺するために傾斜が設けられた左右レールの高低差。
[4] 1949年7・8月に相次いで発生した、下山事件・三鷹事件・松川事件の未解決事件のこと。