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JR西日本と私鉄との競合

平成28年度入学 悪キエ

 

1.   概要

JR西日本は特に関西圏において他のJR各社に比べ私鉄との競争と激しく、その発展の仕方に特徴があります。JRは狭軌、私鉄は標準軌が一般的だったため首都圏のようにJRと大手私鉄との直通運転もなく、阪神間では阪急神戸本線と阪神本線、京阪間では京阪本線と阪急京都線と私鉄と並走しているがゆえにライバル関係とならざるを得なかった。そんなJR西日本の特に東海道本線、神戸大阪京都の都市間輸送の国鉄時代からの歴史を私鉄との関わりにも触れながら時系列にそって述べたい。

 

2.   都市間輸送競争への私鉄の参加

国は1874年に大阪―神戸、1877年に京都大阪を開業しました。所要時間は前者が68分、後者は103分である。この当時は競争相手はいず、輸送の多くを独占していた。しかし、現在に至る輸送競争は1905年に阪神電気鉄道が大阪出入橋神戸三宮の開業からはじまります。

(1)路面電車だった阪神電気鉄道の暴走

阪神電気鉄道(阪神)は「電気鉄道」として蒸気機関車で客車を牽引していた鉄道院(後の国鉄)に対抗して、しかも大阪神戸の高速輸送需要に目をつけた。しかし、鉄道行政を掌握する運輸省には鉄道院に喧嘩を売ることとなり許可されないと判断、建設省に軌道法に基づく路面電車として許可をもらったのであった。ところが路面電車は道路との併用軌道を走るもので、スピードを出せるものでは本来ない。阪神の開業時の併用軌道区間全体の16%と短く、専用軌道を持つ鉄道とあまり変わらないようにもみえた。当時の軌道法では最高速度は12.9km/hだったので、阪神は阪神間を120分で結ぶというダイヤで免許をもらっていた。実際は阪神間を90分を結んでいたというのでスピードオーバーという比ではない。それにもこりず、1911年には63分にまで短縮され、当時の東海道本線の50分に迫った。この時点で表定速度は30km/hを超えている。加減を知らない速度違反で鉄道院から乗客をもぎとろうというわけである。

(2)急行をはじめて走らせた京阪電気鉄道

1910年に京阪電気鉄道(京阪)が天満橋五条で運転を開始して、京阪間の競争も運命づけられることとなった。開業当時は全線を90分で結び、2年後には80分にまで縮められた。そして1914年には日本初の急行として深夜に天満橋五条を70分で結ぶノンストップ運転を開始するのである。さらに1916年にはこの急行を「最急行」と名称を変更し24分間隔に増発。主要停車駅に停車するものを急行とするダイヤをつくった。しかし、4ヶ月後にはこの最急行はすべて急行に統一されることになり、もともと過疎地域を通っていた京阪本線でも途中駅利用者の需要を再認識するのであった。

(3)阪神間の新たなライバル出現

一方、阪神間では阪神の猛威をふるっている間に新たに阪神間の競争に加わる強者があらわれた。現在の阪急電鉄(阪急)である。箕面有馬電気軌道という名で開業し、大阪北部から宝塚までの住宅開発を成功させた現在の阪急は阪神急行電鉄と名を改め、十三神戸(筒井)を50分で結ぶ路線を完成させてしまったのだ。走行ルートは計画段階では伊丹、門戸厄神を通る北に大きく湾曲したものであったが、阪神間の短絡のために塚口、西宮北口を通るルートに変更し、伊丹線、今津線でもともとのルート上の輸送は補うものとした。これは軌道法で開業しているが、高規格だとして56km/hでの運転を許可された。また、駅間距離がかなり長く設定されていたため高速運転が可能だったといえる。沿線は国鉄、阪神に比べ山側の過疎地域を通っていたが、独自のノウハウで周辺の住宅開発を進めていった。これに阪神は黙ってられず、1921年に全線2両運転許可を得て、急行運転を開始した。それでも阪神間の所要時間は56分と阪急に勝つことはできなかった。競争に敏感になった阪神は阪神国道建設時に路面電車が併設される計画に危惧し、1925年に子会社として阪神国道電軌を設立し、計画を自らの手の内に入れた。しかし阪急は1926年には梅田十三の複々線を完成させ、阪神間を35分で運転していた。さらに1930年には専用車900形で全区間を30分で結ぶ特急を走らせた。

(4)京阪の新ルート改革

京阪は当時のルートを沿線利用客向けとし、新しく京阪間輸送用のルートの開発を手掛けた。これが新京阪、現在の阪急京都線である。新京阪は1928年に北大阪電気鉄道(十三千里山)を買収した上で天神橋(現在の天神橋筋六丁目)西院で開業し、1931年には京阪京都(現在の大宮)にまで延伸した。無論このときは京阪自身も後にこの路線が本線のライバルになるとは露にも思わなかったであろう。こうして、国鉄民営化後も輸送競争を続けることとなる私鉄たちが出揃ったわけである。

 

3.   急行電車の登場

私鉄に対抗して、1930年に国鉄も蒸気機関車牽引の快速列車の運行開始した。1934年に吹田須磨の電化が終了すると、いわゆる関西急電とよばれる料金不要の優等列車である急行電車の運転がはじまった。これは大阪神戸を途中三ノ宮のみ停車で28分で結ぶもので、普通電車とともに42系を新製して投入された。1936年に阪神が元町まで延伸したことを受け元町を急行停車駅に追加し、流線形のボディーの52系が製造された。そしてこの52系は後の117系の塗装色などに影響を与えた車両として大切に保管されている。1937年には京都まで電化され、急行の運転区間が京都神戸に引き伸ばされた。このとき京都大阪はノンストップで34分、大阪三ノ宮は25分でした。

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関西急電専用に製造され活躍した52系(http://www.wikiwand.com/ja/京阪神快速より引用)

この頃優等車を積極的に走らせるという風潮は私鉄にも流れ始めた。1933年には阪神が併用軌道を全て廃止し、全線専用軌道化した上で、全線を35分で走破する特急の運行を開始した。また電車を大増発し、4分ごとに特急と普通を運転し、「またずにのれる阪神電車」をアピールした。阪急は前述のとおり1930年に全区間30分の特急を走らせていたが、国鉄の急行運転に対抗し、1936年に三宮に高架線で乗り入れ、920形を導入して梅田まで西宮北口のみ停車の25分の特急を運行した。京阪は1934年に直通特急びわこ号の運行を60型で開始。これは天満橋から1925年に京津電気軌道から自らのものとした京津線の浜大津まで72分ノンストップ(途中集電装置の切り替えなどで停車の必要だった三条大橋駅のみ停車)で運転するという今では考えられないようなものであった。さらに度肝を抜かれるのは新京阪の超特急P-6形の登場であろうか。天神橋京阪大宮を34分で駆け抜け、あの国鉄特急燕さえも追い抜いていく姿が見られたという。

 

4.   太平洋戦争勃発から終戦後の動き

1940年代にはいると太平洋戦争が始まった。国鉄は戦時体制強化のために急行運転休止をやむなくされた。この時52系を2ドアから3ドアに改造しようという計画もたったぐらいです。結果的に改造されなかったのですが。また戦時企業統合政策により京阪と阪急が合併し、京阪神急行電鉄が発足した。こうして戦時中は輸送競争は一旦終了するのである。

1945年に日本が戦争に負けてしばらくすると、各社で優等車の運転が再開された。国鉄は1949年に京都神戸の急行運転再開。翌年に急行置き換え用として80系を新製しはじめた。阪急も神戸本線で停車駅に十三を加えた上で特急運転を復活させている。ここで阪急

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関西急電色末期頃の80

http://oimactaka.blog.hobidas.com/archives/month/200609.htmlより引用)

と書いたのも戦時中の京阪神急行は阪急と京阪に再び分割されたからであるが、京阪が手塩にかけて育てた新京阪は阪急梅田乗り入れが完了していたがゆえか阪急側に吸収されてしまったのである。これが阪急京都線の誕生であり、京阪が自らライバルをつくってしまった瞬間でもある。新京阪に都市間速達運転を担わせるつもりだった京阪は方針を変換し、1950年に京橋から七条までノンストップの特急を朝夕のみだが走らせるのであった。これは徐々に運転頻度が増え、翌年には専用車1700系投入で日中に1時間ごとに。さらに翌年には30分ごとにまで増便された。しかしそれだけでは戦えないと感じた京阪は1953年に車内にテレビを設置した1800系テレビカーを登場させ、特急のサービス向上で勝負をしかけたのだ。対し1950年代の阪神間の輸送はまだスピード勝負であった。阪神は梅田三宮を25分で走るノンストップ特急を走らせ(元町までは27分)、阪急特急の梅田三宮28分を凌駕し、国鉄急行の大阪三ノ宮24分に大きく近づいた。

ここから1970年までは各社独自の進化を遂げるのである。国鉄は米原京都電化で中距離列車との速達列車の一体化が行われ、遠方の地域の足となった。また、名古屋湊町(現在のJR難波)を走る準急と無料急行との混在をさけ、急行を快速に改名した。このとき快速の停車駅に高槻、西ノ宮(現在の西宮)、芦屋が追加され、1964年に東海道新幹線が開業すると、新駅である新大阪にも快速が停車するようになった。さらに1970年に開かれた日本万国博覧会(大阪万博)への連絡口となっていた茨木に快速が臨時停車していたのが万博終了後も継続して停車するようになったため、快速の停車駅は運行開始時のものから随分と増えたものとなった。

一方その頃、阪急と阪神は神戸高速鉄道の開通により山陽電鉄と直通運転をはじめるようになる。ただし、このときはまだ直通運転区間は短く神戸市内の乗り換えが便利になった程度のものであった。京阪は念願の淀屋橋乗り入れで大阪のビジネス街を通るようになった。さらに高架化、軌道改良、昇圧と路線改造が相次ぎ、京橋守口市の線形はほぼ直線となった。つまり、この期間で現在の私鉄路線が完成したともいえる。

 

5.   京阪神のダークホース、新快速の登場

1970年に大阪万博が終了すると、国鉄は新たな種別を京都西明石に導入した。新快速である。運行開始当初は毎時1本の途中停車駅が大阪、三ノ宮、明石で京都大阪が最速32分、大阪西明石が79分とかなりのスピードである。これが、新幹線岡山乗り入れにより余剰の急行車両の153系で運転されるようになると最高速度は110km/hにまで上昇、大阪京都を29分で駆ける破格の速さとなった。これは大阪発着の特急雷鳥を抜く光景がしばしば見られたため運行時刻をずらしたというエピソードもあるぐらいだ。

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新快速のスピードアップのはじまりとなった153系の新快速運用

http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/1978-b0cf.htmlから引用)

しかし、速さが全てではない。国鉄は運賃の値上げが度重なった上、153系はボックスシートで進行方向と逆向きに座らざるをえない客も多かった。同じ京阪間でも特急用車両として京阪3000系は転換クロスシートやカラーテレビを搭載していたし、阪急6300系も転換クロスシートであった。多少遅くても、安くて乗りごごちの良い私鉄に客が流れて行ってしまったのだ。これに対抗して国鉄は1980年に車両の改革を行うべく、117系を新調した。いまでこそ地方にとばされている117系だが、転換クロスシートで集中式冷房装置搭載、シートには枕カバーがつき、蛍光灯にもカバーがつく。登場当時の国鉄では考えられないほど高規格な車両として生まれたのである。

 

 

6.   国鉄民営化からさらなる発展

1987年に国鉄が分割民営化してJR西日本が発足すると、もともと国鉄本社直轄だった外側線が自由に使えるようになり、ダイヤを優等車待避から緩急接続に変更、新快速の外側線走行が始まった。線路容量に余裕が生じて朝ラッシュにも新快速の運行できるようになったのだ。1989年にははやくも新車221系が登場、最高速度が120km/hにまで引き上げられた。並行私鉄の運賃値上げが繰り返したこともあって、私鉄からJRに転移する客も徐々に増えていった。中でももっとも客をJRに引き込む要因となったのが1995117日に発生した阪神・淡路大震災であった。このときJRも阪神間で運行不能に陥ったが、阪急、阪神も例外でなかった。いや、実は全線復旧を果たしたのはJRだったのだ。全線が復旧したのは阪神、阪急が同年6月であるのに対して、貨物線を持つJR西日本はJR他社からの救援があり4月に復旧が完了していた。この間にJRは乗客を独占し、私鉄復旧後も続けてJRを利用する客がJRをより有利な状況に持ち込んだのだ。

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JR発足後初の新快速用の新車として産み出された221系、今は東海道本線では快速として運用される。

 

 

7.   震災後から現在まで

1995年の震災からいち早く復旧したJRは、不通私鉄からの乗客吸収のため、複々線の大容量な線路を利用して高速・頻発運転を徹底した。このとき車両増量のために急遽つくられたのが223系である。最高速度は130km/h。京都−大阪を2710秒、大阪−三ノ宮を1950秒で結んだ。しかも、震災の被害の大きかった阪神間の住民が明石、姫路方面へ移住するようになったことも姫路まで直通運転するJRの乗客確保に貢献した。

震災復興後もJRのスピードにかなうものはいなかった。私鉄はJRとは逆にこまめに停車することで乗客を拾う傾向が大きくなった。例えば、阪神は1998年に山陽姫路から阪神梅田まで直通する直通特急の運転をはじめたが、停車駅は多い。阪急神戸線は震災後、JR摂津本山に近接する岡本に特急を停車させ、普通の六甲での特急待避を解消、きれいな緩急接続ダイヤとなり普通の利便さを向上させた。また、2006年にJRさくら夙川が開業すると夙川にも特急を停車させるなど対抗心を燃やしている。京都線も2001年に特急の停車駅を大幅に増やし、十三−大宮間の所用時間はノンストップ時代より5分伸びた。京阪も同様に2003年の種別改革で特急の停車駅が大幅に増加している。

しかし、スピードを追い求めるあまりJR2005年に悲劇を起こしてしまったのは忘れてはならない。阪急宝塚線と同じ大阪−宝塚を結ぶ福知山線でも私鉄への意識は大きく、東海道本線同様、十分な停車時間、折り返し時間が用意されていなかったと指摘された。これを機にJRは余裕時分を見直し、京都−大阪は2820秒、大阪_−三ノ宮は2050秒と所有時間を1分程度引き伸ばされた。ただし新快速の130km/h運転は継続された。

脱線事故を受け、お客様への安全を一番に考えなければならない改めて気づかされたJR西日本は2010年に223系の後継車として新車225系を製造する。221系からコンセプトとしてきた「明るく、静かで快適な乗り心地」を継承しつつも、運転席の強度を相対的に弱くして客車を衝撃から守る「ともえ投げ方式」を独自に開発するなど各種の安全対策を盛り込んだものとなっている。この225系も2011年にはグッドデザイン賞を受賞し、関西のカオになるほど広く運用についている。

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新快速130km/h運転の先駆車となった223系(左)とその後継車の225系(右)

 

 

8.   現在の京阪神間の姿

JRと私鉄の国鉄時代からの競合も、JRの高速輸送と私鉄の地域輸送という形で落ち着いたように思えます。では、現在の各社ダイヤを見てみることにしよう。なお、平日日中の大阪を起点にした場合である。

 

阪神間

大阪(梅田)から神戸(三宮)間では両端駅がJR、阪急、阪神で近いのでこの2 駅間で比べる。各社の優等種別は全区間で急行運転をし、各駅停車も全区間で運転される。これより比較対象はこの区間で日中運転されるすべての種別とする。

 

JR神戸線:全15駅(新快速の最高速度130km/h、快速の最高速度120km/h

 大阪三ノ宮(運賃:大阪から三ノ宮、神戸まで410円)

  新快速:大阪から三ノ宮まで23分(1時間に4本、途中1駅停車)

  快速:大阪から三ノ宮まで29分(1時間に4本、途中5駅停車)

  普通:大阪から三ノ宮まで38分(1時間に8本)

 

阪急神戸本線:全16駅(特急の最高速度115km/h

梅田−神戸三宮(運賃:梅田から神戸三宮まで320円)

 特急:梅田から三宮まで27分(1時間に6本、途中4駅停車)

 普通:梅田から三宮まで44分(1時間に6本)

 

阪神本線:全32駅(特急の最高速度106km/h

梅田−神戸三宮(運賃:梅田から神戸三宮まで320円)

 特急(直通特急):梅田から三宮まで31分(1時間に6本、途中6駅停車)

 普通:梅田から三宮まで76分(1時間に6本)

 

ここから読み取れるのはスピードを求めるなら圧倒的にJRの新快速ということだ。しかし、これは京阪間にもいえることだがJRは私鉄と比べ運賃が高い(これでも特定区間運賃が適用されているのでかなり安くなっている)。停車駅、所有時間から快速は私鉄特急と近いものだといえる。快速も含めればJRの運行頻度は大きいので急いでいる人は多少高くてもJRを使うかもしれない。阪神は途中に駅が多く沿線住民をこまめに拾う傾向が大きい。逆にJRと阪急は駅数が少なく普通でもそこそこ速い。これにより優等種別停車駅でなくても駅間のスムーズな移動が可能です。また、JRと阪急の優等種別の停車駅がかぶらず、新快速が尼崎に停車すると思えば阪急特急は尼崎市に停車駅がない。新快速は西宮市内には停車せず次の停車駅は芦屋だが阪急特急は西宮市内の駅には全て停車するかわり芦屋市内に停車駅はない。JRの快速すら停まらない摂津本山に近接する岡本に阪急特急は停車する。このように市ごとに棲みわけもなされているともいえます。阪神特急は途中全ての市に停車駅を持つのでその点周辺住民には使われやすいのかもしれません。

 

京阪間

大阪から京都ではJR大阪と阪急梅田が近い以外はJRと私鉄のターミナルが異なるため比較が難しく、また京阪は走行ルートも他の2 つとは大きく異なるが優等種別が2つあり、そのうち片方が途中から各駅停車になることは共通しているのでこれらで比較します。

 

JR京都線:全16駅(新快速の最高速度130km/h、快速の最高速度120km/h

 大阪−京都(運賃:大阪から京都まで560円)

 新快速:大阪から京都まで31分(1時間に4本、途中2駅停車)

 快速:大阪から京都まで42分(1時間に4本、途中9駅停車)

 

阪急京都本線:全27駅(特急の最高速度115km/h

梅田−大宮−河原町(運賃:梅田から大宮、河原町まで400円)

 特急:梅田から河原町まで43分(1時間に6本、途中7駅停車)

  準急:梅田から大宮まで60分、河原町まで64分(1時間に6本、途中19駅停車)

 

京阪本線:全40駅(特急の最高速度110km/h

淀屋橋−三条(運賃:淀屋橋から三条まで410円)

 特急:淀屋橋から三条まで50分(1時間に6本、途中9駅停車)

 準急:淀屋橋から三条まで85分(1時間に6本、途中28駅停車)

 

京阪間の場合、京阪が他とは明らかに異なる走行ルートを通っているうえにターミナル駅も異なるので、そもそもの需要が違うともいえますがJRと阪急は並走区間が多く停車駅すら似通っているため今でも競合しているともいえます。特に今まで新快速が通過していた茨城駅を停車駅に加えるという決定は阪急特急が茨木市駅に停車するのを意識してでしょうか。いくら高速な新快速にも並行私鉄を閉口させられるほどの余裕はないようです。

 

 

9.   最後に

鉄道は我々が毎日通勤、通学あるいは買い物に行くのにはなくてはならないもの。距離はとても長いはずの都市間をうんと短く思えるのも今でこそ発達した鉄道のおかげでしょう。しかし、ただ速いだけが全てではなく利用者にとってどれほど便利で、また快適かがその路線を使ってもらえるかが決まります。数多くの鉄道会社が林立する関西圏では互いにライバルとなり、乗客獲得競争が意図せずもおこったため独自のサービスが発達しやすかったといえます。これは関西が鉄道王国といわれる所以でもあります。JRも例外でなく、国鉄時代からの試行錯誤の末、他地域には類を見ない新快速があり、225系があるわけです。もちろん私鉄との競合は終わることはないでしょう。これからどんな新しい要素が産み出されてくるのか楽しみである。

 

10. 参考文献

黒田一樹『すごいぞ!私鉄王国・関西』(株式会社140B2016年)

JR神戸線 普通・快速」

                http://www.yline-w.com/tnote/k/KKb01.html2017330日閲覧)

「鉄道トリビア」

                http://news.mynavi.jp/series/trivia/103/2017330日閲覧)

「国鉄鉄道組織名の変遷」

                http://highland.hakuba.ne.jp/~natsume/kamotsu/fchistory/jnrgover.htm201744日閲覧)

「大阪駅進化論」

https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/05_vol_103/history.html201744日閲覧)

JR西日本vs私鉄〜バトルの真相 - レイバーネット日本」

                www.labornetjp.org/NewsItem/20050525m1/

「私鉄とJRの競合区間」

                www.geocities.jp/umemotsu912/s-hikaku3.html201747日閲覧)

「関西私鉄ストーリー」

                http://www.ne.jp/asahi/mulberry/mt/kansai/story51.htm201747日閲覧)

「中川浩一の関西圏鉄道史」

                http://ktymtskz.my.coocan.jp/kansai/kintetu.htm201748日閲覧)

 

*写真は特記以外全て筆者が撮影した。


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